2013年3月4日月曜日

It's not your fault君は悪くない



ーー症例 望さん

「過食を伴う拒食症」の希さんは、母親似ずっと暴行などの虐待を受けてきました。
殺されそうになったこともあります。


母親は一応世間体を気にして望さんの治療に同伴してきましたが、
「三人子どもを産んで、病気になったのは、この子だけです。


 上の二人はちゃんと育っているのですから、私の子育ての問題ではなく
 この子ができそこないだということでしょ」などと望さんの前で言ってしまいます。
また「この子を生んだのは失敗だった。だから子どもは二人でいいって、主人に言ったんですけど」
と、これまた望さんの目の前でため息をつきます。

望さんは目に涙をためて聴いていますが
後で「母はいつもああなんです」と言います。


そして、母親は
「もう時間の無駄だから望のために病院になんか来ません。
 病気で死んでくれたら、かえって助かります」と治療にも姿を現さなくなりました。

望さんは「実の母親にここまで嫌われるなんて、私はやっぱり出来損ないの人間なんだ」と言い、
母親に愛されない限り自分の病気は治らないと思い込んでいました。



あまりに攻撃的な母親。

今度は父親を連れてくるよう希さんに頼みました。
単身赴任をしていて事情を把握していない父親でしたが
面接に同席することで現状を知っていきました。



「今の妻は、とても病気の子どもの面倒を見られる状態ではない。
 親として許されないことを望に言ってしまう」ということに気づきました。



父親は、母親から離れたところで希さんが安心して暮らせるように
したい、と家を出て、希さんと二人でマンション住まいを始めました。


希さんは、父の経済的・物理的負担に罪悪感を抱きましたが
父がそこまで真剣に自分のために動いてくれたことに感動もしていました。


希さんのコミュニケーションの練習などは父親と行い、進歩しました。
また、母親については「温かい母親として自分を愛してくれる」
という期待を見直しました。

「温かい母親像」にお別れをして、できることしかできない実物大の
母親として認められるようになりました。





 

■「自分が何か悪いことをしたのだ」と感じる子ども


…上記の例は、望さんに落ち度はあるのでしょうか?
違いますよね。お母さんの残念な人間性を望みさんが背負ってしまっているのです。

客観的にみれば、「こっち(自分)じゃなくて、あっち(相手)が悪いに決まっている」と思えるような状態でも「こっち(自分)が悪いんだ…」と
すべて、自分の欠陥として受け止めてしまって、ダメージを受けて精神的に病んでいってしまう人が居ます。

なぜ、そういう人たちは、「全部自分が悪い」と思ってしまうのでしょうか?
そこには「自他の境界線の問題」を抱えた人との関わりから受け継いでしまった対人関係パターンが大いに影響しているのです。




言葉の暴力で痛めつけられた子どもと同様、肉体的暴力で痛めつけられた子どももまた、
親がそのようにするのは自分が何かいけないことをしたからなのだろうと感じている。

こうして、自分を責める性格はやはり、幼い頃にその種を植え付けられてしまうわけだ。
小さな子どもにとって「親が間違っていて自分は間違っていない」と考えるのはとても難しいことだ。
そこで、子どもは親の2つの嘘を信じることになる。



ひとつは、「自分は問題のある悪い子だ」ということ、
そしてもうひとつは「親がぶったのはそのためであり、親のほうに問題があったわけではない」ということである。


この二つの嘘は、親から暴力を振るわれて育った子どもの多くが、
成人後もなかなか消すことの出来ない意識となって心の中に残ることになる。


こうしてその子どもはなかなか人の愛情を信じることが出来ず、また「自分は悪い子」という自己嫌悪が消えない。


そして大人になっても「人間関係がいつもうまくいかない」、「自分に確信が持てない」「自分は駄目な人間」、「不安や恐れ強い」「行動力がない」「特に理由がないのにいつも腹が立っているような気分がする」「自分は幸せにはなれないに違いないと思う」などの問題を抱えるようになる。


子どもが成長して身体が大きくなってくるに従い、いつかは親の暴力もやむときが来る。
だが、精神的な虐待は大人になってもなくなることはない。





ただし、大人になってからのそれは、自分で自分を痛めつけるようになっている、という点が違っている。















◇「境界線問題」は受け継がれて行く



■「境界線問題を抱える人」からの汚染

幼い子どもにとって親は絶対的存在です。
ですから、ほぼ神に等しい存在です。

子どもからすれば神である親が自分に向けてしてくることに
間違いや気まぐれがあるはずはありません。
親が自分に対して力による支配を行えば
それはそっくりモデリング(模倣)され、内在化されます。


こんな説明も出来ます。
親が親自身の感情の不安定さから子どもに当たったり冷たく扱ったりしたとする。
すると、子どもは神に制裁を受けたのですから
何か自分が悪いことをしたに違いないと考えます。
しかし、いくら自分のやったことを振り返ってみても
何も思い当たることがないので混乱する。



そういったことが繰り返されているうちに
子どもは子どもなりに精一杯考えて、ある理由を思いつきます。


それは
「自分が生まれてきたこと自体がわるいことなのだ」というものです。
これが自己否定の機嫌です。



つまり、神である親を否定しないために
また親との関係を良好に保つために
自己否定が行われるのです。


ですから、自己愛の障害を持っているクライエントの
その自己否定の根拠を徹底的に探っていっても否定の出発点のところには
自身を否定すべき何の理由も見つからないのです。

つまり、はじめに自己否定そのものが作られたのであって
そこから二次的に自分自身のあら探しを行ってきたに過ぎない。



何も悪くないのに、全て自分の責任と思わされる(自己関連付け)ことを強要されて、そのカラクリに気づかずに
苦しい人間関係を送っている人たちが取り組むべき治療について考えるのなら、
「境界線問題を抱えた大人たちから苦しい対人関係パターンを受け継いでしまった」というところから、治療を始めなければならないと思う。



「あなたは何も悪くない」んです。




 







■「自分の問題」と「他人の問題」を区別する


心の病になる患者は他人との「境界線」の問題を抱えた人が多い。
何か問題に直面したときに、それが自分の問題なのか相手の問題なのか区別できていないということです。


たとえば、
夫の機嫌が悪いとき
「仕事で何かあったのかな」と思えばストレスにならないが
「自分が何か悪いことをしたに違いない」ととらえると大きなストレスになる。

つまり、夫の機嫌が悪いという同じ現象に直面した場合に、それを「相手の問題」ととらえるか
「自分の問題」ととらえるかによって、
受け取るストレスがまるで違ってしまうと言うことです。


心の病になる方は
多くの事を「自分のせい」と受け止めてしまいまし、

うつ病などになると、そういう傾向がますます強まります。


「相手の問題」と突き放すのは冷たいのではないか、
と思われるかもしれませんが実際には「相手の問題」としてとらえたほうが
私たちは優しくなれます。


「自分のではないか…」と思い込むとき
実は私たちは自分のことばかり考えています。


「自分は何かまずいことをしただろうか」
「自分は相手に嫌われたのではないか」というような
ことばかりを考えてしまい、意識が相手に向かなくなり
結果的に相手の立場に立って考えてあげることが出来なくなってしまう。
また、自分自身の悩みを話したら、相手が「私のせいね」と反応する、
というのも、かなり重苦しい状況です。
いちいちそんなふうに反応されてしまうと、相手に気を使わなければなくなり、
悩み事など相談できなくなります。





 

 

 

■親の境界線の問題


このような問題を抱える人は
どのような環境で育っているのか、というと親も境界線の問題を抱えていることが多い。

自分自身が「境界線」問題を抱えていると
往々にして同じ視点を子どもに求めます。


「あの人の機嫌が悪かったのは、あなたが何かしたからではないか」
というようなことを言われ続けて育つ子は、当然のこととしてそのような視点を
自分でも身に付けていきます。



一方、「あの人は不機嫌で辛そうね。何かあったのかしらね」と
親が言うのであれば、子どもも同じようにとらえるようになります。

また、何か言うたびに親が「お父さんのせいだと言うのか?」というふうに自分に関連付けて反応してしまうような環境では、子どもは常に「こんなことを言ったら相手にどう思われるだろう」と心配するようになります。



つまり「自分の発言」ができなくなるのです。


治療の中で患者さんに自己表現の練習を始めてもらうと、練習相手である家族が
「そんなふうに受け取られるなら、もう何もいえない」と逆切れしてしまうということが時々あります。


これも実は「境界線」問題です。


患者さんがどう感じたとしても、それが患者さんの気持ちなのです。
家族が言ったことを患者さんが誤解したのであれば誤解を正せばよいだけです。

最初から相手に性格に理解して欲しい、と思う人は
まさに「境界線」問題を抱えています。
親子でも、夫婦でも、他人なのですから、受け止め方は違っていて当たり前で、
それを調整するためにコミュニケーションがあるのです。




よくDVや虐待の加害者が
「相手が自分を怒らせた」という言い方をしますが
これも「境界線」問題の顕著な例の一つです。

自分を怒らせないように気を使うのは相手の責任、というような考え方は
まさに「境界線」の深刻な障害であると言えます。



暴力の加害者にも関わらず「お前が怒らせたせいだ」と言われてしまうと、
本来自分の責任ではないことまで
自分の落ち度だと感じてしまい、自尊心が低下します。



そして、「相手を怒らせないように気をつけなければ」と
境界線の引けないコミュニケーションパターンを続けてしまうことが多い。




 


■「自分の問題なのか、相手の問題なのか」

たとえば、「人が信用できなくなり、自分に笑顔で話しかけてくる人も、本当は陰で自分の悪口を言っているのだろうと思い込んでしまうように」なって、
不安を常時抱えているというのは、まさに自分の「足りないところ」探しの一つの形です。
その「足りなさ」は、「自分には相手が信用できる人間かどうかを見分ける力がない」と感じられることもあれば
「自分は相手から裏切ってもかまわない程度の人間だと思われている」と感じられることもあります。

突然の裏切りという衝撃を受ければ、誰も信用できないという気持ちになるのは当たり前の反応。
しかし、その反応に巻き込まれることで病んでになっていくのは自分です。

「自分の問題なのか、相手の問題なのか」という視点を常に持っていれば、
少なくとも自分側の姿勢は固めることができます。
「私の人間関係のスタイルは、この通り。これは常識的なもので、普通の人に対しては問題なく通用するもの。
 それが通用しない場合は、相手側に難しい事情があるのであって、私が「足りない」というわけではない、と割り切ることも大切です。

 






■前向きな諦めーー他人をコントロールすることはできない

必要なのは、新たな基準を作ることです。
まず、おさえておきたいのは、他人を100%コントロールすることはできない、という事実です。
どんな人にもそれぞれの事情があります。


持って生まれたもの、今までに抱えてきたこと、今現在おかれている状況など、さまざまな事情の中、努力してもその程度にしか振舞えない、
ということが現実なのです。
陰口を叩くというのは、健康な人間が好んですることではありません。


そんなことをするというからには、何らかの難しい事情があるはず。

このような人の言動をコントロールするのは、まず不可能なことです。

かなり難しい事情を抱えているらしい人が不適切な言動をすることを「自分が裏切られた!」ととるのか、
単に「この人は相当病んでいるな」ととるかでは、自分についての感じ方がたいぶ変わってくるでしょう。



もちろん前者の捉え方では、心がボロボロになっていきます。


裏切られることそのものが心を傷つけますし、すでに起こっているその後の現象(他人や自分を疑いながら生きる)は、
なかなか脱出することができない悪循環を作ってしまうこともあります。


そんな中で、常に心身が緊張し、自信を持てない上に、実際には豊かで温かい関係性を持てているすら相手すら疑う、ということにもなりますので、
本当に消耗しますし、よい人間関係を楽しむという人生の重要な側面を断念しなければならなくなってしまいます。

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