2013年12月17日火曜日

娘の初彼氏に動揺しまくりの父親たちの思考の予測






「中2の娘が彼氏の話をしていてショックで1時間トイレにこもっていた父親」の話。


おいおい、おやじさんよ。
あんたが何人か付き合った女性そして何人か突き合った女性の数だけ、彼女達の父親に、同じようなショックを与えてきたんだぜ、あんたも。
ブーメラン、因果応報、what goes around , comes around。

強いて学んだ事があるとすれば「当事者になるまで分からないことが世の中には多すぎる」ということでしょうか。


そして、誰かが幸せになるベースには誰かが傷を負うのは避けられない仕組みになっているのでしょう。


さらにいえば、こういう場合、自分が与えたダメージは棚に上げて自分の受けたダメージにしか思いを馳せられない種族なのが父親と言う関門の難しさなのかもしれない。

2013年12月7日土曜日

TPP参加における国民皆保険のもうひとつの危機



日本がTPPに参加することによって日本国内でもGMOが当たり前になる環境が整うのはほぼ間違いないようです。






 

■GMOのリスクを国費で賄わされかねない日本の皆保険制度


GMO(遺伝子組み換え作物)は日本の皆保険と相性最悪だと思う。

あと20年くらいで皆保険を止めるのなら話は別かもしれないけれど、
欧米(というか日本以外)は皆保険ではない。
ここに味噌があると思っていて、保険に入れる階層とGMOを口にしなくても良い階層とは一致する。
つまり稼ぎがあるということ。
そして逆を考えれば基本的にGMOの食糧を食べる階層の人々、食べざるを得ない階層、それの危険性を気づかずに幸せな食事をする階層、というのは保険に入れない階層と一致するのでしょう。
つまり、稼ぎが低いということ。

で、GMOを口にせざるを得ない人々は保険に入れないので、医療を受けられずに最悪、死んでいく。
これはこれで大きく考えれば理に叶った因果応報だと言えなくも無い。

そして、問題なのは、皆保険の日本。
すなわち、GMOを口にするせざるを得ない階層の人たち(BOP層)も保険(税金)を使った医療での治療対象になる可能性が高い、ということ。

皆保険の無い国ではGMOは、ある意味で優秀な遺伝子だけが残っていくというダーウィン的な世界を築くための布石と考えることも出来る。
(お金があるから優秀と言えるかどうかは微妙だけど一応のフィルターとしては使えると思う。)
しかしながら、日本においては、皆保険を採用している限りは、GMOのリスクを税金で賄わされることになってしまう。
他の国では、GMOのリスクを個人の責任として扱えるのに、皆保険がある国では、なんと、税金がそのリスクを背負わされてしまうのではないかと思ってしまう。









いつかの朝生で「ブラック企業の本質は従業員の健康問題を国費に転化していることだ」と勝間さんだったかが言っていたのを思い出した。

本来ならブラック企業が行うべき従業員へのケアを(うつ病や自主退社などに追い込み)国の社会保障費でやってくれというパターンと、GMOと国民皆保険制度との関係が何か相似なような気がしている








もちろん、TPP参加における皆保険の懸念は製薬会社系が中心らしいですけどね



甘いものの食べすぎで糖尿病からの透析。みたいなものに国費を投入する意味はあるのか。
皆保険制度こそが人々を駄目にしているのでは。
医者が増えるほど病人が増える。

2013年11月9日土曜日

夢の扉 がん治療の緩和に漢方


 

■大建中湯(だいけんちゅうとう)

がん治療の現場では開腹手術の後、腸管運動を促して腸閉塞を予防。
そのために大建中湯が処方されてきた。


山椒
乾姜(かんきょう)(生姜を蒸して乾燥)
人参

を調合。


腸を整える。

ラットの腸管が動く。五分で蠕動運動が始まった。

乾姜は大腸の血流を良くすることで蠕動運動を促す。

神経の細胞膜には細胞の興奮を抑えるタンパク質がある。
このタンパク質の働きを抑制する、つまり細胞を興奮させやすくしているのが山椒に含まれる成分。


乾姜と山椒との相乗効果。

ただ、「乾姜+山椒」よりも「人参+乾姜+山椒」の方が蠕動運動が大きかった。
しかしながら、人参単独では蠕動運動を起こせない。


漢方の神秘。
食用の山椒と医療用の山椒は別物。





 

■六君子湯(りっくんしとう)

抗がん剤治療の際の、食欲増進や吐き気の解消。
グレリンという胃から分泌されるホルモンが食欲を増進。
六君子湯はグレリンの分泌を促進する働きがあることは以前から知られていた。


ただ、グレリンが分泌されていなくても食欲が湧く場合がある。

グレリンを出すだけでなく受け手側の感受性もあげているのでは?
少量のグレリンで食欲増進されるのでは。
六君子湯はグレリン受容体の感度も上げているから、食欲が増進するのでは?


実験の結果、グレリン受容体は六君子湯の感度を上げていた。


漢方を解明するごとに無限の可能性が。

生薬のひとつひとつは低濃度であまり作用がないのに組み合わさることで本当に大きな作用を持つ。
これは非常に大事なことで低い濃度であると言うことは副作用が少ないと言うこと。
医療のパラダイムを変えるのでは?


FDAも漢方を開発治験薬として認定している。

japanese kanpou medicine

2013年11月8日金曜日

ホンマでっかTV 11月6日 ビールゴーグル効果



■ビールゴーグル効果


男性はビール3L飲んで酔わないと、普段綺麗とも何とも思わない女性を綺麗と錯覚しない。
女性はちょっと酔っただけで相手の魅力も年齢も判断が付かなくなる。
平衡感覚とか空間認識能力は女性の方が低い。
平衡感覚が失われる→勘違い。
酔っ払うと平衡感覚が失われる。
スキー場で恋がおきやすいのは平衡感覚が乱れるから。
平衡感覚が失われる→シンメトリーがはっきり判断できなくなる。



■身体の状態と同じ感情が後からついてくる!?

身体がクラクラすると感情もクラクラする。
身体の状態が咲きに合って感情は後からついてくる(吊り橋効果的な)
ドキドキした身体の状態になると人を好きになり易くなる。



■世話を焼く人ではなく焼かせる人がモテる!?

・世話を焼く人→良い人。けど好かれるのは世話を焼かせる人。
・世話を焼かせる人→好かれる


知らぬ間に増えていった荷物も
まだなんとか背負っていけるから
君の分まで持つよ
だからそばにいてよ
それだけで心は軽くなる
(GIFT・ミスチル)
自己効力感。自分にはこれだけの価値があるんだとかんじさせてくれる人が人には必要。





 20~30代女子の約5割が復縁している!?
・出会うきっかけがここ20年で職場・学生からの知り合いが増加
・街中で知り合うナンパなどの出会いが減少
・女性が身構える傾向があり出会っても成立しない事が多い

36歳以降に出会って結婚する確率は4.6%!?
・昔の恋人と復縁する方が結婚までいく可能性も

2013年11月2日土曜日

ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく 堀江 貴文 ダイヤモンド社











ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく











内容紹介

誰もが最初は「ゼロ」からスタートする。
失敗しても、またゼロに戻るだけだ。
決してマイナスにはならない。
だから、一歩を踏み出すことを恐れず、前へ進もう。
堀江貴文はなぜ、逮捕され、すべてを失っても、希望を捨てないのか?
ふたたび「ゼロ」となって、なにかを演じる必要もなくなった堀江氏がはじめて素直に、ありのままの心で語る、「働くこと」の意味と、そこから生まれる「希望」について。


【本書の主な目次】
第0章 それでも僕は働きたい
第1章 働きなさい、と母は言った──仕事との出会い
第2章 仕事を選び、自分を選ぶ──迷い、そして選択
第3章 カネのために働くのか?──「もらう」から「稼ぐ」へ
第4章 自立の先にあるつながり──孤独と向き合う強さ
第5章 僕が働くほんとうの理由──未来には希望しかない
おわりに



~~~~~~~~~~~~無料公開分~~~~~~~~~~~~~~~~~~




すべてを失って残ったもの

 久しぶりに嫌な夢を見た。
  周りのみんなが離れていく夢だ。
  みんなが足早に歩いている。具体的な誰が、というわけではない。顔の見えない「みんな」が背中を向け、僕の元から去っていく。「おーい、待ってくれ! おいていかないでくれ!」。どれだけ大声で叫んでも、その声は届かない。まるで僕なんか存在しないかのように、すたすたと歩いていく。僕だけが取り残されて、その場に立ちつくす……。
  全身汗だくになって目を覚ましたとき、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。たった3畳しかない殺風景な畳部屋と、見慣れぬ白い天井。粗末な煎餅布団の隣には、小さな机が置かれている。ここでようやく我に返った。そうだ、僕は3日前にこの長野刑務所に収監されたのだった。2011年、6月末のことだ。言い渡された刑期は2年6ヵ月。それがどれくらいの長さなのか、当時の僕にはまったく想像がつかなかった。

 2000年代の前半、僕は時代の寵児と呼ばれていた。
  学生時代に起業したIT企業が、27歳を迎えた2000年4月に東証マザーズ上場。そして2004年には当時の近鉄バッファローズ買収に名乗りを上げ、メディアに大きく採り上げられることとなる。続く2005年にはニッポン放送の筆頭株主となり、特にニッポン放送の子会社だったフジテレビとの関係については、日本中を巻き込むほどの大騒動となった。
  当時、僕のことを毛嫌いする中高年層が多かったのは事実だ。生意気だとか、強欲な金の亡者だとか、ITなんて虚業だとか、さまざまな批判を浴びた。
  しかし、批判と同じかそれ以上に、若い世代からの支持を得ていた実感があった。たとえば、近鉄バッファローズ買収騒動のなかで生まれた「新規参入」という言葉は、その年の流行語大賞のトップテンにランクインした。さらに、ニッポン放送の株式取得にあたって僕の語った「想定内、想定外」という言葉は、その年の流行語大賞で大賞を受賞した。起業家ブームの象徴として、「あこがれる経営者」ランキングで日産のカルロス・ゴーン氏に次いで2位に選ばれたりもしていた。
  ネットユーザーからは「ホリエモン」と愛称で呼ばれ、2005年に出馬した衆議院選挙では、たくさんのボランティアスタッフや若い有権者の熱い支持を実感することができた。選挙には敗れたものの、会社は相変わらず順調で、なにも問題ないように思えた。さらに大きな夢を実現しようと、ひたすら前に進んでいた。
  ところが、翌2006年の1月。僕は東京地検特捜部から強制捜査を受け、証券取引法違反の容疑で逮捕されることとなる。ライブドアの前身である有限会社オン・ザ・エッヂを設立してから、ちょうど10年目のことだった。

 その後、2年6ヵ月の実刑判決を受けて刑務所に収監された僕について、「ざまあみろ」とせせら笑った人もいれば、「これでアイツも消えてくれる」と胸をなで下ろした人もいるだろう。あるいは「かわいそうだ」と同情してくれた人もいるかもしれない。
  たしかに僕は、すべてを失った。
  命がけで育ててきた会社を失い、かけがえのない社員を失い、社会的信用も、資産のほとんども失った。
  まだ判決も出ていないうちから犯罪者扱いされ、メディアはここぞとばかりにバッシングをくり返し、「ホリエモン」は欲にまみれた拝金主義者の代名詞となった。手のひらを返すように、僕の元から離れていった人たちも大勢いる。
  さらには実刑判決を受け、刑務所送りとなる。テレビ局やプロ野球球団の買収にまで名乗りを上げた数年後には、独房に閉じ込められ、高齢受刑者の下の世話をしているのだ。誰がどう見ても、これ以上ない凋落ぶりだろう。
 「刑務所の中で、どんなことを考えていましたか?」
 「刑期を終えて出所したら、最初になにをやりたいと思っていましたか?」
  出所後のインタビューで、よく聞かれる質問である。僕の答えはこうだ。
 「早く働きたい、と思っていました」
  ひっそりと静まりかえった、長野刑務所の独居房。僕の脳裏に、恨みや絶望といったネガティブな感情がよぎることはなかった。強がりでもなく、善人ぶっているのでもなく、これは嘘偽りのない話だ。
  収監されてから仮釈放されるまでの1年8ヵ月間、僕の心を捕らえて放さなかった言葉、それは次のひと言に尽きる。
 「働きたい」
  そう、僕は働きたかった。とにかく僕は働きたかったのだ。



嗚咽号泣した孤独な夜

 ライブドアの経営者時代はもちろん、出所後の現在も、僕は分刻みのスケジュールで働いている。長野刑務所に収監されていたときも同様だ。刑務所から与えられた介護衛生係としての仕事を淡々とこなす一方、メールマガジン用の原稿執筆など個人的な仕事にも力を入れてきた。刑務所まで面会にきてくださった方に「なにか差し入れしてほしいものはある?」と聞かれ、思わず「仕事!」と即答して呆れられたほどである。
  いったいなぜ、僕はそこまで働き続けるのだろう?
  働く理由なんて、深く考えたことはなかった。「働くことに理由はいらない」「働くなんて当たり前」。シンプルにそう片づけてきた。しかし、ある出来事をきっかけに、僕は自分が働く意味について深く考えるようになる。

 証券取引法違反の容疑で逮捕された、2006年のことだ。

 東京拘置所に身柄を拘束され、東京地検特捜部の担当検事からの取り調べを受けていた僕は、徐々に神経を磨り減らしていった。取り調べそのものがつらいのもあったが、それ以上に苦しかったのが、終わりの見えない独房暮らしだ。
  無罪を主張し、容疑を否認しているうちは保釈が認められない。そして僕のような経済事件の被疑者は口裏合わせを封じるためか、すべての人間との接見が禁じられ、担当弁護士としか面会できない。
  逃げ場のない独房の中、誰とも会話することなく、なにもしないで暮らす日々。言葉にするとなんでもないことのようだが、これがどんなに耐えがたいことか。
  たとえば独房のドアは、内側から開かないしくみになっている。部屋の中から見ると、ドアノブさえついていない、ただの鉄板だ。食事を通す穴は、ドアの横に小さく設けられている。さらに、独房には時計がなく、室内に設置されたトイレもむき出しだ。そんな閉鎖環境で誰とも話すことなく過ごしていると、さすがに精神がやられてくる。
  僕は少しずつナーバスになり、睡眠薬や精神安定剤に頼ることが増えてきた。
  こんな状態が延々と続くくらいなら、いっそ検察の調書にサインしてしまおうか。「違法性の認識はなかったけど、結果的に違法行為と見られても仕方ないことをした」くらいだったら認めてしまってもいいんじゃないか。それで執行猶予がつくのなら、決して悪い話じゃない。無罪を主張したところで、どうせ裁判で勝ち目はないだろう。なんといっても、調書にサインすればここから出られるんだ。ひとりきりの独房はもう嫌だ……。そんなふうに心が揺れることもあった。明らかに追いつめられ、情緒不安定になっていた。
  そんなある日の夜だった。
  目が冴えてしまい、布団に入ってもまったく眠気がやってこない。早く寝ようと思うほど、精神が高ぶってくる。そのまま何時間も悶々としていたところ、刑務官の規則正しい足音が歩み寄り、ドアの前で立ち止まった。……うなり声が漏れてしまったのか。深夜の拘置所内に、一瞬の静寂が流れる。すると刑務官は、食事用の穴から囁くように語りかけてきた。
 「自分にはなにをしてあげることもできないけど、どうしても寂しくて我慢できなくなったときには、話し相手になるよ。短い時間だったら大丈夫だから」
  ぶわっ、と涙があふれ出た。
  頭まで布団をかぶり、声を震わせながら泣いた。泣きじゃくった。
  顔を見なくてもわかる。声の主は、独房から面会室までの間を何度か誘導してくれていた、若い刑務官だった。名前なんて知らないし、知りようがない。でも、その精悍な顔立ちと穏やかな声は、いまでもはっきり覚えている。あふれる涙が止まらない。こんなところにも、こんな僕に対しても、人の優しさは残っていたのだ。
  きっともう、直接お礼を伝えることはできないだろう。ほんとうに、ほんとうに感謝している。彼の優しさがなければ、僕の心は折れていたかもしれない。

 隠すことでもないだろう。僕は無類の寂しがり屋だ。
  よく「ひとりになれる時間が必要だ」とか「誰にも邪魔されない時間を持とう」といった話を耳にするけど、その気持ちがまったく理解できない。これまでの人生で、「ひとりになりたい」と思ったことがないのだ。できれば朝から晩まで誰かと一緒にいたいと思うし、たとえそれがインターネットや携帯電話であっても、誰かとつながっていたい。
  そんな僕にとって、東京拘置所での独房生活は、まさに地獄の日々だった。
  その後移送された長野刑務所のほうがずっとマシだ。刑務所の中であれば、工場での仕事を通じて、受刑者との交流が、多少はある。たとえ私語が禁止されていようとも、気に食わない受刑者がいようとも、独房でひとり孤独に震えているよりはずっといい。
 たとえば収監から3日目の夜に見た、みんなが僕の元を離れ、ひとりだけ取り残される夢。よほど追いつめられていたのだろう。少なくともライブドア時代、あれほど寂しい夢を見た記憶はない。こんな夢にうなされる日々が続いていくのか、それが刑務所暮らしなのかと、うんざりさせられた。
  しかし、そこから3ヵ月後の日記に、僕はこんなことを書いている。

「そういえば、最近やる気が湧いてきた。出所したら真っさらになるので、ゼロベースで事業プランを実行するつもり。夜寝る前にいつも考えている。出所するときにはもう40代でジジイになっているけど、ジジイはジジイなりにがんばるよ」(2011年10月3日の獄中日記より)

 やる気が湧いてきた理由、自分の心を大きく変えることができた理由、それは独房に閉じ込められる日々から解放されたおかげだ。介護衛生係として刑務所内での仕事をこなし、メルマガなどの仕事をこなし、多少なりとも他者(受刑者や面会者、メルマガ読者の声など)と触れ合う中で、少しずつ自分を取り戻していけたおかげだ。
  思えば僕は、ずっと前から知っていた。
  働いていれば、ひとりにならずにすむ。
  働いていれば、誰かとつながり、社会とつながることができる。
  そして働いていれば、自分が生きていることを実感し、人としての尊厳を取り戻すことができるのだと。
  だからこそ、僕の願いは「働きたい」だったのだ。


いまこそ「働くこと」を考えたい

 本書の中で僕は、「働くこと」について考えていきたいと思っている。
  自由の身になって、ゼロ地点に立ち返ったいまこそ、もう一度自分にとっての「働くこと」の意味を考え、その答えを多くの人たちと共有したい。
  どこで働き、誰と働き、どんな仕事を、どう働くのか。そもそも人は、なぜ働くのか。このままの働き方を続けていてもいいのか。これは僕の個人的な問題意識であり、同時にいまの日本全体に投げかけられた問いでもある。
  たとえば、メールマガジン(堀江貴文のブログでは言えない話)にQ&Aコーナーを設けていることもあり、僕は10代や20代の若い世代から相談を受ける機会がとてつもなく多い。メルマガだけでも述べ1万本以上もの質問に答え、しかもツイッターでの質問まで無数に飛んでくる。そしてその多くは、仕事に関する相談だ。
  いまこんな会社に働いているのだが、どうすればいい転職ができるか。
  独立して起業したいのだが、どんなビジネスプランが考えられるか。
  こんなアイデアを持っているのだが、勝算はあると思うか、などなどである。
  彼らの声を聞いていて感じるのは、みんな「掛け算の答え」を求めている、ということだ。もっとわかりやすい言葉を使うなら、成功へのショートカットを求め、どうすればラクをしながら成功できるかを考えている。もしかしたら、僕に聞けば「ラクをしながら成功する」答えが得られると思っているのかもしれない。
 でも、ここで確認しておきたいことがある。
  人が新しい一歩を踏み出そうとするとき、次へのステップに進もうとするとき、そのスタートラインにおいては、誰もが等しくゼロなのだ。
  つまり、「掛け算の答え」を求めているあなたはいま、「ゼロ」なのである。
  そしてゼロになにを掛けたところで、ゼロのままだ。物事の出発点は「掛け算」ではなく、必ず「足し算」でなければならない。まずはゼロとしての自分に、小さなイチを足す。小さく地道な一歩を踏み出す。ほんとうの成功とは、そこから始まるのだ。
 刑務所の中で40歳の誕生日を迎えた僕は、あの日記にも書いたように「40代のジジイ」として、社会に戻ってくることになった。会社を失い、大切な人を失い、社会的信用を失い、お金を失い、ついでにぜい肉までも失った。心身ともに真っさらな「ゼロ」の状態だ。久しぶりに経験する「ゼロ」は、意外なほどにすがすがしい。
 「出所したホリエモンはなにをやってくれるんだろう?」
  そんなふうに期待して下さっている方々に、僕はこう答えたい。
  堀江貴文は、ただ働く。それだけだ。
  ライブドア時代から続く「ホリエモン」ではなく、「ゼロとしての堀江貴文」に、小さなイチを積み重ねていくだけだ。
 僕は失ったものを悔やむつもりはない。ライブドアという会社にも、六本木ヒルズでの生活にも、愛着はあっても未練はない。
  なぜなら、僕はマイナスになったわけではなく、人生にマイナスなんて存在しないからだ。失敗しても、たとえすべてを失っても、再びゼロというスタートラインに戻るだけ。メディアを騒がせた「ホリエモン」から、ひとりの「堀江貴文」に戻るだけだ。むしろ、ここからのスタートアップが楽しみでさえある。
  ゼロになることは、みんなが思っているほど怖いものではない。失敗して失うものなんて、たかが知れている。なによりも危険なのは、失うことを怖れるあまり、一歩も前に踏み出せなくなることだ。これは経験者として、強く訴えておきたい。



カッコ悪さもすべて語ろう

 出所後の完全書き下ろし第一弾となる本書について、もうひとつ触れておきたいことがある。
 「刑務所に入って、なにが変わりましたか?」
 「お金に対する考え方は変わりましたか?」
  出所して以来、メディアの取材で必ず聞かれる質問だ。
  おそらく記者の方々は、「金の亡者が刑務所で改心し、更生していったストーリー」を期待しているのだろう。わかりやすく、記事にしやすい物語である。でも、僕の信念はなにも変わっていない。仕事に対する姿勢も、お金に対する価値観も、収監される前とまったく同じだ。
 ひとつだけ変わったところを挙げるなら、コミュニケーションに対する考え方だろう。
  かつての僕は、世の中にはびこる不合理なものを嫌う、徹底した合理主義者だった。そして物事をマクロ的に考え、「システム」を変えれば国が変わると思ってきた。起業も、株式分割も、さまざまな企業買収も、あるいは衆院選出馬も、すべてはこの国の「システム」を変えたかったからだ。
  きっとそのせいだろう、僕はひたすら「ファクト(事実)」だけにこだわってきた。
  言葉で説明するよりも、目に見える結果を残すこと。余計な御託は抜きにして、数値化可能な事実を指し示すこと。あいまいな感情の言葉より、端的な論理の言葉で語ること。それこそが、あるべきコミュニケーションの形だと信じ切っていた。
  しかし、理詰めの言葉だけでは納得してもらえないし、あらぬ誤解を生んでしまう。ときには誰かを傷つけることだってある。僕の考えを理解してもらうためには、まず「堀江貴文という人間」を理解し、受け入れてもらわなければならない。言葉を尽くして丁寧に説明しなければならない。
  逮捕される以前の僕は、そのあたりの認識が完全に抜け落ちていた。
  メディアを通じて多くの誤解を生んできたし、それを「誤解するほうが悪い」とばかりに放置してきた。数字を残し、結果を出しさえすれば理解してもらえると思っていたのだ。これは最大の反省点である。
 だから本書では、「これまで語られてこなかった堀江貴文」の姿についても、包み隠さず語っていこうと思う。僕がどこで生まれ、どんな家族の中で、どんな人生を送ってきたのか。なぜ東大をめざし、なぜ起業したのか。女の子にはモテたのか、モテなかったのか。カッコ悪い話も、長年抱えてきたコンプレックスも、すべて語っていきたい。きっとそれは、堀江貴文という人間を知り、僕の思いを理解してもらう上で、欠かすことのできない要素なのだ。
  思えば学生時代の僕なんて、地味でひねくれた田舎者でしかなかった。中高時代も、大学時代も、完全に落ちこぼれていた。まったく勉強しなかったし、ギャンブルにハマった時期も長い。ライブドア時代に語られてきた「中高一貫の進学校に通い、現役で東大に合格し、若くして成功したベンチャー起業家」なんてサクセス・ストーリーは、表面的な結果論に過ぎない。
 そこからどうにか変わることができたのは、小さな成功体験を積み重ね、自分の殻を打ち破ってきたからだ。「堀江貴文」という人間を、少しずつ更新してきたからだ。もちろん、一夜にして変わったわけではない。はじめの一歩は、すべて地道な足し算である。
  もし、あなたが「変わりたい」と願っているのなら、僕のアドバイスはひとつだ。
  ゼロの自分に、イチを足そう。
  掛け算をめざさず、足し算からはじめよう。
  僕は働くことを通じて、自分に足し算していった。仕事という足し算を通じて、つまらない常識から自由になり、しがらみから自由になり、お金からも自由になっていった。掛け算ができるようになったのは、ずいぶんあとになってのことだ。
  そんな僕には、確信がある。
  どんなにたくさん勉強したところで、どんなにたくさんの本を読んだところで、人は変わらない。自分を変え、周囲を動かし、自由を手に入れるための唯一の手段、それは「働くこと」なのだ。
  ある意味僕は、10代や20代の若者たちと同じスタートラインに立っている。
  ここから一緒にスタートを切り、一緒に新しい時代をつくっていくことができれば幸いである。大丈夫。あなたも僕も、未来は明るい。








父と母のいない風景

 都心の繁華街が賑わいを見せはじめる午後9時。長野刑務所は、ひっそりと消灯時間を迎える。建物全体がしんと静まりかえり、ときおり聞こえるのは誰かが咳をする音くらいだ。今日もよく働いた。心地よい疲労感に包まれながら、布団に横たわって目を閉じる。すべての疲れを癒してくれる布団の感触は、ある人の背中に似ていた。人生でいちばん最初の記憶に残る、ある人の背中だ。記憶をさかのぼって思い出す。
  浮かんでくるのは、曾おじいちゃんにおんぶされている風景だ。
  福岡県の片田舎で、農業を営んでいた曾祖父の家。そこへと向かう長い坂道の途中、曾おじいちゃんは思いついたように僕をおんぶしてくれた。僕の年齢は2歳くらい。どんな声をかけてくれたのかは、もう覚えていない。
  おそらくその日、曾祖父の家には父も母もいたのだと思う。しかし、僕の記憶から彼らの姿は消えてしまっている。覚えているのは背中の温もりと、夏の暑い陽差し、そして見渡すかぎりに広がる田畑の緑だけだ。言葉さえおぼつかない僕は、完全な「ゼロ」だった。
 自分の家が周りと違うことに気がついたのは、小学生のころだった。
  多くの小学生が胸を躍らせ、気恥ずかしさと緊張感の中で迎える恒例行事、授業参観。浮ついた友達たちをよそ目に、僕は毎年「早く終わらないかな」と退屈していた。緊張したりワクワクしたりする要素なんか、どこにもなかった。
  なぜなら僕の両親は、一度として授業参観に来なかったからだ。
  愛されていなかったのかというと、それは違うと思う。いわゆるネグレクト(育児放棄)だったわけではない。共働きだった両親にとって、授業参観は仕事を休んでまで参加するイベントではなかった。「自分の仕事」と「子どもの授業参観」とを天秤にかけたとき、仕事のほうを優先すべきだと思った。それだけのことだ。
  だから僕は、両親がこなくて寂しいと思ったり、友達を見て羨ましいと思ったりしないよう、自分に言い聞かせていた。うちの親はそういう親なのだし、堀江家とはそういう家なのだ。
 1972年10月29日、僕は福岡県南部の山間部に位置する八女市に、堀江家の長男として生まれた。以来、兄弟のいないひとりっ子として、両親と父方の祖母を含めた4人で暮らすこととなる。
  父は、典型的な昭和のサラリーマン。日産ディーゼル福岡販売というトラック販売会社の、佐賀支店に勤めていた。具体的にどんな仕事をしていたのかは、よくわからない。家庭で仕事の話をすることはほとんどなかった。地元の高校を卒業し、そのまま地元の企業に就職して、ずっと同じ会社に勤務する。定年まで勤め上げることはなく、最後は肩たたきにあって早期退職した人だ。
  お酒に弱く、趣味は野球観戦。大好きな巨人が負けると、途端に機嫌が悪くなる。こっちがどんなに疲れていても、肩を揉めだの、背中を踏めだの、大きな声で命令してくる。不服そうな素振りを見せると、すぐに手が出た。
 そんな父の口癖は、「せからしか!」だった。福岡の言葉で「うるさい」とか「やかましい」といった意味の方言だ。理屈っぽい僕が少しでも反論しようものなら、この決まり文句とともに平手打ちが飛んでくる。怒りのあまり、そのまま庭の木に縛りつけられたこともあった。
  では、父が暴力に明け暮れる頑固者だったかというと、決してそうではない。お酒を飲まないときの父は、物静かで穏やかな人だった。特に、中学生になって僕が身長で追い越してからは、手を上げることもなくなった。小学生のころには年に一度の海水浴を恒例にしていたし、遊園地に連れて行ってくれたこともあった。その意味でいうと、ごく普通の父親だ。
  しかし、ひとつだけ「普通」と違ったことがある。
  父と出かける先に、母の姿がなかったことだ。
  海に行くのも、遊園地に行くのも、いつも父と僕の二人だけだった。そしてどういうわけだか僕は、母がいないのを当たり前のこととして受け止めていた。少年時代の子どもらしい思い出に、母の姿はほとんどない。
  酔っ払った父の「せからしか!」なんて、どうってことなかった。堀江家の中でもっとも気性が激しかったのは、間違いなく母だった。




胸元に包丁を突きつけられた日

 父と母の共通点を探すのはむずかしい。
  あえて挙げるとするなら、二人とも同じ八女市で生まれ育ち、同じ高校を卒業したことくらいだ。とはいえ二人は7歳くらいの年齢差があり、学校で出会ったというわけではない。見合い結婚だったらしいが、どんな流れでお見合いすることになったのか、聞かされもしないし、こちらから聞いたこともなかった。
  トラック販売会社一筋だった父と違い、母は何度も勤め先を変えていた。
  僕が物心ついた当時は、市立病院で受付事務をやっていたし、布団工場かなにかの事務をやっていたこともある。そして最終的には、地元で自動車学校などを経営する実業家の、経理的な仕事に落ち着いていた。それなりに手広くビジネスを広げている実業家を間近で見ていた影響なのか、父よりもビジネス的な向上心が強かったように思う。
  性格的にはとにかく激しい人で、他人の意見をひとつも聞かないまま、独断で物事を進める。そして絶対に自分の意見を曲げない。
 たとえば、小学1年生の冬、学校から帰ってくつろいでいたときのことだ。祖母と一緒にこたつでテレビを見ていると、すたすたとやってきた母が仁王立ちでこう言った。
 「貴文! これから道場に行くけん、準備せんね!」
  道場に行くから準備をしろ? なんのことだかわからないまま車に押し込まれて、販売店で柔道着を買うと、そのまま近くの警察署に隣接した道場に連れて行かれた。これから毎週3日間、ここに通って柔道をしろと言うのだ。なぜ柔道なのか、なぜこのタイミングで始めるのか、せめて野球やサッカーじゃダメなのか、といった話はいっさい受けつけない。とにかく、有無を言わさず「やれ!」なのである。出てくる言葉は、いつも命令形。ほとんど銀行強盗のようなものだった。
  結局、小学校の6年間、僕は警察の柔道道場に通うことになる。学校が終わると自転車で片道30分かけて道場に通い、1時間半の猛練習をして、また30分かけて帰る。これが火曜、木曜、土曜と週に3日間も続くのだ。
  残念ながら僕は、最後の最後まで柔道が好きになれず、道場での時間はただただ苦痛でしかなかった。体力の限界まで追いつめられる練習も、理不尽なしごきも、いまの時代ではありえないほどの体罰も嫌だった。だが、なによりもつらかったのは、クラスの友達と遊べなかったことだ。
  じゃあ、練習をサボってしまえばいいじゃないか。学校じゃないんだから、休んでもかまわないじゃないか。そんなふうに思う人もいるだろう。もちろん、練習をサボるなんて、うちの母が見逃すはずがない。
 あるとき、こんなことがあった。柔道の練習をサボったことが発覚し、電灯もない田舎の夜道に「お前なんか出ていけ!」と追い出された。どんなに玄関扉を叩いて懇願しても、入れてくれない。家中の扉に鍵をかけ、だんまりを決め込んでいる。
  強情な母の性格を熟知している僕は、それ以上の抵抗をあきらめ、近所で唯一深夜営業をしている喫茶店まで歩いて行った。とりあえずそこに行けば、明かりがある。喫茶店に入るお金はないけれど、人の気配を感じることができる。そのまま野宿しようと、ドアのところでうずくまっていた。
  すると、店にいた大学生が「どうした、小学生がこんな時間になにをやってるんだ?」と声をかけてきた。家から詰め出された事情を説明すると、「じゃあ、オレが入れてもらえるよう、お母さんを説得してやるよ!」と申し出てくれた。この大学生の懸命な説得により、母も渋々ながら家の鍵を開けたのだった。
 ともあれ、母とのコミュニケーションは一事が万事こんな調子だった。
  一度怒らせると手がつけられなくなるし、どこに地雷があるかもわからず、いつどんな無茶を言い出すかも見当がつかない。
  高校1年生の冬休みには、またも突然「家でダラダラされても困るけん、年賀状配達のバイトに行ってこんね!」と言われた。もう郵便局とは話をつけてあるから、この日のこの時間に郵便局まで行ってこい、と。もちろん理由を聞いても「せからしか!」になるし、下手に反抗したら余計面倒なことになる。
  しかし、指定された日時に郵便局を訪ねても、あいにく担当者が留守だった。やむなくそのまま帰ってくると、「なんで帰ってきた! お前はわたしの顔に泥を塗る気か!」と血相を変えて怒鳴り散らす。泥を塗るもなにも、約束を破ったのは向こうじゃないか。そもそもどうして僕が年賀状の配達なんてやらなきゃいけないんだ。なんでも勝手に決めるのはやめてくれ。たまりかねた僕が一気にまくし立てると、理屈では勝てないと思ったのか、黙って台所のほうに退散していった。
  ところが、今度は両手で文化包丁を握りしめ、刃先をこちらに向けたまま「お前を殺して、わたしも死ぬ!」と鬼の形相で迫るのだ。
  こうなるともう、ヒステリックのひと言では片づけられない。とにかく「激しい」以外の言葉が見つからない、強烈な人だった。
 ただし最近になって、ひとつ気づいたことがある。
  ちょうど、母が還暦を迎えたころのことだった。急に電話をかけてきて「車が古くなってきた」だの、「次はマーチみたいな小さい車にするつもり」だの、とりとめのない話をしてきた。仕事中だったこともあり、生返事のまま聞いていたところ、突然「還暦だから赤がいい」と言う。
 「えっ? 赤って、なにが?」
  なんの話かわからず聞き返すと、「もういいっ!」と怒って電話を切られた。なんのことはない、要は還暦祝いに赤いマーチを買ってほしかったのだ。正直にそう言ってくれる親だったら、素直になれる人だったら、僕ももっと素直になれただろうに……。
  僕自身、かなり不器用で愛情表現が苦手な人間だが、母のそれは僕に輪をかけて不器用である。
  どこまでも激しく、どこまでも不器用な人。それが僕の母だ。









たった一度の家族旅行

 そんな両親のもとに育って、一家団らんするような時間はあったのか?
  ほとんど記憶にない、というのが正直なところだ。
  父は外で飲んで帰ることも多かったし、帰りの早い日は大抵黙って巨人戦を見ている。いつ怒り出すかわからないので、僕はなるべくその場から離れていた。食卓でも、会話らしい会話はほとんどしない。80歳を越えた祖母が、戦時中に空襲で焼け出された話を毎日のようにくり返していた。
  家族で外食するといえば、せいぜい長崎ちゃんぽんのチェーン店「リンガーハット」に行くくらい。それも月に一回あるかどうか、という程度だ。裕福な家庭には程遠い。福岡が発祥のファミリーレストラン「ロイヤルホスト」は、高嶺の花だった。
  そして夏休みになると、車で20分ほど離れた母方の曾祖父の家に預けられる。あの、最初の記憶で僕をおぶってくれていた曾おじいちゃんの家だ。いまになって思えば、「子どもをひとりで置いておくわけにはいかない」という、共働きならではの事情だったのかもしれない。でも、そんな説明もないまま、追い出すように預けられる。だから夏休み期間中は両親と会う回数も少なく、クラスの友達とも遊べなかった。
  海水浴や遊園地に行くのは父と二人だけだったし、家族揃っての旅行は一度きりだ。忘れもしない、たった一度の東京旅行である。
 小学3年生のとき、父が東京まで出張することになり、それに合わせて僕と母も一泊二日で東京旅行しよう、という話になった。はじめて訪れる大都会、東京。はじめて乗る新幹線。帰りには、飛行機に乗ることもできる。僕は胸をときめかせ、観光プランを練り上げていった。
  まず、地下鉄路線図を広げて池袋駅を探す。目的地は、当時東洋一の高さを誇っていた多目的ビル、サンシャイン60だ。それから僕は、どうしても地下鉄に乗ってみたかった。当時はまだ、福岡市にも地下鉄は通ってなかったのだ。いったい地下のトンネルを走るとは、どういう気分なんだろう。そして地下トンネルを走り抜けた後に上るサンシャイン60からの景色は、どんなものなんだろう。10階建てのビルでさえ登ったことがないのに、60階だなんて、まったく想像がつかない。
  路線図を見ると、どうやら丸ノ内線というやつに乗れば、東京駅から池袋まで行けるらしい。営団地下鉄丸ノ内線。なんとも近未来的でカッコイイ響きだ。その他の観光については親の希望に従おう。でも、丸ノ内線とサンシャイン60だけは、絶対に譲れない。8歳の僕はどうにか両親を説得し、ドキドキしながら東京行きの新幹線に乗った。
 ところが、東京駅に着いてみると、丸ノ内線がどこにあるのかまったくわからない。
  それまで僕の頭にあった「駅」とは、規模が違う。うんざりするほどたくさんの人が、巨大迷路のような空間を早足で通り過ぎていく。少しでも気を抜いたら、親とはぐれてしまいそうだ。時間もないし、ぐずぐず迷っていたら親が「もういい、別のところに行こう」と言い出しかねない。
  結局、たぶんこれだろうと思って飛び乗った池袋行きの電車は、地上を走る山手線だった。……テンション急降下である。
  呆然としたまま池袋のサンシャイン60に到着すると、喫茶店で遅めの昼食をとろうという話になった。テーブルが全席インベーダーのゲーム機になった、学生がたむろする煙草くさい喫茶店だ。なんだか、ますます気が滅入っていく。
  そこから60階の展望台に上り、ぐるっと回って曇り空の景色を眺めたところで時間切れ。両親に急かされ、そのまま階下に降りていった。
  あれだけ楽しみにしていた僕の東京観光プランは、不完全燃焼のまま終わり、父が予約していた「はとバス」に乗り込んだ。こんなはずじゃなかったのに……。ふてくされたままのバスツアーは、どこを回ったのかさえ覚えていない。
 するとバスツアーの終盤、突然母が「日光の鬼怒川温泉に行こう」と言い出した。急いで行けば旅館も間に合う、そうすれば明日は日光東照宮を見てから帰れるのだ、と。それで慌てて路線を調べ、「時間がないから晩飯は立ち食いそばだ」という。
 「ええ! せっかく東京に来たのに、立ち食いそば!?」
  地下鉄の失敗から引きずっていたフラストレーションは、ここで一気に爆発した。駅のホームで泣き叫んだ。日光だかなんだかしらないけど、どうして東京までやってきて、わざわざ立ち食いそばを食べなきゃならないんだ。もっと東京らしい、家族旅行らしい晩ごはんがあるだろう。僕がこの旅行をどれだけ楽しみにしてたと思うんだ! どうしていつもこうなんだ、どうしてはじめての家族旅行くらいちゃんとできないんだ! 泣き叫ぶうちに、怒りを通り越して悲しくなってきた。
  結局僕の願いは聞き入れられず、親子三人で駅ホームの立ち食いそばを食べて、深夜の鬼怒川に到着した。翌日は日光東照宮を見たあと東京まで戻り、羽田空港から飛行機で福岡に帰った。当然、地下鉄には乗れないままだ。
  たった一度の家族旅行で食べた食事が、インベーダーゲームの喫茶店と、東武線構内の伸びきった立ち食いそば。なんだか、あの東京旅行が堀江家の空気をすべて物語っているような気がする。「食事」であればなんでもいい、「サンシャイン60」に上ればそれでいい、といった雑な感覚。れっきとした家族でありながら、同居人でしかないような、不思議な関係だ。
  僕は寂しかった。親を心底嫌いになれる子どもなんて、そうそういない。両親には実家があるのかもしれないが、僕には「この家」しかなかったのだ。兄弟もほしかったし、明るい笑顔がほしかった。けれど、その言葉はぐっと飲み込むことしかできなかった。
 ちなみに現在、両親は別居している。
  別居の経緯についてはなにも聞いていない。もしかしたら、僕が子どものころから夫婦仲がよくなかったのかもしれない。思えば夫婦の会話らしきものをちゃんと聞いたこともない気がする。そう考えると、海水浴や遊園地に母がついてこなかったことも、立ち食いそばも、当たり前だと思える。





情報は自らつかみ取るもの

 こうやって両親の話をしていくと、多くの人が首を傾げる。
  うちの両親は、二人とも平凡な高校を卒業した、ごくごく一般的な人たちだ。経済的な事情などはあったのかもしれないが、大学も出ていないし、サラリーマンとしての父は支店勤務の課長どまりだった。自分の親を悪く言うつもりはないけれど、どうひいき目に見積もっても「普通」の人たちである。
  どうしてそんな両親のもとで、僕のような人間が育ったのだろう?
  ……こればかりは、よくわからない。遺伝だとは思えないし、なにかしらの英才教育を受けた覚えもない。むしろ僕の置かれた環境は、最悪に近かった。
 地理的な状況から説明しよう。
  僕の生まれた八女市は、お茶と仏壇、提灯などの特産品で知られる山間部の町である。住人のほとんどが一次産業に従事しており、うちのようなサラリーマン家庭のほうが珍しい。当時は住宅もまばらで、友達の家まで遊びに行くにも、歩いて30分は覚悟しなければならなかった。文化の香りなどあるはずもなく、ただただ肥料の匂いが漂う町だ。
  文化が欠落していたのは、八女の町だけではない。堀江家もまた、文化や教養といった言葉とは無縁の家庭だった。
  たとえば、うちの父は「本」と名のつくものをほとんど読まない。家に書斎がないのはもちろん、まともな本棚もなければ、蔵書さえない。テレビがあれば満足、巨人が勝てば大満足、という人である。
  そんな堀江家にあって、唯一読みごたえのある本といえば、百科事典だった。
  当時は百科事典の訪問販売が盛んで、日本国中の家庭に読まれもしない百科事典が揃えられていた。きっと、百科事典を全巻並べておくことが小さなステータスシンボルだったのだろう。わが堀江家も、その例外ではなかったわけだ。
  そこで小学校時代、僕はひたすら百科事典を読みふけった。
  事典として、気になる項目を拾い読みしていくのではない。第一巻、つまり「あ行」の1ページ目から、最終巻「わ行」の巻末まで、ひとつの読みものとして通読していくのだ。感覚的には読書するというより、情報から情報へとネットサーフィンしているオタク少年に近いだろう。
  リニアモーターカー、コンピュータ、そしてアポロ宇宙船や銀河系。百科事典には誇張も脚色もない。映画や漫画で見てきたような話が、淡々とした論理の言葉で紹介されている。星の名前も国の名前も、遠い昔の国王も、すべて百科事典で覚えた。ページをめくるたびに新たな発見があり、知的好奇心が刺激されていった。インターネットも携帯電話もない時代。僕にとっての百科事典は、社会に開かれた扉だったのだ。
 ちなみに、同じ「本」でも小学校の図書室に置いてあるような児童文学は苦手だった。
  理由は簡単である。
  当時の僕が求めていたのは、よくできた「お話」ではなく、網羅的な「情報」だったのだ。フィクションの世界に耽溺するより先に、この山の向こう、あの海の向こうに広がっているはずの、現実の「世界」が知りたかった。
  もしも、これで都会の文化的な家庭に生まれていたら、きっと百科事典なんか読んでいなかっただろう。児童文学を読み、豊かな感性を育んでいたのかもしれない。しかし、いまほど貪欲に情報を追い求める姿勢も育まれなかっただろう。僕にとっての情報とは、誰かが用意してくれるものではなく、自らつかみ取るものなのである。
  あの文化も教養もない環境がよかったとは思わない。
  生まれたときからインターネットに触れられるいまの子どもたちが羨ましい。
  でも、自他ともに認める「情報ジャンキー」となった僕の原点は、外界の情報に飢えまくっていた、あの子ども時代にあるはずだ。
「あなたの居場所はここじゃない」
 百科事典のおかげだとは思わないが、小学校時代、勉強はダントツだった。
  テストや教科書なんて、簡単すぎてつまらない。みんなが「わからない」と言っている、その理由がわからない。申し訳ないが、先生さえも間抜けに見えていたくらいだ。たとえば算数のテストだと、僕は10分とかからず全問解き終えてしまう。もちろん毎回100点だ。みんなが40分もかけている理由が、まったく理解できなかった。
  ここでむずかしいのは、解き終わったあとの残り時間だ。
  暇だからと眠っていたら怒られるし、教室の外に出て行くわけにもいかない。答案用紙の裏に落書きするのも飽きてしまう。最終的に僕は、教壇のところで先生の代わりにみんなの答案を採点するようになった。
 とはいえ、勉強ができるからといって尊敬されたりモテたりするわけではないのが、小学生の悲しいところである。小学校において、「頭がいいこと」にはなんの価値もない。クラスのヒーローになれるのは、足が速くて球技が得意な男子だけなのだ。残念ながら僕は足が速いわけではなかったし、球技も苦手だった。
  では、真面目なガリ勉タイプだったのかというと、それも違う。
  通知表の素行欄に書かれる言葉は、いつも「協調性がない」。先生からも、クラスメイトからも、ちょっとした問題児として煙たがられることが多かった。たとえば、掃除はサボってばかりだし、日直などの仕事もやらない。遠足に行っても単独行動をとってしまう。典型的なひとりっ子の振る舞いだ。
  そして少しでも気に食わないことがあると、すぐに取っ組み合いの喧嘩になる。柔道のおかげで腕っぷしには自信があった。ましてや、口論で負けることなど、ぜったいにありえない。毎日のように誰かと喧嘩して、ときには机を投げつけたり、相手を用水路に突き飛ばすこともあった。
 どうしてそんな問題児になってしまったのか?
  たぶん僕は、苛立っていたのだと思う。自分自身に苛立っていたし、自分の置かれた環境に苛立っていた。
  足が速いわけでもなく、絵がうまいわけでもない。柔道のおかげで友達と遊ぶこともできず、テレビの話題にもついていけない。夏休みになれば、曾祖父の家に追いやられる。いくら勉強ができたところで、ほめられることもなく、むしろ疎まれるだけだ。
  もちろん田舎の子どもらしく、みんなで山に登ったり、川辺で遊ぶこともあった。決して友達がいなかったわけではない。楽しい思い出がないわけではない。
  けれど僕は、いつもどこかで醒めていた。ここが自分の居場所でないような、自分だけみんなと切り離されたような、疎外感を抱いていた。
 そんな僕に、はじめての理解者が現れる。
  小学3年生の担任だった、星野美千代先生だ。福岡時代の僕にとって、唯一「恩師」と呼べる先生である。
  星野先生は、僕の生意気なところ、面倒くさいところ、そして不器用なところを、すべておもしろがってくれた。せっせと百科事典を読んでいることも、祖母が毎日唱えていたお経を暗記していたことも、全部ほめてくれた。こんな僕にも理解者がいて、応援してくれる人がいる。それだけでうれしかった。
  そしてなにより、星野先生が他の大人と違ったのは「みんなに合わせなさい」と言わなかったことだ。むしろ、みんなに合わせる必要なんてない、その個性をもっと伸ばしていきなさい、と教えてくれた。
  3年生の終わりごろ、先生は僕をつかまえてこんな話をした。
 「堀江くん、あなたはここにいたらもったいない。八女から出ないと、ずっとこのままよ。久留米に『全教研』という進学塾があるから、そこに行きなさい。そうすれば、あなたみたいな友達が何人もいるはずだから」
  最初は先生がなにを言っているのか、意味がわからなかった。学年でダントツのトップだった僕に、100点しかとったことのない僕に、塾に行けというのだ。
  それまで僕は、塾なんてお金持ちの子どもか、勉強のできない子どもが行くところで、自分には無縁の世界だと思っていた。しかし先生は、そうじゃないという。このまま八女の公立中学に進むのではなく、久留米にある中高一貫の私立校、久留米大学附設中学校に行きなさい。あなたの居場所はそこにある、と。
 結局僕は、星野先生の後押しもあって、4年生から久留米の進学塾に通うことになる。いまでも不思議に思うことがある。もしも星野先生のアドバイスがないまま地元の公立中学に通っていたら、どうなっていたのだろう? 地元の空気に染まり、地元の仲間と楽しく過ごし、地元でなにかの仕事を見つけていたのだろうか。その人生がいいとか悪いとかではなく、いまの僕にはまったく想像がつかないことだ。
  僕にとってはじめての理解者、星野先生。もしも再会できることがあったら、泣き出してしまうかもしれない。いまの僕があるのは、間違いなく星野先生のおかげなのだ。



キラキラと輝く都会の進学塾

 久留米市は、福岡県南部でいちばん大きな繁華街である。
  全国的には、歌手の松田聖子さんや藤井フミヤさん、女優の田中麗奈さんなどの出身地としても知られる、賑やかな街だ。
  僕の家から最寄りのバス停まで、自転車で15分。そこからバスに乗り込み、車窓からの風景を眺めていると、まず田んぼが消える。そして少しずつ商業施設が増えはじめ、周囲の建物が鉄筋コンクリート建てになっていく。さらに大きなデパートやビルの間をくぐり抜けると、ようやく久留米のバスセンターに到着する。所要時間30分の、小さな旅だ。
  久留米の街は、なにもかもがキラキラと輝いていた。
  デパートもあれば映画館もあり、ゲームセンターからボウリング場まである。メインストリートの「一番街」にはオシャレな高校生や大学生が行き交い、夜にはネオンやイルミネーションが輝く。当たり前の話だが、八女の田舎とはなにもかもが違う。
 そして塾に集まる子どもたちもまた、みんなおもしろかった。
  たとえば孫正義さんの弟で、現在「ガンホー・オンライン・エンターテイメント」の会長をしている孫泰蔵くんも、同じ塾の同級生である。彼はその後、中学・高校でも同級生となる仲だ。同じクラスになることはなく、親友とまでは言えなかったものの、廊下などで会えば軽く言葉を交わす「タイゾーくん」だ。
  個性派揃いの塾メンバーで特に強烈だったのは、筋金入りの科学少年、次田くんである。カバンからへんな薬品を取り出して、いきなり「これ実験で余ったミョウバンなんだけど、ちょっと舐めてみろよ」と言ってくるような小学生だった。その後、彼とはなぜか意気投合し、中学では一緒に化学部をつくってロケットの実験などに精を出すことになった。その話については、またあとで触れよう。
  さらに、僕と同じ小学校からは、もうひとりだけYくんという男の子が通っていた。医者の息子だった彼は、学校内でもけっこうな権力を持つ、典型的なリーダー型のお坊ちゃんだった。僕とは一度取っ組み合いの喧嘩をした間柄で、とても友達関係ではなかったのだが、塾をきっかけに仲良くなった。
  帰りにミスタードーナツをおごってくれたり、自宅に招いて夕食をご馳走してくれたり、彼の父親が運転するトヨタの「マークⅡ」でロイヤルホストに連れていってくれたりと、いかにもお坊ちゃんらしく世話してくれたものだ。
  車種まで記憶しているのは他でもない。当時の僕は、マークⅡのことをベンツにも匹敵する超高級車だと思っていたのだ。堀江家の日産「サニー」とは、グレードが違う。大きさも違えば、内装も、乗り心地も、すべてが違う。特に驚いたのが、ボタンひとつで自動開閉するパワーウィンドウだ。興奮のあまり、意味もなく何度も開け閉めさせてもらったのを覚えている。まるでSF映画の世界だった。
  そんな超高級車マークⅡに乗って、ほのかなオレンジ色に輝く高級レストラン、ロイヤルホストに入っていくのだ。いまとなっては完全な笑い話だが、あのときの高揚感を僕は忘れることがないだろう。
 塾通いに魅せられたもうひとつの理由として、講師陣の教え方が抜群にうまかったことも挙げられる。最上位のAクラスにいたこともあり、授業のレベルも高い。小学校のように「遅い子に合わせよう」という発想は、いっさいなかった。遅れる子がいるのなら、Bクラスに移ってもらえばいい。僕らAクラスの子どもたちは、自分の好きなスピードでどんどん先へと進んでいける。とてもシンプルで合理的だ。
  そうすると、あれだけ退屈だった勉強がおもしろくなり、よりむずかしい問題、より新しい課題を求めるようになっていく。塾のある日は柔道も休めるし、刺激的な友達とも会えて、おいしいものも食べられる。しかも勉強が楽しくなるのだ。こんな世界を知ってしまったからには、もう八女の生活には戻れない。
  僕は星野先生との約束どおり、久留米大学附設中学校を受験し、合格した。地元で「フセツ」と呼ばれる、県下いちばんの進学校だ。
  進学校に入ることが目的だったわけじゃない。当時から東大に行こうと思っていたわけでもないし、親から受けろと言われたわけでもない。僕はただ、なんの刺激もない田舎町に退屈しきっていたのだ。都会に出て、たくさんの刺激を吸収し、おもしろい仲間と出会う。それさえできれば、学校なんてどこでもよかった。
  とりあえず、八女の山奥に閉じ込められる日々からは抜け出すことができた。まだまだ小さな一歩には違いない。しかし、確実な一歩である。




 ここから抜け出すには東大しかない

 高校へと上がり、気づくと部屋のパソコンも埃をかぶるようになっていた。
  しかし、ここで真面目に勉強するような僕ではない。
  それまでパソコンに費やされていた時間は、勉強でもスポーツでもなく、すべてが享楽的な遊びの時間へと切り替わっていった。
  友達の家に泊まり込んで朝まで麻雀をしたり、ゲームセンターにたむろしたり、当時流行っていたビリヤードで遊んだりと、かなり自堕落な生活だ。当然、学校の成績は悪いままで、親からは毎日のように叱られる。
  思えば、中学時代の僕には、パソコンという砦があった。どんなに成績が落ち込んでも、パソコンによって自尊心を保つことができた。自分はみんなが知らない世界に触れている、みんなより先を進んでいる、というちっぽけな自尊心だ。
  ところが、パソコンから離れた僕には、もはやちっぽけな自尊心さえ残されていない。将来のことなどなにも考えられず、ただ目の前の快感に流されていく日々。昨日と同じ今日が続き、今日と同じ明日を迎える。率直に言って、僕は高校1~2年当時の記憶がすっぽり抜け落ちている。
  どうしてこんなことになってしまったんだろう?
  このままどこに行くつもりなんだろう?
  友達と一緒にゲラゲラ笑っているときも、上空には醒めた目で自分を眺める「もうひとりの自分」がいた。遊んでも遊んでも、まったく楽しくなれなかった。
   
 しかし、入学から5年が過ぎ、そろそろ真剣に進路を考えるべきときがやってきた。
  指標となるのは、高校3年の春に受けた東大模試。当然、F判定だ。合格率をパーセントで算出できるレベルではない。単純に「判定不能」、もっといえば「あきらめなさい」のサインである。
  そもそも僕に、希望の大学はなかった。
  僕が掲げていた最大の目標、それは「ここ」から脱出することだった。それが九州なのか、福岡なのか、八女なのか、あるいは堀江家なのか、よくわからない。とにかく、もう「ここ」での生活には、うんざりしきっていた。
  じゃあ、どんな進路が考えられるのだろう?
  友達の多くは地元の国立、九州大学への進学を考えている。「九大」といえば、九州でいちばんのエリートコースだ。でも、僕にとっては絶対にありえない選択肢だった。もしも九大となれば、またも実家からの通学を強制される可能性がある。
  かといって、わざわざ大阪や名古屋をめざす気にもなれない。
  やはり、行くとなれば東京だ。
  早稲田や慶應はどうだろうか? ……いや、東京の私立大に行くなんて、金銭的に無理である。学費を理由に「九大に行け」と言われて終わるだろう。
  それでは、同じく都内の国立大である一橋はどうか? ……これも論外だ。そもそも、うちの両親が一橋を知っているかどうかも怪しいし、おそらく一橋や早慶よりも九大のほうが偉いと思っている。それが九州人のメンタリティというものだ。
  そうやって考えていくと、僕が「ここ」から脱出するには圧倒的な説得材料が必要だった。どんな強情な人間でも認めざるを得ない、最大級の結果が必要だった。目眩がしそうになる自分に、しかと言い聞かせた。
  他に選択肢はない。
  うちの親でも知ってる日本一の大学、東大に合格するしかないのだ。
  それは、失われた自尊心を取り戻すための挑戦でもあった。









勉強とは大人を説得するツールだ

 目標は東大に定まった。あとはどうやって合格するか、その手段だ。
  まず書店に足を運んで「赤本」を購入し、自分なりに対策を練っていく。
  国語はさほどむずかしくない。過去問の反復練習で対応できるだろう。社会に関しては百科事典のベースがあるせいか、ずっと得意だった。理科は配点が低いので後回し。そうなると残るのは、英語と数学である。
  根っからの科学少年だったこともあり、当初僕の希望は理系だった。しかし、自分の数学力と受験までのスケジュールを逆算すると、どう考えても無理だ。センター試験はともかく、東大数学の二次試験は数学的クリエイティビティが要求される。当時の僕がもっとも苦手としていた部分である。
  幸い、東大には「進振り」といって、1~2年の成績に応じて3年次からの進路を自由に選択できる制度があった。F判定の自分に、贅沢は言えないだろう。まずは文系で入学しておいて、進振りを使って理系に転向(理転)する道を選んだ。
 そうなればポイントは英語だ。当時、僕の英語は5~6割の正解率。まさしく判定不能、「あきらめなさい」のレベルである。
  過去問を何度も読み返した結果、僕のたどり着いた結論はこうだった。
  受験英語とは、とにかく英単語を極めることに尽きる。文法に惑わされてしまうのも、すべては単語の意味を取り違えているからだ。単語力の強化が、そのまま英語力の強化に直結する。
  実際、僕の単語力はかなりお粗末なものだった。そこで英語の教師におすすめの単語帳を教えてもらい、片っ端から丸暗記することにした。暗記するといっても、よくある単語カードによる暗記ではない。
  単語帳の隅から隅まで、派生語や例文も含めてすべての文言を「丸暗記」していくのだ。ちょうど、俳優さんが台本を丸ごと暗記するようなイメージである。
  自分に課したノルマは、1日1見開き。12月に終える予定だったが、予定より早く進んで、秋口には全ページを一言一句漏らさず暗記することができた。
 こうやって書くと、いかにも血の滲むような努力をしたように思われるかもしれない。しかし、そんな意識はまったくなかった。実際僕は、どんなに追い込まれても毎日10時間の睡眠を確保するようにしていたほどだ。要は起きている14時間をすべて??これは食事や風呂も含めて??勉強に充てればいいのである。
  勉強でも仕事でも、あるいはコンピュータのプログラムでもそうだが、歯を食いしばって努力したところで大した成果は得られない。努力するのではなく、その作業に「ハマる」こと。なにもかも忘れるくらいに没頭すること。それさえできれば、英単語の丸暗記だって楽しくなってくる。
  極端な話、ゲームやギャンブルにハマるのと同じだ。仕事だとか勉強だとかいう先入観で物事を判断せず、目の前の作業にハマッてしまえばいいのである。
  実際、単語帳の丸暗記はおもしろくてたまらないゲームとなり、英語についてはほぼこれだけの勉強で、3年冬のセンター模試で9割以上の正解率を叩き出した。F判定だった模試も回を重ねるごとにE判定、D判定となり、最終的にC判定まで上昇する。楽観的すぎるのかもしれないが、このC判定をもらった段階で「よし、これで合格できる!」と確信した。
 入試の結果については、みなさんもご存じだろう。僕はどうにか現役で東大に合格することができた。
  ひとつ意外だったのは、後期日程での合格を目論んでいたのに、運よく前期日程で合格できたことだ。まさか前期で合格するとは思っておらず、合格発表も見に行かなかったので、担任からの電話で合格を知らされた。
  あからさまな劣等生だった僕の合格に、職員室は大騒ぎだったようだ。
  しかし、うちの両親はそこまで大喜びというわけではなかった。仕送りのことが頭をよぎったのか、それともひとり息子の上京が寂しかったのか、あるいは感情表現が苦手すぎるせいなのか、僕にはわからない。
 いま、福岡時代の自分を振り返って思うのは、僕にとっての勉強とは「説得のツール」だったことだ。子どもとは、大人の都合によっていくらでも振り回される、無力な存在だ。しかし、勉強という建前さえ掲げておけば、大抵のわがままは通る。八女から久留米の街に出ることも、柔道の道場を休むことも、パソコンを購入することも、そして上京することも。あのどん詰まりの環境から抜け出すには、勉強するしかなかった。誰の目にも明らかな結果を残すしかなかった。
  だから僕は、勉強が無駄だとはまったく思わない。
  無駄に終わる知識はあるかもしれないが、周囲の大人を説得し、自分で自分の道を切りひらく最大のツールは、勉強なのだ。
 上京するために荷物をまとめていたとき、背中を向けた父がボソッと「まあ、お前が卒業してこっちに帰ってきたときには……」とつぶやいた。顔を上げると、さほど大きくない父の背中が、余計に小さく見えた。
  帰ってくる!? 僕が? なにを言っているんだろう?
  八女に生まれたこの人は、これからもずっとこの地で生きていくのだろう。見慣れた景色に囲まれ、見慣れた仲間とともに生きていく。その人生を否定するつもりはないし、そういう幸せだってあるのかもしれない。
  でも、僕は前を向いてしまったのだ。
  一度しかやってこない人生の特急列車に、飛び乗ってしまったのだ。
  この先どんな困難が待ち受けていようと、後ろを振り返るつもりはなかった。
  ちゃんと言葉を返すべきだったのだろうか。もう帰ってくることはないと、言葉にして伝えるべきだったのだろうか。
  うまく返事のできないまま、僕は黙ってカバンに荷物を詰め込んだ。



大学生活のすべてを決めた駒場寮

 ライブドア、そして堀江貴文の名前が大きく報道されるようになったのは、2004年のことだ。当時大阪に本拠地を置いていたプロ野球球団、近鉄バファローズの買収に名乗りを上げたとき、ほとんどの人は僕のことを知らなかった。まだ「ホリエモン」の愛称が生まれる以前の話である。
  好意的に取り上げてくれるメディアは、僕のことを「東大出身の若手ベンチャー経営者」だと紹介した。当時の年齢が32歳。新進気鋭のベンチャー経営者で、しかも東大を出たエリートなのだ、という意味合いだ。東大のブランド力を最大限に活用したプロフィールだが、ここにはちょっとした言葉のマジックがある。
  僕は「東大出身」ではあっても、「東大卒」ではない。つまり、あんなに勉強して入った東大に見切りをつけ、中退する道を選んだのだ。
 1991年の春、僕は東京大学に入学した。
  東大では、1~2年生の全員が教養学部前期課程に属し、東京都目黒区の駒場キャンパスに通うことになる。銀杏並木の印象的な、落ち着いた雰囲気のキャンパスだ。
 「ここから新しい人生がはじまるんだ」
  入学当時の僕は、大きな期待に胸を膨らませていた。
  3年次に理転するには、ここでそれなりの成績を残しておかなければならない。なんといっても日本一の最高学府に入ったのだ。勉強もしっかりやっていこう。
  そして悪夢のような男子校生活に別れを告げ、大勢の女の子たちと夢のキャンパスライフを送ることになる。もちろん彼女だってつくらなきゃいけないし、合コンからサークル活動まで、大いに青春を謳歌しよう。地理的にいっても駒場は渋谷からもほど近く、いろんな刺激を得られそうだ。これからどんな物語がはじまるのか、考えただけでもゾクゾクしてくる。
 東京での住み処に選んだのは、キャンパス内にある駒場寮。
  いまはもう取り壊されてしまったが、戦前の旧制一高時代からの伝統を受け継ぐ、三階建ての学生自治寮である。振り返って考えると、僕にとっての「東大」は、ほとんどこの駒場寮に集約されるような気がする。
  周辺を大きな木々に囲まれ、外壁が太い蔦に覆われた駒場寮。僕が入寮した当時でさえ築50年以上という、かなり古い建物だった。お世辞にも管理が行き届いているとは言い難く、寮生以外はほとんど寄りつこうとしない。さながらキャンパス内に取り残された廃墟のような、一種異様な雰囲気を漂わせていた。
  駒場寮は、相部屋による共同生活が原則である。部屋ごとに寮生の個性も豊かで、どんな部屋に入るかによって、その後の学生生活にも大きな影響が出てくる。そして幸か不幸か、僕は駒場寮の中でもかなり変わった部屋に入寮することになる。
  部屋の真ん中に雀卓が鎮座する、「麻雀部屋」だ。
   
 もともと堀江家では、親戚が集まるといつの間にか卓を囲んでいることが多かった。思えば麻雀は、両親にとって唯一ともいえる共通の趣味だ。僕も小学生のうちから見よう見真似でマスターしていた。高校時代には、友達と徹夜で麻雀をすることも多く、それなりに強かった。大学に入学した時点で、すでにキャリア10年。ある意味ベテランである。
  そんな僕が、麻雀部屋に転がり込んだのだ。目の前に卓があり、牌がある。やらないわけにはいかないだろう。
  麻雀好きな先輩、同級生、さらにはOBから他校の学生まで、さまざまな人間が入り乱れての麻雀生活がスタートすることになる。
 上京にあたっていちばん不安だった金銭面は、ほとんど困らなかった。ここは東大ブランドの強いところで、適当に塾講師のアルバイトをやっておけば月に15~20万円は入り込んでくる。また、最悪お金がなくなっても、寮にいればOBの人たちがビール券や食料を持ってきてくれるので、食うには困らない。キャンパス内に住むことで「通学」そのものがなくなったし、うるさく文句を言う親もいない。となれば、あとはひたすら麻雀に明け暮れるだけだ。
  4人揃えば卓を囲み、誰かが寝落ちするまでジャラジャラと洗牌する(牌をまぜ合わせる)音が鳴り響く。週末ともなれば、大勢が集まっての焼肉パーティーだ。部屋には母が入学祝いのように送ってくれた、1升炊きの炊飯器がある。さすがに普段使いには困る大きさだが、きっと寮の先輩や同級生たちと仲良くできるよう、彼女なりの気配りだったのだろう。この炊飯器には20代の後半までお世話になった。
  もともと肉が苦手で、ガリガリに痩せていた僕だが、入寮の1年後には10キロも太っていた。どこにでもいる、堕落しきった大学生である。


どうして東大に幻滅したのか

 では、勉強はどうだったのか。いくら麻雀部屋に住んでいたとはいえ、どうして麻雀に明け暮れ、堕落しきった生活を送っていたのか? 勉強しにきたんじゃなかったのか?
  もちろんそこには理由がある。
  入学当時の僕は、1~2年のうちに勉強をがんばって、3年からは理転して自分の好きな生命工学などの分野??当時は理転で航空宇宙工学に進むことはできなかった??に進もうと意気込んでいた。
  ところが入学して1~2ヶ月もしないうちに、日本の研究者が置かれた現実を見てしまう。駒場寮の麻雀部屋に入らなければ知らずに済んだかもしれない現実だ。
  寮の先輩にTさんという人がいた。当時すでに26歳くらいで、大学院の博士課程を単位取得退学した人だ。博士研究員(ポスドク)として研究室を転々とする日々を送っており、麻雀がめっぽう強かった。
  彼の専門はナノテクノロジー。まだカーボンナノチューブも発見・発表されていない時代からC60フラーレン(バッキーボール)などのナノテクノロジーを研究していた。超最先端の、超有望な科学技術である。いま考えても、かなり先見の明に優れた、天才的な研究者だったと思う。
  しかし、Tさんの研究には国からの研究費がほとんどつかず、研究環境は最悪に近かった。まともなパソコンを買う余裕もなく、台湾製のAppleⅡ(もちろん海賊版のニセモノだ)で計測していたほどである。
  どうして、そんなことがまかり通るのか?
  彼によると、日本の研究者は、純粋に研究成果のみで評価されるわけではないのだという。研究者の道には嫉妬や派閥争いなどのドロドロした権力闘争が待っており、閉鎖的なムラ社会が形成されている。このあたりは、麻雀部屋に出入りする理系のOBたち、あるいは塾講師をしている理系のOBたちも、異口同音にこぼす愚痴だった。
  Tさんの実験を手伝うこともあった僕は、「天下の東大でドクターまで進んでも、しょせんこんなものなんだ」「こんなに優秀な人でも認められず、劣悪な環境に閉じ込められるのか」と驚き、少しずつ幻滅していった。
  いま考えるとナイーブすぎたのかもしれないし、もしかしたら遊びたい自分への言い訳だったのかもしれない。でも、暗澹とした将来が見えた気がして、とても理転のことなど考えられなくなったのは事実だ。
  目の前に待っていたのは、麻雀漬けの毎日だけだった。



まったくモテなかった思春期

 それでは、もうひとつの目標だったはずの恋愛はどうだったのか?
  ちゃんと合コンに参加して、彼女をつくり、男子校生活では味わえなかった青春を謳歌したのか?
  率直にいって、僕はまったくモテなかった。いや、モテるとかモテないとかいう以前の問題だ。中高6年間を男子校で過ごしたこともあり、僕は女の子に対する免疫がゼロだった。まともに話をすることさえできなかった。
  とくに致命的だったのは、中高時代に自転車通学だったことだ。
  自宅から学校まで20キロの距離を、片道45分、往復90分かけて通学する。雨の日も、雪の日も、なにがあってもバスを使わず、自転車で通学する。それが入学時に親と約束させられたルールだ。
  男子校で自転車通学をしていると、女の子と出会うチャンスが皆無に等しい。
  たとえばこれが、電車やバスでの通学だったら、駅や電車の中、あるいは駅近くのファストフード店などで、なにかしらの出会いがあっただろう。少なくとも、かわいい子を見つけたり、一目惚れすることくらいはあったはずだ。
  ところが、黙々と自転車を漕ぐ僕には、一目惚れするチャンスさえない。僕の頭を支配していたのは、片道45分かかる通学時間を、なんとかして30分にまで短縮すること。女の子なんて目に入るはずもない。
  進学校だったこともあり、クラスメイトにも女の子との交流がある人間がほとんどいない。なんといっても、文化祭を「男く祭」と名づけてしまうほどむさくるしい校風なのだ。
  結局、僕の中高時代は、ほとんど同世代の女の子との接触がないないまま、「男くさい」男子校の中で過ぎていった。
 そんないきさつもあり、東大に入ってからは、できるだけ女の子と触れ合って、もちろん彼女もつくって、あの「失われた6年間」を取り戻そうと意気込んでいた。語学クラスも、女子率の高いスペイン語を選んだ。クラスの50人中30人が女子という、中高時代には考えられないほど恵まれた環境だ。
  ところが、まったく話しかけられない。
  声をかけようとした途端、全身が固まってしまう。喉の奥がギューッと詰まり、声が出なくなる。自分のルックスにも自信がなかったし、田舎の出身だし、東大では勉強さえも自慢にならない。全身コンプレックスの固まりだ。
  共学の高校を出た友達は「そんなの、普通に話せばいいじゃん」と言うのだが、こっちにはその「普通」に話した経験がないのだ。彼らの言う「普通」の感覚が、すでにわからないのだ。
  もっとも、女子率の高いスペイン語のクラスだし、ごく稀に向こうから「普通」に話しかけられることもある。
  これもダメだった。1年生のあるときだ。授業が終わって寮に向かってとぼとぼ歩いていると、同じクラスの女の子が声をかけてきた。
 「堀江くん、寮に戻るんだよね? 途中まで一緒に帰ろうよ」
  頭が真っ白になった僕は、心の中で「無理、無理、無理、無理!」と首を振りながら、なにも言わず足早に立ち去ってしまった……。
 同窓会などで、当時クラスメイトだった女の子たちに会うと、決まって「堀江くんって、完全にキョドってたよね」と笑われる。キョドっていた、つまり挙動不審になっていた、ということだ。たしかに、自分で考えてもかなり挙動不審だったと思う。
  女の子と目を合わせることができず、なにを話せばいいのかわからない。ファッションや流行に疎い僕に、共通の話題があるとは思えない。自分なんかと喋ってもおもしろくないだろう、という卑屈な思いもある。
  さらに、テーブルを挟んで向かい合うときに、手をどこに置いておくべきなのかわからない。机に載せればいいのか、ポケットに突っ込むべきなのか、あるいは腕組みするのがいいのか、そんなどうでもいいことばかりが気になって目が泳いでしまう。意を決して絞り出した声は、いつも上ずっている。……完全なオタクの挙動である。
  もしも僕に姉や妹がいれば、女の子との接し方にも違いがあったのかもしれない。しかし僕はひとりっ子で、「男くさい」男子校の自転車通学者だ。その影響がどれだけ大きいものか、同じ環境にない人に理解してもらうのはむずかしいだろう。
 いまだから明かす話だが、僕は大人になってからもずっと、女の子にキョドっていた。たとえば、近鉄バファローズの買収騒動でメディアに大きく採り上げられた2004年あたりも、まだキョドっていた。メディアの前では強がっていたけど、プライベートで会う女の子には相変わらず挙動不審で、うまく話せなかった。経営者となり、多少チヤホヤされるようになってきても「オレのことが好きなんじゃなくて、オレの持ってるお金が好きなんでしょ?」という猜疑心が拭えなかった。
  なぜなら、僕のルックスも性格も、全然モテなかった学生時代からなにも変わっていなかったからだ。
  ようやく女の子と普通に接することができるようになったのは、30代の中盤になってからのこと。情けない話だが、これは事実である。





「このままではこのまま」の自分に気づくこと

 大学3年になると、ほとんどの東大生は学びの場が駒場キャンパスから本郷キャンパスへと移る。あの、安田講堂や赤門で有名なキャンパスだ。おかげで僕も、めでたく駒場寮の「麻雀部屋」を卒業し、本郷のアパートに住むようになった。
  しかし、堕落した日々はその後も変わらない。麻雀からは離れたものの、今度は競馬の世界にハマっていったのだ。
  毎週末渋谷にあるウインズ(場外馬券売り場)に通い、第1レースから最終レースまでかじりつく。そのうち週末の中央競馬だけでは飽き足らなくなり、平日開催の大井競馬場に出かけたり、地方競馬に遠征するようになる。いまとなっては笑い話だが、当時は馬で稼いで馬主になれたら最高だな、と半ば本気で思っていた。起業後に馬主となった僕だが、あれは金持ちの道楽みたいな話ではなく、学生時代からの夢でもあったのだ。
  当時から僕は、就職してサラリーマンになる考えはなかった。
  暗い顔で電車に乗る大人たちを見ていて、サラリーマンが楽しそうには思えなかったし、なにか別の生き方があるだろうと思っていた。
 じゃあ、自分にどんな将来像があるのだろう?
  僕が働いていた塾には、東大出身の先輩が何人もいた。大学院を出たけれど、オーバードクターでポストもなく、そのまま塾講師を続けている先輩。40歳になっても塾講師を続け、最終的に地方の私立高校に転職していった先輩。それなりの高給が保証され、生活に困ることはない。しかし、学生だった僕の目から見ても、人生の目標を見失ったような人たちばかりだった。
  塾の休憩時間、教員室で漫画を読んでいた僕は、何気なく顔を上げて周囲を見渡した。先輩講師たちは、雑誌片手にコンビニ弁当を食べたり、ヘッドフォンステレオで音楽を聴いたり、次の授業の問題用紙をまとめたりしている。そこに漂う弛緩しきった空気と、その風景の一部となりかけている自分に、ゾッとしてしまった。
  このまま塾講師を続けていたら、間違いなくこの色に染まってしまう。
  ギャンブルに明け暮れ、大学を中退し、手近に稼げる塾講師を続け、気がつけば40歳の扉を叩く……。違う! 僕はこんな人生を送るために東京に出てきたわけじゃない。いますぐ変わらなきゃいけない。このままでは、一生「このまま」だ。
 塾講師に危機感を抱いた僕は、新しいアルバイト先を探すために東大の学生課に向かった。そして一般企業からガテン系まで、掲示板に貼り出されたさまざまな求人情報を眺めていたところ、ある一枚の貼り紙に目が止まった。
 〈プログラマー募集〉
  ……なるほど、その手があったか!
  中学時代にシステム移植で稼いだ記憶がよみがえる。なるほど、これだったら自分の技術で勝負できる。本格的にパソコンに触るのは中学以来だから、現役とはいえない。それでも、マシン語をはじめとして基礎はみっちりできていたし、飲み込みの早さには自信がある。
  明記されている時給は900円スタート。2500円の時給をもらっていた塾講師時代とは比較にならない金額だ。でも、これはお金の問題じゃないと自分に言い聞かせた。
  アルバイト先は、衛星授業で有名な「東進ハイスクール」の関連会社だった。主な業務は、衛星授業の運営や教材開発。ここで自分の技術が十分に通用することを確認すると、今度は完全なコンピュータ系ベンチャー企業でのアルバイトをはじめた。
  コンピュータ系だけに、きっとオタクだらけの地味な職場なのだろう。そう決め込んで面接に向かった僕は、大いに驚かされることになる。
  扉を開けた先のフロアは、まるでデザイン事務所のようなオフィスだったのだ。
  ゆとりをもって配置された天然木のデスクと、座り心地のいいオフィスチェア。観葉植物やインテリアも、シンプルでセンスのいいものばかりだ。そして働く人たちの身なりや持ち物も、みんなオシャレだった。オタクっぽい人がほとんど見当たらず、「これが本当にコンピュータ系の会社なのか?」と心配になるほどだ。
  彼らが軒並みオシャレだった理由は、すぐに解き明かされる。みんなの机に置かれていたのは、マッキントッシュ(Mac)だったのである。



人はカネのために働くのか?

 世間から「ヒルズ族」と呼ばれていたライブドア時代、分刻みのスケジュールで働く僕を見て、こんなことを言ってくる人がいた。
 「もう一生かかっても使い切れないくらいのお金を手にしたんだから、リタイアしてのんびり暮らせばいいじゃないですか。それとも、まだお金がほしいんですか?」
  当初は冗談だと受け流していたのだが、どうもそうじゃないらしい。取材記者から合コン相手の女の子まで、かなりの人が同じようなことを言ってくる。リタイアするだって? なぜそんな話をしているのか、僕にはまったく理解できなかった。
  たしかに、年末ジャンボ宝くじの季節になると「宝くじで一等が当たったら、会社を辞めて南の島でのんびり暮らしたい」といった声を耳にする。いまのあなたも、同じような気持ちでいるかもしれない。
  でも、どこかおかしいと思わないだろうか。
  大金を手に入れたら、リタイアして南の島でのんびり遊んで暮らす。
  要するにそれは、「カネさえあれば、仕事なんかいますぐ辞めたい」という話なのだし、裏を返すと「働く理由はカネ」ということなのだろう。……僕の信念とは正反対とも言える考えだ。
  いまも昔も、僕はお金がほしくて働いているわけではない。自分個人の金銭的な欲望を満たすために働いているわけではない。そんな程度のモチベーションだったら、ここまで忙しく働けないだろう。食っていく程度のお金を稼ぐこと、衣食住に困らない程度のお金を稼ぐことは、さほどむずかしいことではないからだ。
 では、僕にとっての仕事とはなんなのだろう?
  目的がお金じゃないとしたら、なんのために働いているのだろう?
  ここはぜひ、自分自身の問題として考えてほしい。
  あなたにとっての仕事とはどんなもので、あなたはなんのために働いているのか。
  もちろん、「メシを食うため」とか「家賃を払うため」は理由にならないし、そこで考えを止めてしまうのは、ただの思考停止だ。衣食住に事足りていながらも働く、その理由を考えてほしい。
  たとえば、中学時代の新聞配達は、僕にとって完全に「カネのため」の仕事だった。
  親に立て替えてもらったパソコン購入資金を返済する、ただそれだけのためにやった仕事だ。頭を渦巻くのは、あと何日続ければ完済できるのか、という計算ばかり。周りに新聞配達をやっているような友達は全然いない。
 「お金持ちの家に生まれていれば、こんな苦労もせずにすんだのに」
 「お金さえあれば働かなくてすむのに」
  まさに、宝くじでの一攫千金を夢見る人々と同じような気持ちで、新聞配達をしていた。働くこととは「なにかを我慢すること」であり、お金とは「我慢と引き替えに受け取る対価」だった。
  しかし大学生になり、インターネットに出会ってから、とくに自分の会社を起ち上げてからは「カネのため」という意識はきれいに消え去っていく。働くことが「我慢」でなくなり、お金に対する価値観も大きく変化していった。


お金から自由になる働き方

 まず最初に考えたいのが、どうして「宝くじで一等が当たったら、会社を辞めて南の島でのんびり暮らしたい」という発想が出てくるのか、という点だ。もっとストレートに言えば、どうしてそんなに仕事が嫌なのか、という話である。
  答えは、はっきりしている。
  多くのビジネスマンは、自らの労働をお金に換えているのではなく、その「時間」をお金に換えているのだ。
  とりあえず定時に出社して、とりあえず昼食を30分ですませ、大して忙しくもないのにサービス残業する。定時で堂々と帰宅できる人は、なかなかいない。自らの大切な「時間」を差し出すことによって、やる気やがんばりをアピールし、給料をもらっている。
  もし、時間が無尽蔵に湧き出るのであれば、これでなんの問題もないだろう。好きなだけ時間を差し出せばいい。
  しかし、時間とはどこまでも有限なものだ。年齢や性別、貧富の差などに関係なく、どんな人にも1日24時間しか与えられていないし、1年は365日しかない。残業に費やした時間は、プライベートの喪失というかたちで相殺される。
  それほど貴重な時間を差し出すとなれば、仕事に縛られ、お金に縛られている感覚が強くなるのは当然だろう。これは「時間」を提供する人にとって、永遠について回る課題である。
 そんなことを考えていた2004年、僕は『稼ぐが勝ち』という本を出版した。
  いかにも拝金主義的な、過激なタイトルに思えるだろう。けれど、僕の真意はまったく別のところにあった。僕があのタイトルに込めたメッセージは、「お金(給料)とは『もらうもの』ではなく、『稼ぐもの』である」というものだ。
  自分の時間を差し出しておけば、月末には給料が振り込まれる。……そんなものは仕事ではないし、働いていても楽しくないだろう。たとえ会社員であっても、自らの給料を「稼ぐ」意識を持たなければならない。
  そして積極的に稼いでいくために、自分は「時間」以外のなにを提供できるのか、もっと真剣に考えなければならない。
  これからの時代、時間以外に提供可能なリソースを持っていない人、漫然と給料を「もらう」だけの人は、ほどなく淘汰されていく。
  給料を「もらう」時代は、もう終わった。すなわち「稼ぐが勝ち」、なのだ??と。
 その意味でいうと、僕の主張は当時からほとんど変わっていない。強調しようとするあまり、誤解を招く表現を使ってしまったことへの反省は、当然ある。しかし、あのとき訴えようとしていたメッセージは、いまなお正しいものだと思っている。
  仕事が忙しいとか、お金が足りないといった悩みは、表層的な問題に過ぎない。
  人生が豊かになっていかない根本原因は、なによりも「時間」だ。
  有限かつ貴重な時間を、無条件で差し出さざるを得ない状況。時間以外のリソースをなにも持ちえていない状況が、根本原因なのだ。
  だから僕は、もう一度言いたい。
  お金を「もらう」だけの仕事を、お金を「稼ぐ」仕事に変えていこう。
  儲けるために働くのではなく、お金から自由になるために働こう。
  僕は20代の早い段階で、お金から自由になることができた。それはたくさんのお金を得たからではない。仕事に対する意識が変わり、
働き方が変わったから、お金から自由になれたのだ。


どんな仕事にも働きがいはある
 やりがいのある仕事がしたい。
  就活中の学生たち、また転職を考えている若者たちの相談を受けるとき、必ずと言っていいほど出てくるフレーズである。
  たしかに、仕事にやりがいを感じられず、すべてが「我慢」の仕事になってしまっているのだとすれば問題だ。最近ではやりがいのある仕事を探して、社会起業家や途上国でのボランティア活動などに注目する若者も増えてきた。いずれも大事なことだろう。僕自身も2011年の東日本大震災にあたっては、被災地まで支援物資を運んだり、ツイッターで安否確認情報の拡散に寝る間を惜しんで協力したりした。
  しかし、前々から疑問に思っていることがある。
  そもそも、やりがいとは「見つける」ものなのだろうか?
  どこか遠い場所に「やりがいのある仕事」が転がっていて、それを探し求める宝探しが、あるべき就職・転職活動なのだろうか?
  僕の考えは違う。
  やりがいとは「見つける」ものではなく、自らの手で「つくる」ものだ。そして、どんな仕事であっても、そこにやりがいを見出すことはできるのだ。
  こんな話をすると、「サラリーマン経験もないのに、適当なことを言わないでほしい」「経営者側の人間に、会社員の気持ちがわかるか」といった反発が出てくる。たしかに、僕はサラリーマン経験がない。学生のときに起業しているので、「入社」したこともないし、「上司」というものを持った経験もない。サラリーマン特有の悩み、息苦しさ、ジレンマを知らないと言われれば、そうなるのだろう。
  しかし、僕はもっと厳しい環境での仕事に従事していた。
  刑務所に身柄を拘束されての作業、すなわち「懲役」である。
 あまり知られていないことだが、「懲役」とは本来、受刑者を刑務所などの施設に拘置して、なんらかの刑務作業(仕事)をおこなわせる刑罰のことを指す。
  つまり「懲役2年6ヶ月」とは、ただそれだけの期間刑務所に閉じ込められるのではなく、「懲罰としての仕事」を2年半にわたって課せられる、という意味なのだ。もちろんここでの仕事には社会復帰に向けて経験を積むという側面もあるのだが、字義的には「懲罰としての仕事」だ。
  そこには、誰にでもできる退屈な単純労働があり、理不尽な上司とも言うべき先輩受刑者がいた。もちろん会社とは違って、辞表を叩きつけることもできない。そんな状況でも、僕は仕事にやりがいを見出すことができた。不貞腐れることなく、ひたすら働き、確かな喜びを実感していった。

  僕が最初に与えられた仕事は、無地の紙袋をひたすら折っていく作業だった。長野刑務所への移送が決まる前、東京拘置所に身柄を置かれた翌日のことである。
  与えられたノルマは1日50個。担当者から折り方のレクチャーを受け、さっそく作業を開始する。ところが、意外にこれがむずかしい。当初は「たったの50個?」と思っていたのに、時間内にノルマ達成するのもギリギリだった。いくら不慣れな作業だとはいえ、くやしすぎる結果だ。
  どうすればもっと早く、もっとうまく折ることができるのか? 自分の折り方、手順にはどんなムダがあるのか? 折り目をつけるとき、紙袋の角度を変えてはどうか……?
  担当者から教えてもらった手順をゼロベースで見なおし、自分なりに創意工夫を凝らしていった。その結果、3日後には79個折ることができた。初日の1.5倍を上回るペースだ。単純に楽しいし、うれしい。
 仕事の喜びとは、こういうところから始まる。
  もしもこれが、マニュアルどおりの折り方で50枚のノルマをこなすだけだったら、楽しいことなどひとつもなかっただろう。いわゆる「与えられた仕事」だ。
  しかし、マニュアル(前例)どおりにこなすのではなく、もっとうまくできる方法はないかと自分の頭で考える。仮説を立て、実践し、試行錯誤をくり返す。そんな能動的なプロセスの中で、与えられた仕事は「つくり出す仕事」に変わっていくのだ。
  仕事とは、誰かに与えられるものではない。紙袋折りのような単純作業でさえ、自らの手でつくっていくものなのである。
  その後、長野刑務所に移送されてからは、介護衛生係という仕事に就くことになった。高齢受刑者や身障受刑者らの世話をする、介護士みたいな仕事だ。お風呂の補助から下の世話まで、さらには掃除、洗濯、散髪、ひげ剃りなど、なんでもやった。もちろん、積極的に「やりたい仕事」ではない。それでも、高齢受刑者の体を起こしてあげるときのコツをつかんだり、バリカンを使った散髪のテクニックを覚えていくこと、自分の成長を実感することは、楽しいものだった。
 だから僕は、自分が経営者でなかったとしても、たとえば経理部の新入社員だったとしても、その仕事に「やりがい」を見出す自信がある。
  経理部に配属されたとしたら、より効率的な経理決算システムをつくったり、入力時間を半分で終わらせる方法を工夫したりと、どんどん前のめりになって仕事をつくり出していくだろう。そうやって自らの手でつくり出した仕事は、楽しいに決まっている。
  覚えておこう。
  やりがいとは、業種や職種によって規定されるものではない。
  そして「仕事をつくる」とは、なにも新規事業を起ち上げることだけを指すのではない。能動的に取り組むプロセス自体が「仕事をつくる」ことなのだ。
  すべては仕事に対する取り組み方の問題であり、やりがいをつくるのも自分なら、やりがいを見失うのも自分だ。どんな仕事も楽しくできるのである。



仕事を好きになるたったひとつの方法

 これは自分でも不思議だったのだが、僕は受験勉強が好きだった。学校の勉強はあんなに嫌いだったのに、中高時代はとてつもない落ちこぼれだったのに、受験勉強だけは好きになることができた。
  なぜ好きになったのだろう?
  仕事でも勉強でも、あるいは趣味の分野でも、人が物事を好きになっていくプロセスはいつも同じだ。
  人はなにかに「没頭」することができたとき、その対象を好きになることができる。
  スーパーマリオに没頭する小学生は、ゲームを好きになっていく。ギターに没頭する高校生は音楽を好きになっていく。読書に没頭する大学生は本を好きになっていく。そして営業に没頭する営業マンは、仕事が好きになっていく。
  ここで大切なのは順番だ。
  人は「仕事が好きだから、営業に没頭する」のではない。
  順番は逆で、「営業に没頭したから、仕事が好きになる」のだ。
  心の中に「好き」の感情が芽生えてくる前には、必ず「没頭」という忘我がある。読書に夢中で電車を乗り過ごしたとか、気がつくと何時間も経っていたとか、いつの間にか朝を迎えていたとか、そういう無我夢中な体験だ。没頭しないままなにかを好きになるなど基本的にありえないし、没頭さえしてしまえばいつの間にか好きになっていく。
  つまり、仕事が嫌いだと思っている人は、ただの経験不足なのだ。
  仕事に没頭した経験がない、無我夢中になったことがない、そこまでのめり込んだことがない、それだけの話なのである。
 もちろん、仕事や勉強はそう簡単に没頭できるものではない。
  たとえば、没頭のいちばん身近な例といえば、ゲームやギャンブルだろう。
  僕も学生時代には、危険なくらい競馬や麻雀にハマっていた。わかりやすい刺激と報酬、そして快感がセットになったギャンブルは、脳科学的に見ても人をたやすく没頭させるメカニズムになっている。近年、ソーシャルゲームにハマる人が後を絶たないのも、同じ理由によるものだ。
  しかし、仕事や勉強にはそうした「没頭させるメカニズム」が用意されていない。もともと物事にハマりやすい僕でも、学校の勉強がおもしろくない時期は長かったし、新聞配達のアルバイトなんてまったくおもしろくなかった。
 じゃあ、どうすれば没頭することができるのか?
  僕の経験から言える答えは、「自分の手でルールをつくること」である。
  受験勉強を例に考えよう。前述の通り、僕は東大の英語対策にあたって、ひたすら英単語をマスターしていく道を選んだ。文法なんかは後回しにして、例文も含めて単語帳一冊を丸々暗記していった。もしもこれが英語教師から「この単語帳を全部暗記しろ」と命令されたものだったら、「冗談じゃねーよ」「そんなので受かるわけねーだろ」と反発していたと思う。
  しかし、自分でつくったルール、自分で立てたプランだったら、納得感を持って取り組むことができるし、やらざるをえない。受動的な「やらされる勉強」ではなく、能動的な「やる勉強」になるのだ。
  受験勉強から会社経営、それに紙袋折りまで、僕はいつも自分でプランを練り、自分だけのルールをつくり、ひたすら自分を信じて実践してきた。会社経営にあたっても、MBAを出たわけでもなければ、経営指南書の一冊さえ読んだことがない。
  ルールづくりのポイントは、とにかく「遠くを見ないこと」に尽きる。
  受験の場合も、たとえば東大合格といった「将来の大目標」を意識し続けるのではなく、まずは「1日2ページ」というノルマを自分に課し、来る日も来る日も「今日の目標」を達成することだけを考える。
  人は、本質的に怠け者だ。長期的で大きな目標を掲げると、迷いや気のゆるみが生じて、うまく没頭できなくなる。そこで「今日という1日」にギリギリ達成可能なレベルの目標を掲げ、今日の目標に向かって猛ダッシュしていくのである。
 これはちょうど、フルマラソンと100メートル走の関係に似ている。
  フルマラソンに挫折する人は多いけれど、さすがに100メートル走の途中で挫折する人はいない。どんなに根気のない人でも、100メートルなら集中力を切らさず全力で駆け抜けられるはずだ。
  遠くを見すぎず、「今日という1日」を、あるいは「目の前の1時間」を、100メートル走のつもりで走りきろう。


「やりたいことがない」は真っ赤な嘘だ

 学生たちの集まる講演会で、質疑応答タイムに入る。そうすると、質問者のパターンはおよそ次の2つに分けられる。
  まずひとつは、勢いよく手を挙げて「とにかく成功したいんです! これからの時代、どんなビジネスが有望だと思われますか!?」と迫ってくる、野心むき出しの学生。彼らに対して、安易に「答え」を教えることはしない。自分が好きなことをやればいいと思うし、学生ならなおさらそこからはじめるしかないだろう。
  そしてもうひとつが「僕はやりたいことがなく、就きたい仕事がありません。この先どうしたらいいでしょう?」という消極的な学生だ。
 やりたいことがない。就きたい仕事が見当たらない。はたして、その人は本当に「やりたいことがない」のだろうか? 僕はこんなふうに訊ねる。
 「きみ、好きな女優さんはいる?」
 「ええっ? まあ……新垣結衣さんとか」
 「なるほど、ガッキーが好きなのね。じゃあさ、ガッキーと会ってみたいと思わない?」
 「それは、会いたいです」
 「じゃあ、どうやったら会えるようになるだろう? たとえばガッキーと共演できるような俳優さんになるとか、ガッキー主演の映画を撮る監督さんになるとか、いろんな道があるよね。それができたら幸せだと思うでしょ?」
 「え、ええ。でも僕にはとても……」
 「ほら、きみだって『やりたいことがない』わけじゃないんだ。問題は『できっこない』と決めつけて、自分の可能性にフタをしていることなんだよ。別に俳優さんになれとは言わないけど、ちょっと意識を変えてみたらどうかな?」
  なるべく話をわかりやすくするため、好きなタレントさんなどを糸口に話すことが多いのだが、言いたいことは伝わるだろう。
  海外の旅番組を見ていて、フランスの田園風景が映る。「こんなところに住めたら最高だなあ」と思う。英語に堪能な人を見て、羨ましく思う。自分と同年代のベンチャー起業家に刺激を受ける。
  ……それでも、これといったアクションを起こさないのは、なぜか?
  理由はひとつしかない。
  最初っから「できっこない」とあきらめているからだ。
  やってもいないうちから「できっこない」と決めつける。自分の可能性にフタをして、物事を悲観的に考える。自分の周りに「できっこない」の塀を築き、周囲の景色を見えなくさせる。
  だからこそ、次第に「やりたいこと」まで浮かんでこなくなるのだ。欲望のサイズがどんどん小さくなっていくのである。



ゼロの自分にイチを足す

 それでは、自らの「信用」に投資する、とはどういうことだろう?
  これが貯金であれば、話は早い。収入の何パーセントを貯金に回そうとか、積立用の口座をつくろうとか、小銭は全部貯金箱に入れようとか、いろんな「こうすればお金が貯まる」の具体例を紹介できる。
  しかし、信用となるとそうはいかない。
  たとえば、あなたが率先してボランティア活動に参加したり、多額の寄付をしていたとしよう。それについて、「すばらしい人だ」と評価してくれる人もいれば、「信用ならない偽善者だ」と反発する人もいる。ここばかりはどうにもできない。相手がどのように評価し、信用してくれるかどうかは、こちらでコントロールできる問題ではないのだ。特に、なにもないゼロの人間が「わたしを信じてください」と訴えても、なかなか信用してもらえないだろう。
  それでも、ひとりだけ確実にあなたのことを信用してくれる相手がいる。
  「自分」だ。
  そして自分に寄せる強固な信用のことを、「自信」という。
  僕自身の話をしよう。学生時代、僕は自分にまったく自信を持てなかった。中学高校では落ちこぼれだったし、女の子にはモテないし、大学に入っても麻雀や競馬に明け暮れる毎日だ。コンプレックスの塊で、自分という人間を信じるべき要素が、どこにも見当たらなかった。
  しかし、徐々に自分に自信を持てるようになっていく。
  それはひとえに「小さな成功体験」を積み重ねていったおかげである。ヒッチハイクで心の殻を破り、コンピュータ系のアルバイトに没頭する過程で、少しずつ「やるじゃん、オレ!」と自分の価値を実感し、自分のことを好きになっていった。
  なにもない「ゼロ」の自分に、小さな「イチ」を積み重ねていったのである。
 さて、大切なのはここからだ。
  自分に自信を持てるようになると、他者とのコミュニケーションにも変化が出てくる。誰に対してもキョドることなく、堂々と振る舞えるし、多少むずかしい仕事を依頼されても「できます!」と即答できるようになる。ハッタリをかませるようになる。
  会社を起ち上げて間もないころ、僕はいつも強気にハッタリをかまし、技術的に可能かどうかわからない案件をガンガン引き受けていた。受注してから書店に走り、専門書を読み込んで対応することもしばしばだった。



孤独に向き合う強さを持とう

 決断とは「なにかを選び、ほかのなにかを捨てる」ことだ。
  あなたはAを選んだつもりかもしれないが、それはBやCやDの選択肢を捨てたということでもある。たとえそれが正しいものだったとしても、決断には大きな痛みが伴うこともあるだろう。
  僕がそのことをもっとも痛感させられたのは、離婚の決断を下したときだった。
 僕が結婚したのは1999年、まだ27歳のときのことである。特に結婚願望があったわけではない。付き合い始めて半年あまりでの、いわゆる「できちゃった婚」だ。
  当時は会社が上場を直前に控えていた時期でもあり、僕は多忙を極めていた。
  起業してから3年間、全力で走り続けた。会社に寝泊まりしては朝日とともにパソコンに向かう毎日。旅行に行くことも、のんびり読書することも、飲みに行くことさえほとんどなかった。
  しかも当時は、上場の是非をめぐって他の創業メンバーとの間に激しい対立が生じていた時期で、肉体的にも精神的にも疲れ果てていた。
  きっと僕は、癒やしを求めていたのだろう。そして仕事以外のことを深く考える余裕がなかったのだろう。なんとなく知り合った女性と、なんとなくの流れで付き合い、なんとなくの流れで結婚した。
  たしかに気のよい、一緒にいてリラックスのできる女性だったし、決して悪い感情を持っているわけではない。いまでも年に一度くらいはメールのやり取りがある。
  しかし、家庭的で保守的な彼女と、仕事と効率を最優先に考えていた僕は、完全に水と油だった。仕事や人生設計に対する考え方、家事や育児に対する考え方、そして夫婦や家族という枠組みに対する考え方。すべてが違っていた。
  もちろん僕も、休日には子どもをお風呂に入れたり、おむつの交換もすすんでやった。子どもがお腹を壊したときに交換するおむつの匂いは、いまではいい思い出だ。妻の買い物にも付き合ったし、家庭や子育てを放棄していたわけではなかった。
  それでも、僕の知っている「家庭」とは、あの八女の町にあった堀江家なのだ。
  子どもの授業参観なんか出る必要がないと考え、たった一度の家族旅行で立ち食いそばを食べさせる両親しか知らないのだ。率直に言って、温かい家庭がどういうものなのか、なにをどうすれば一家団らんができるのか、みんなどうやって良きパパ、良きママになるのか、僕はいまだにわからない。
  結局、彼女とは2年ほどで離婚してしまった。これ以上、結婚生活を続けることはできない。このまま関係を続けても、お互い不幸になるだけだ。僕としては、十分に納得した上での結論だった。これで自由になれると、離婚できたことを喜んでさえいた。
 ところが、ここから人生最大の孤独に襲われることになる。
  妻と子どもの出ていった空間の、残酷なまでの広さ。子ども用のおもちゃ、カラフルな飾りつけ、妻の雑貨などがなくなった部屋の、絶望的な静けさ。
  あれほど煩わしく感じていた家庭を失うことが、こんなにも寂しいものなのか。
  ひとりで住むには大きすぎる、殺風景な一軒家。それはまるで、がらんどうになった僕の心を映し出す鏡のようだった。
  寂しさを紛らわすため、友達を呼んで大騒ぎしたり、適当な女の子を連れ込んでセックスしたりしてみても、すぐさま孤独な時間がやってくる。家に帰るのが嫌で、酔いつぶれるまでバーを飲み歩く日々が続いた。しらふのまま家に帰ると、否が応でも「ひとり」を突きつけられるのだ。食事や睡眠は不摂生になり、女性関係もだらしなくなり、自分の弱さにほとほと嫌気が差してくる。



過去に執着しない「諸行無常」の原則

 ライブドアという会社を失って、未練はないか。
  そう聞かれたら僕は「ない」と即答できる。たしかに命がけで育てていった会社だ。誰よりも深い愛着はある。しかし、未練はない。僕はすでに前を向いているからだ。
  僕には人生で一度だけ、引きこもりになっていた時期がある。
  2006年1月に逮捕され、保釈が認められたのが同年4月。そして東京地裁での初公判が同年9月のことだった。
  この保釈から初公判までの約4ヶ月、ほとんど外に出ることがなかった。まず、保釈中の僕にはライブドア関係者との接触が禁止されていた。もしも接触し、それが露見してしまえば保釈金(僕の場合は3億円だった)は没取され、なおかつ保釈が取り消されて収監されることになってしまう。
  とはいえ、僕はこの10年、生活のほぼすべてをライブドアに捧げてきた。しかもライブドア関係者は、膨大な数にのぼる。「ライブドア関係者に会うな」とは、僕にとって「友人・知人に会うな」と言われているに等しかった。
  そこで保釈された直後、まずは自分の携帯電話番号とメールアドレスを変更した。さらに、電話帳に載っているライブドア関係者の連絡先もすべて削除した。一人ひとりの名前を消すたびに、もうこの人と連絡を取ることはないのだ、もう二度と会えないのだ、と覚悟を決めていった。
  テレビをつけると、いまだ僕の話題で持ちきりだ。まだ公判も始まっていないとはいえ、当然僕は犯罪者として扱われている。テレビや新聞を見ることも嫌になる。電話が鳴ると、ライブドア関係者ではないのか、知人を装ったマスコミではないのかと不安になる。
 さらに僕は、一連の騒動を経て、軽い対人恐怖症になっていた。
  長い勾留生活のせいもあり、人の視線が怖くなっていたのだ。しかも困ったことに、僕はどうも目立ちやすい風貌をしているらしい。これは太っているときも痩せているときも同じで、いくら帽子やめがねで変装しても、すぐに「あっ、ホリエモンだ!」と気づかれてしまう。自宅の外には週刊誌の記者が待ち構えており、彼らはたとえば僕がコンビニに行っただけでも「ホリエモン、失意のコンビニ生活!」といった、悪意に満ちた記事を仕立て上げることができる。
  ブログを更新するにも、なにを書けばいいのかわからない。東京を脱出しようにも、保釈からしばらくは1泊までの旅行しか許可されない。当局の目を過剰に意識して、なにがどこまで許されるのか、戦々恐々としていた。ほんとうに、生まれて初めて経験する引きこもり生活だった。
 そんな僕にとって大きな救いとなってくれたのが、ライブドアとは関係なく仲良くしてくれた幾人かの友人、それから2005年の郵政選挙に出馬した際に広島で知り合った、ボランティアスタッフたちだ。
  おそらく、僕が郵政選挙に出馬したとき、ほとんどの人は「また堀江が売名行為を働いている」とか「どこまで権力志向が強いんだ」といったネガティブな見方をしていたと思う。それでも僕の訴えに共鳴し、私利私欲を越えて「日本を変えましょう!」と立ち上がってくれたのが、彼らボランティアスタッフである。
  真夏の選挙戦は相当ハードなものだった。
  僕自身、少なく見積もっても10万人以上の有権者と握手したし、徹底したドブ板選挙を展開した。結果としては地元のドン、亀井静香氏に敗れてしまった。それでも、あの厳しい選挙戦を志ひとつで戦ってくれたボランティアスタッフの熱意には心底感動したし、ほんとうに感謝している。
  そんな流れもあり、保釈された僕が再び動き出そうとしたとき、真っ先に声をかけたのが彼らだった。いまでは宇宙事業をはじめとするさまざまな分野で、あのときと同じ熱意を持って伴走してくれている。やはり、かけがえのない仲間である。


塀の中で見つけたほんとうの自由

 長野刑務所で過ごした約1年9ヶ月の日々は、僕になにをもたらしたのだろう。
  僕はなにかを学び、少しくらいは成長することができたのだろうか。それともなにも成長しないまま、無益な時間を過ごしてしまったのだろうか。
  いろいろな変化があったのは確かだ。高齢受刑者の介護など、これまでやったことのない仕事に携わることもできたし、たくさんの本を読む時間にも恵まれた。図らずも「獄中ダイエット」にも成功し、あらゆる意味で身軽になった。
  一方、刑務所内でもメルマガの発行を継続するため、毎週手書きで原稿を書いていた。さまざまなビジネスプランを練り、読者からの質問や相談に答えていった。インターネットが使えない分、どうしても情報は紙媒体を中心としたオールドメディアに偏っていく。情報収集にインターネットをフル活用していた僕としては、かなりの痛手だ。それでも、スタッフにブログ記事やツイッター投稿などをプリントアウトしたものを差し入れてもらうことで、情報の偏りをカバーしていった。
  考えてみればおかしなものだ。
  塀の中に閉じ込められ、自由を奪われた僕が、塀の外で自由を謳歌しているはずの一般読者から、仕事や人生の相談を受けていたのだから。
  そして思う。
 「みんな塀の中にいるわけでもないのに、どうしてそんな不自由を選ぶんだ?」
 刑務所生活で得た気づき、それは「自由とは、心の問題なのだ」ということである。
  塀の中にいても、僕は自由だった。外に出ることはもちろん、女の子と遊ぶことも、お酒を飲むことも、消灯時間を選ぶことさえできなかったが、僕の頭の中、つまり思考にまでは誰も手を出すことはできない。
  だから僕は、ひたすら考えた。自分のこと、仕事のこと、生きるということ、そして出所後のプラン。思考に没頭している限り、僕は自由だったのだ。
  あなたはいま、自由を実感できているだろうか。
  得体の知れない息苦しさに悩まされていないだろうか。
  自分にはなにもできない、どうせ自分はこんなもんだ、この年齢ではもう遅い??。
  もしもそんな不自由さを感じているとしたら、それは時代や環境のせいではなく、ただ思考が停止しているだけである。あなたは考えることをやめ、「できっこない」と心のフタを閉じているから、自由を実感できないのだ。
  思考に手錠をかけることはできない。
  そして人は考えることをやめたとき、手錠と鍵をかけられる。そう、思考が硬直化したオヤジの完成だ。彼らはもはや考えることができない。考える力を失ってしまったからこそ、カネや権力に執着する。そこで得られるちっぽけな自由にしがみつこうとする。彼らオヤジたちに足りないのは、若さではなく「考える力」、また考えようとする意志そのものなのだ。
  僕はオヤジになりたくない。
  年齢を重ねることが怖いのではなく、思考停止になること、そして自由を奪われることが嫌なのだ。だから僕は考えることをやめないし、働くことをやめない。立ち止まって楽を選んだ瞬間、僕は「堀江貴文」でなくなってしまうだろう。
  あなたは普段、どれくらい考え、どれくらい行動に移しているだろうか。借りてきた言葉を語る、口先だけの人間になっていないだろうか。
  この最終章では、自由について、そして僕の考える「これからの生き方」について話を進めていきたい。

2013年10月30日水曜日

女性は春夏。男性は秋




「20歳の顔は自然の贈り物。50歳の顔はあなたの功績」
「綺麗な人と言われるようになったのは、四十歳を過ぎてからでした」
「 20歳の顔は自然から授かったもの。 30歳の顔は自分の生き様。 だけど50歳の顔には、 あなたの価値がにじみ出る。」




…裏を返すと生活習慣やお金によって、綺麗な人に昇華することは可能だけれども、
30歳までは、生まれたもの、先天的な容姿の要素が最も人生をイージーモードにするかハードモードにするかを決めているのではないだろうか。
特に、女性の人生おいては。

男も、人生の春は遺伝的要素(足が速いとかサッカーが上手いとか)によって左右される部分があるけれども、夏と秋に、努力をしたらした分だけ、遺伝的要素を駆逐できる確率が高い。

もちろん、強烈な努力が必要なのだけれども、社会的能力は容姿と違って努力で改善していけるという面においては男性の人生は辛くて楽しい。


 
おまけに、男性の人生は秋(ハーベスト期)が非常に長い。
下手をすれば、死ぬ寸前(冬)の直前までハーベスト期だ。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




女性の人生における春と夏は本当に鮮やかだ。
ただ、鮮やかなものは短命。美人薄命。きれいな花はすぐ枯れる。
その春と夏のうちに自分を高く売る。

株と同じだ。高値で売り抜けなければ、どれだけ高値に一時的になったとしても後は下落するだけだ。
その、春と夏が終わった頃にやっと、自分に対する投資が実を結ぶと言うのは、やはり、いかに良い遺伝子で良い容姿的要素を授けてもらえるか、がきわめて重要な気がする。

もちろん、歳を重ねるごとに、人間として女性として女として、女性の価値が高まっていくことを否定する気はないけれども、メスとしての市場価値は間違いなく人生における春と夏がピークだと思うし証明されていると思う。。

しかしながら、「女性=産む性」 という進化論的な理論を抜かせば、女性は死ぬまで綺麗になっていく生き物でもあるのだとも思う。



2013年10月12日土曜日

Dr.House season6 #4 カルマ(Instant Karma)


ディバラのコレステロール値をどうしても説明することができず、耐えられなくなったチェイス

ハウスがオフィスに戻ると、彼の席にチェイスが座っていた。
チェイスがなぜクロムを思いついたのかと訊ねると、ハウスはディバラのような太った老人であればコレステロールの薬くらい飲んでいるだろうと考えただけだと返した。

クビにしないのかと訊ねると、ハウスは「殺人は誤診よりましだ」と答えた。
それを受け、チェイスは「たとえ望まなくてもいつだって先生がボスだ」と言い残して去っていく。

House:「Better a murder than a misdiagnosis」
Chase:「Whether you want to be in charge or not, you are.And you always will be」

2013年10月5日土曜日

出産した女性が別人のように強くなる理由



■母親が強い理由は脳にあった


さて、女性が子供を産み搾乳が始まると、オキシトシンという物質が分泌されるようになります。
これにより、女性脳は「母性脳」とも言える状態に大きく変化します。
オキシトシンには母乳の精製を促す作用があるため搾乳中の女性により多く分泌されるという性質があります。

オキシトシンのもう一つの作用は恐怖心が減退することです。
母親は子どもを守るためなら天敵が現れても逃げないで立ち向かいます。


命に代えてでも子どもを守ろうとするのは
母親脳に恐怖感を感じるセンサーが減っているからなのです。

「肝っ玉かあちゃん」と言われるように母親になる女性の肝が据わっているのはオキシトシンの作用があるのです。




■女性の方が泣きやすい理由


エストロゲン濃度が高いときには
脳内のセロトニン濃度も高く、
低いときにはセロトニン濃度も低くなっている。
つまり、排卵前の女性は、セロトニン濃度が高いので
それだけ共感脳も活性化しているので涙もろくなり、
月経前の女性は、セロトニン濃度が低いので
反対に泣きにくい状態にあるということです。
女性は思春期になるとエストロゲンがさかんに分泌されるようになります。
このエストロゲンという物質はセロトニンを活性化させます。
人に何かしてあげることがうれしい、人と共感し合うことで
自分も癒されると言う性質は女性脳の特質として発達していったのです。

2013年9月17日火曜日

「統合失調症患者にみる肥満傾向」についての考察






一日の中で病棟が最も活気にあふれるのは3時のおやつの時間である。

いざ売店へとたどり着くと、患者は菓子の並ぶ棚を物色し、各々お気に入りの菓子や飲み物(十中八九コーラである)を買うのだが、彼らの選択肢はさほど多くはない。金銭的な問題もあるが、誤嚥のリスクが高い菓子類(特にパンや、硬いもの)は遠慮してもらう。病棟へ戻り、スタッフの目の届く範囲のテーブルで購入した菓子を食べるのだが、彼らの食べる、飲むの早さは尋常ではない。これは食事においても同じである。コーラを飲み干す早さは、ハイキングウォーキングのQちゃんにも引けをとらないだろう。





余談だがこの病棟にはデイルームに自動販売機が1つ設置されているのだが、患者が選ぶのは常にコーラである。コーラの横に並ぶ水やお茶などを患者が買う場面を見た試しがない。聞くところによるとこの傾向はこの病棟(病院)に特異なものではないらしい。特にかくコーラの消費量が半端ではないのである。1日になんども業者がコーラの補充に来る。仮に1日のコーラ販売数が最も多い自販機であったとしても驚かないだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20140925065545






○脳を刺激するためにはジャンクフードが効果抜群

個人的な印象として統合失調症の人あるいは発達障害群の人たちは肥満傾向が強い感じがする。

更に言えば、好きな食べ物が甘い食べ物や炭水化物、あるいはジュースなどのいわゆる高カロリーで糖分が多い食事を好む傾向が強いイメージがある。


この理由について考えてみた。
低血糖症という病態とかなり重なる部分がある。





統合失調症あるいは発達障害と呼ばれるような人たちにはなんらかの共通した食事傾向が見られるような気がする。
好んで食べるものに共通項がある気がしてならない。


白米、ハンバーガー、冷凍食品、おかし、ジュース、乳製品。


血糖値をビューッといっきにあげてくれるもの。
カテコールアミン強烈に刹那に発生させる食事を求めている。







「おいしい!」という快感を味わえるからジャンクフードの類を好むのかなと。

脳にドーパミンを発生させるには消化が早くて血糖値が一気に上がってハイになれる食べ物、つまりジャンキーなものが最も好ましいからだ。
統合失調あるいは発達障害では、こだわりが強く出る傾向があるので、そのこだわりの一部として考えてみてもいいんだけど、
じゃあ別に野菜とか大豆とかでもいいはずなんだけど、そういうものじゃなくてジャンキーなものが好きだとなると、
刺激が足りない脳に刺激を与えるためにも、血糖値が一気に上がるジャンキーな食べ物を好むのだろうと思うし、
「健康に良くない」と家族が助言をしても、こだわり行動としてなかなか家族の思いは通じないと言う面もあるとは思う。








以下に、ドーパミンとビタミンB3の話の引用を。







①ドーパミンが適切に働かないのでいつまでも満足が得られない?

 >>
統合失調症の陽性症状(幻覚・妄想など)は基底核や中脳辺縁系ニューロンの ドーパミン過剰によって生じるという仮説がある。
 統合失調症はドーパミンが過剰に出ていて
反対に うつ病はドーパミンが不足してる状態だそうなんですが。
<<
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1345409638

 >>
統合失調症患者はいくら食事で炭水化物と糖質を過食して血糖値を上げても
血液中の糖分と脂質を全身の細胞がエネルギーとして燃焼するパフォーマンスが著しく低いそうです
過食しても脳も筋肉も摂取した炭水化物及び糖分をエネルギーとして上手く使うことができず 
 統合失調症患者は常にエネルギー不足で怠くて疲れやすく腹が減るそうです
<<
http://blog.livedoor.jp/diamondwave1/archives/65640899.html


②炭水化物の過剰摂取でただでさえB3を消費しやすいのにさらにB3の不足をもたらすから?あるいはB3が減りやすい体質で炭水化物の代謝にはB3が欠かせないから太ってしまう?


 >>
先生、最近になり統合失調症にたいしてビタミンB3(ナイアシン)を投与する治療法が話題になっていますね。
 確かに話題になっています。しかし統合失調症に対するビタミンB3(ナイアシン)の投与は、カナダやアメリカでは20年以上以前から行われております。
それでは、アメリカなどでは統合失調症に対するビタミンB3(ナイアシン)の投与は、広く一般的に行われているのでしょうか?

いいえ、アメリカなどでもこの治療法は広く受け容れられているのではありません。
 外国でも統合失調症に対しては薬物治療が中心になっています。
 先生は、ビタミンB3(ナイアシン)だけでなく、総合的な栄養アプローチを統合失調症の患者様へ行っていると聞きましたが・・・
 そうです、このクリニックは全員の方に詳細な血液検査を行い、そのデータと症状から必要な栄養素を選びます。
 統合失調症の方には、ビタミンB3(ナイアシン)を使用しますが、その他に検査データから必要な栄養素を追加するのです
<<
http://www.shinjuku-clinic.jp/konnakata/K_VB3.html



>>
血液中のヒスタミンレベルが非常に低い統合失調者では ありもしないことを本当だと思い込む妄想と、この世の現実にはありえないものを見る幻覚が
発生していた。すなわち、ヒスタミンレベルが高すぎるか、低すぎるかによって、
 心の病や神経の異常な興奮が発生している。
ヒスタミンレベルが高すぎるか低すぎるかによって、
 心の病や神経の異常が発生していた。
 低ヒスタミンは銅の過剰によって発生する。
そこで銅の過剰を抑えるために、ビタミンCとナイアシンB3を投与したところ、
ヒスタミンを正常範囲内に収めることが出来た。
 高ヒスタミンの患者にビタミンCとナイアシンを投与しても、効果が無かった。
しかし、カルシウムを投与すると、ヒスタミンレベルが下がり、症状は改善した。
<<
(心の病は食事で治す 生田哲  PHP研究所)





■PDF

http://www.nishihara-world.jp/work/pdf/170417_nmc_6_03.pdf#search='%E7%B5%B1%E5%90%88%E5%A4%B1%E8%AA%BF%E7%97%87+%E4%BD%8E%E8%A1%80%E7%B3%96%E7%97%87'








統合失調症の人は犬好きな人が多いイメージ。
一定のルールに従って人間に接してくれるからかな?猫に比べると。

脳に何らかの以上がある病態では、自分の予測を超えたことが目の前で起こると混乱が生じる確率が高い。
そういう意味でつかみどころの無い猫は好まれないのかもしれない。

ある程度、一定のわかりやすいルールで動いてくれる犬を好むのかもしれない。
  

2013年9月5日木曜日

きみはいい子 中脇初枝 ポプラ社












ーー「うばすて山」より


ほんとのおかあさんをすきになれないんて。
おかあさんをだいきらいと思ってしまうなんて。
きっと、こんなにわるい子は、どこにもいないと思っていた。


「いいんだよ。きらいでも。」
「そんなにひどいおかあさんなら、きらいでいいんだよ。無理にすきになる必要はないんだよ。ひどいことをされたら、それがたとえおかあさんでも、中田にとってはひどいことなんだから。ひどいひとをすきになる必要はないんだよ」



わたしはそのときはじめて、おかあさんをきらいな自分をきらいになる必要がないことを知った。









ーー「サンタの来ない家」より


「おとうさんが言うんだ。五時までは家に帰ってくるなって。」

「こんなところにいたらかぜひくよ。先生が送っていくから。」

「だめだよ。おとうさん、すごく怒るから」

「そんなの、怒るほうがおかしいんだ。」

「違うよ」
「ぼくがわるいんだよ。ぼくがわるい子だから、おとうさんが怒るんだ。」

「なんでわるい子だと思うの。」

「だって、おとうさんが怒るから。」

「それは、おとうさんのほうがおかしいんじゃないかな」

「ママだって怒る。」

「ママもおかしいんだよ。」



「どうしたら、いい子になれるのかなあ」
「ぼく、わからないんだ。」















「神田さんは、わるい子じゃないよ」
「神田さんは、なんにもわるいことしてないよ。」

でも、ぼくが言ったんじゃだめだということを、ぼくは知っている。ぼくじゃなくて。

「神田さんは、いい子だよ」


神田さんの長いまつげから、大きな涙がぽたりと落ちた。
糸を引くように、ゆっくりと地面に落ちた。

神田さんの肩が震えていた。

ぼくが、抱きしめていいんだろうか。
本当は、ぼくではないだれかがすべきこと。
神田さんが本当に望んでいるのは、ぼくではない、誰か。
でも。
そのだれかから、どんなに望んでも、与えられないとしたら。













*******









ある種の人にとっては、ずーっと開けないようにしてきたドアが
開いてしまうスイッチとなりかねない一冊かと。

愚痴愚痴いいながら、全力で進めば良いだけ!




◇言葉と行動は別!



 

■「きつい!つらい!!」と言いながら進めば良い


「ツラいとわかっていても、それでもそのツラさ先にあるものが欲しくて頑張ってるんでしょ?だったら、しょうがないじゃない自分で選んでるんだからグチグチ言うんじゃない」
という正論の刃が牙をむく。
特に自分に厳しい性格の人(真面目で規範意識が強く、弱さを見せたくないタイプ)を追い詰めることは往々にある。

けどね、「ツライ状況を選んだんだから文句いうな」と「ツラいよ~と感じる、あるいは言葉にする」というのは別のものなんだよね。





 

■ツラいツラいと愚痴りながら、その状況を乗り切る。何も矛盾していない


よく女の学生さんがテスト期間になると「テストだるい」「勉強する意味ない」「テストやベー勉強してねー」などなど言いあっている場面があります。
真面目なタイプの人からすれば「はぁ、勉強は学生の義務でしょ、ちゃんとやれよ!」と思って怒りを覚えるでしょう。
当然ですね。自分は必死でやっているのにそれを放棄する人がいれば、怒りを覚えて当然です。

けどね、彼女達がテスト勉強を放棄するのかと言えばそうではない。

グチグチ言い合いながら、ちゃんと勉強して結果を残すのである。
もちろん、中には愚痴だけ言って勉強しない人も居るだろうけれど、
基本的に人は、ツライ状況に向き合えるものだと信じている。


愚痴ってもいいんだよ。

ツライならツラいんだなって言葉にして口から発してみる。
そうやってみんなやってるんだから。

甘えたことを言って、行動は妥協をしない、それだけのこと。
人間は胸に秘めた勘定を口にすることで余裕を取り戻して個々人が成すべきことに全力で向かいあっていくのが正しい姿だと思うのです。






2013年9月4日水曜日

親しい人が「境界性パーソナリティ障害」だと気づいた時に ~A to M~




※以下の5はすべて同意語である

境界性パーソナリティ障害
境界性人格障害
BPD(Borderline personality disorder)
ボーダーライン
ボーダー






※※参考文献

(普通に生きられない人たち 磯部潮 河出書房新社)
(境界性パーソナリティ障害 岡田尊司 幻冬舎)
(境界性パーソナリティ障害  疾患の全体像と精神療法の基礎知識 小羽俊士 みすず書房)


















○はじめに


最後にもう一度出てきますが、はじめに言っておきたいのは
『地雷が爆発するのは踏んだときじゃない。足を離す時なんだ!』ということです。

地雷が爆発し人間を吹っ飛ばすのは踏んだときではなく、離そうとした時なのです。
踏んだだけではまだ、それほどの被害はありません。
しかし、踏みつけたものが地雷だと知ってしまったときから、状況は一変しいっきに緊張感が増した現実が襲ってきます。

踏み続けるのも地獄、足を離すのも地獄。
そうなったときに、地雷を爆発させず(あるいは爆発したとしてもなるべく軽症で済むよう)に持っていくには、どうすればよいのでしょうか?

読み進めることで、地雷からの脱出に少しでもヒント、あるいはヒントのきっかけになれれば、これ幸いでございます。





△主題

愛する人がBPDを抱えていると知らずに愛してしまったときのため。
そして、ある日、ついぞや我慢できずにBPDの人と別れようとした時に、
何が何でも別れることを認めないで強烈で卑劣な駄々をこねられた時、どうするべきか。








◎考察ーーBPDの人との未来は描けるか

境界性パーソナリティ障害というのは3歳児と同じです。

自分の都合のためだけに動いてくれる人が必要です。
常に自分を愛して欲しくて、100%の愛が99%になったと感じたらすぐに文句(強烈な罵声)を言います。
お母さんが思い通りにしてくれないと子どもは泣き叫びますが、それと同じことを寄生先に何の疑いもなく要求します。
感情をコントロールする能力が無い3歳児のボーダの人たちは、思い通りに行かないとすぐに行動化(暴力や叫び声、アルコールなど)で自分の中にある負の感情を爆発させてしまいます。


まさに、感情のコントロールができず大人のルールが通用しない3歳児のお守りをしているのと同じ徒労感を覚えるでしょう。


3歳児が3歳児らしく振舞うのは子どもらしくてかわいいのですが、ボーダーの人は、この3歳児の状態から心がまるっきり育っていません。
身体や知識などは優秀なくらいに身につくのですが、心の方はずっと3歳児のままなのです。


なぜ3歳児のままなのかというのは、個々人の理由や原因があるでしょう。
そういう遺伝なのかもしれないし育った環境なのかもしれない、あるいは(性的)虐待なのかもしれない。

ただ、残念ながらボーダーは治ることは無いと思います(寛解はあるという見方が多いですが)。

どんな優秀な治療者が治療にあたったとしても、そうとうに苦労と年月を必要とするでしょう。

なぜなら、3歳児の時に与えられるべきもの、そして3歳児のときに育てられるべきだったものは、
大人になってからの時点で与え育てたとしても、その人に染み込んでいくことはないからです。
だとすると、BPDの人はずっと3歳児の心のままで生きていくことになります。
3歳児の子どもとずっと生活していけるでしょうか?
いえ、本当に3歳児の子どもとなら生活していけるでしょう。
ただ、そこにいるのは成人をはるかに超えた3歳児の心の持ち主なのです。

誰かを愛したり、誰かに優しくしたり、誰かを尊重したり、家族を大切に思ったり、子どもを育てたり…そういう大人の振る舞いを、愛が足りなくて泣き叫んでいる3歳児の大人に期待できるでしょうか??

いつの日にか、BPDの人と二者関係以外の段階(結婚出産など)に進もうと思ったときには、そうとうの覚悟が必要でしょうし、もしも、そういう段階に進みたいと思っているけど、それはこの人では無理だなと感じたとしても、
どちらに進むことになろうとも、意味の分からない徒労感に何度も襲われながら進むことになるでしょう。

3歳児の子供が親に捨てられると分かったら、どうなるでしょうか?
そして、その3歳児が知識も経験も策略も考えられる大人の3歳児だった場合、どんな手を使ってでも捨てられないようにするのではないでしょうか?
あるいはもしも次の段階に入ったときに、3歳児に家庭を運営したり子育てをしたり、という機能を期待できるでしょうか?

「多少の疑問符を持ちつつも、現在の心地よさに溺れていると、溺れた未来が待っている」のではないか…
私が危惧しているのはその一点だけです。

「進むも地獄進まぬも(結婚するのも別れようとするのも)地獄」という終着駅に着くまでどうにか第三の道を用意できることを祈るばかりです。











 

▽境界性パーソナリティ障害の特色



■境界性人格障害の診断基準(アメリカ精神医学会 DSM-Ⅳ)


 対人関係、自己像、感情の不安定および著しい衝動性の広範な様式で、成人早期に始まり、種々の状況で明らかになります。
診断は以下のうち、5つ(またはそれ以上)で示されます。

1. 現実に、または想像の中で見捨てられることを避けようとする気違じみた努力
 注:基準5.で取り上げられる自殺行為または自傷行為は含めないこと

2.理想化とこき下ろしとの両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる不安定で激しい対人関係様式

3. 同一性障害:著明で持続的な不安定な自己像または自己感

4. 自己を傷つける可能性のある衝動性で、少なくとも二つの領域にわたるもの
(例:浪費、性行為、物質乱用、無謀な運転、むちゃ食い)
 注:基準⑤で取り上げられる自殺行為または自傷行為は含めないこと

5.自殺の行動、そぶり、脅し、または自傷行為の繰返し。

6. 顕著な気分反応性による感情不安定性
 (例:通常は2、3時間持続し、2、3日以上持続することはまれな、エピソード的に起こる強い不快気分、いらいら、または不安)

7. 慢性的な空虚感

8. 不適切で激しい怒り、または怒りの制御困難
 (例:しばしばかんしゃくを起こす、いつも怒っている、取っ組み合いのケンカを繰り返す)

9. 一過性のストレス関連性の妄想様観念または重篤な解離性症状
境界性人格障害は、有病率1%~2%居ると言われており、日本では250万人ほどと考えられています。

男女比では女性の方が2倍多く、特に若い女性に多くみられます。









■幼い頃の過酷な体験が要因となる

境界性パーソナリティ障害の人に、しばしば心的外傷体験が認められることが、経験的に知られていた。

たとえば、身体的虐待や性暴力のサバイバーでは、境界性パーソナリティ障害を発症する頻度が高い
それ以外にも、離別や死別体験、事故や事件の被害者となること、過酷な逆境体験も、適切な手当てがされていないと、深い傷を与え、発症の原因やきっかけとなることがある。

幼い頃にそうした体験をするほど、影響は深刻になる。






■自己と他者の境界が曖昧になる

このタイプの人では、自分と他者との境目が曖昧で、十分に区別できていないということである。
そのため自分の視点と他者の視点を混同してしまいやすい。
自分が好きなものは、相手も気に入るに違いない、逆に、自分が嫌いなものは、相手も嫌うはずだと思う。
自己と対象が区別されているようで、しばしば混同される結果、常識が通用しない特有の問題が生じてくる。

自分の基準でしか、相手を見ることができないということである。
これは、周囲の問題にばかり目が向きやすい原因ともなる。

対人関係や子育てでも相手を一面的に判断し、好き嫌いや支配の激しい、過酷な状況を作りやすい。






■親は大好き。だけど大嫌い

見捨てられ不安は、殆どの例で親が対象になります。

幼い頃寂しい思いをして、親から見捨てられた。
だからこんな不安定な人間になった、自分の人生をどうしてくれるんだと、親を責めます。

BPDの人の多くは、親の育て方によって今の自分が作られた、親のせいだと言います。
幼児期に寂しい思いをした、親と切れている、自分を見てくれなかった、頼れなかったなどと言います。
幼い子どもは親に甘え、
保護され愛されたいと言う思いがあってこそ、思春期になって徐々に親離れしていきます。

しかし、幼児期に十分に親に甘えることができなかったので、心が寂しいままだという言うのです。










■二人の関係から他人を排除する理由

BPDの人たちは何をしても「虚しい」といつも訴えます。
彼らは「不安定の安定」というかりそめの安定を保っている時にも虚しさを訴えます。
そして、BPDの人は、自分の心の中に欠損があるといいます。

イギリスの精神分析医であるバリントはこれを「基底欠損」と呼びました。
バリントは「基底欠損領域」というものを想定し
この領域においては言葉は本来の伝達手段となりえないとしました。

たとえば、上司とそりがあわないとか恋人とうまくいっていないなどというときに
それは「葛藤」という言葉で表現でき、第三者に説明できます。

ところが、「基底欠損領域」においては、言葉は本来の言葉の意味は持たず、
言葉は途方もない好意か悪意としてしか捉えられず、相手の一挙一動に重大な意味が賊与されます。
この基底欠損こそがBPDの人が表現する
「なにか埋め合わせの出来ない心の欠落の存在」なのです。


3人関係においては必ずなんらかの葛藤が生じます。
これは「基底欠損領域」ではありません。

つまり、BPDの人の慢性的な空虚感は葛藤が生じた結果もたらされるものではありません。
それは欠損として現に存在しているのです。


うつ病の人は心の欠損を示すことはありません。
うつ病の人は心の欠陥を訴えることはあっても、心の欠損を訴えることはないのです。

すなわち、うつ病の人の心はたとえ一時期にトラブルを起こしても
元の状態にまで回復したとしても、それはあくまでも一時的なものであって、
埋められない内科かの欠損を再確認することにもなりかねないのです。

境界性人格障害の人の打つ病体は心の欠損がある限り、完璧な回復は原理的にはありえないのです。








■二者関係においてのみ病理が露呈

境界性を持った人の第一印象は儚げで、ひっそりしていて、どちらかといえば目立たない感じを受けます。
そしてこの印象は何も第一印象だけでなく周囲の人のある程度固定した評価であることが多いのです。

しかも、それだけでなく仕事ができ、周りに気を使うことができる、
などの有能であるという評価を受けていることさえあります。

これは不思議なことですが彼らの特性を考えれば当然のことです。

つまり境界性の人は二者関係においてのみ彼らの病理が露呈されます。
逆を言えばそれ以外の場では境界性が発揮されないということになるからです。


どういうことかというと、境界性、曖昧さというのは二つの場所の境界で成り立つものであって
3つ以上の場では成り立たないからです

誰かとの間に共生関係が構築されている時には、彼らの病理はそこに投影されて束の間の安定を得ています。
そしてそのときにはそれ以外の対人関係は比較的安定しているのです。
むしろ安定以上の能力を発揮しているといってもいいでしょう。
相手を振り回しているということ自体が彼らのパワーのポテンシャルの高さを示しています。
マイナスの方向と同程度のプラスのパワーが発揮される可能性をいつも秘めているのです。




Fさんとその彼氏の関係性を例にあげましょう。

Fさんは常にやる気がしない、母親が私を苦しめる、メールを自分の都合でしてきて
返事を返さないと何十回もメールをしてくる。電話も夜中でも早朝でもしてきて
私が本当にダメな人間だと罵倒する。

電話に出ないと、出るまで何度もかけてくる。私はどうしたら良いの?と訴えます。

しかし、よく話を聞いてみると母親から電話がないと自分から電話をかけたり、
メールをしたりしているのです。

何も連絡が無いと「見捨てられ不安」が出現します。


いつも傍にいる彼氏に対しても、彼がなにか忠告めいたことを言おうものなら、
「あなたは何も私の事を判っていないくせにえらそうに言わないで」と怒り出すのですが
Fさんが落ち込んでいたりするときに黙っていると
「どうしてあなたは私がこんな風なのに何も言わないの」と今度は責め立てるのです。

第三者的に傍観していると、彼はどうしてFさんと別れずに一緒に居るのか、
自分の人生の大切な時間を浪費しているだけでないかと思ってしまうのですが
とうの彼氏は別れることなど想像などできないのです。
完全にFさんに取り込まれていて、別れることは彼にとって、この上なく恐ろしいことで
意識の端にさえのぼらなくなってしまっているのです。
こうして彼は、自分がFさんにとってなくてはならない人であると刷り込まれてしまっているのです。
このようなFさんと彼氏との関係が典型的な共生関係といえます。


彼は自分がFさんにとってなくてはならない唯一の存在であると刷り込まれているのですが多くの境界性人格障害の人は、このような共生関係を築いている一方で共生関係以外の関係性が良好であったりします。

これはしばしば認められることです。

たとえば、Fさんは彼との関係が揺らいでいる、つまり、彼がFさんのことで心底疲れ果てて
エネルギーを吸い取られて仕事もできずにボロボロになっているときほど、Fさんも眠らずに彼を振り回しているので
体力的には落ちているにもかかわらず、
いつにも増して活動的にアルバイトを始めたり、自分の得意なピアノの講師として教えに行ったりするのです。

Fさんと彼はこうような「不安定の中の安定」と呼ばれる共生関係を築いているのです。


その一方で、BPDの人は彼の代わりに共生関係を築ける人に、常にアンテナを張り巡らしてもいるのです。
それはBPDの人を取り巻く全ての人に対して行っていますが
その相手は限定されていて、お眼鏡にかなう人間でなくてはいけません。 

その人間とは、同じ境界性人格障害の人であってはとても共生関係は築けないのですが
ある程度は境界性というべき辺縁性を持っている、あるいは理解できる人間でなくてはならないのです。


だから、その相手が精神科医である場合もしばしば見られます。


もちろん、不安定の中の安定が得られていない状況では、彼らは自己破壊的な衝動を抑えきれずリストカットや無断欠勤などの問題行動を起こすでしょう。









○おわりにーー穴の空いたバケツに愛情を注ぎ込み続けられますか?


「はじめに」でお伝えした『地雷が爆発するのは踏んだときじゃない。足を離す時なんだ!』の意味が少しでも伝わっていれば幸いだなと思います。

多くは語りません。


そして最後に一言。

人間の器、というか力量というか人間性みたいなものって、うまく行っている時には見えてこないと思うんですね。

ピンチな時、余裕のない時、予想外の出来事が起こった時、そういう時にこそみせる顔が、その人の本当の顔だと思うのです。

余裕があるときはどうとでも取り繕えるのだから。

「普通にしている時は一緒に居ると楽しい」というのは、とても幸せなことですね。
だけど「おもいがけない場面で感情の沸点がきたり、脈略の分からない場面で暴力を振るわれたり、私以外の人との交流を持つことを禁止したり」というような何か、BPDの人の思い通りにならなかったり欲求が満たされなっかたりという場面で常に爆発してしまうような女性と一緒にいて、そこに安らぎと言うものはあるのでしょうか?


あなたはBPDの女性の欲求を満たすために生きているわけではないと思います。


人間は誰しもが自分の欲求に基づいて生きています。
だからこそ、「相手にも欲求があるはずだ」という思いやりが大人になるにつれ育ってくるものだと思います。


しかしながらBPDの人は、その思いやりが顔を出せないほどの圧倒的な虚しさを抱えており、常に自分の欲求を最優先して満たしてくれる相手を必要としています。
人間同士が付き合うのは犠牲感はある程度はしかたがないことなのですが、我慢できないほどの犠牲感を感じられるうちに、麻痺しないうちに、何か対策を講じてほしいと切に思っています。

3歳児は愛を与えれば愛を自分に取り込み、愛が定着しますが、40歳の3歳児は、瞬間的に愛が通り過ぎるだけで、もう愛は定着しないでしょう恐らく。
それでも愛を注ぎ続け(させられ)る人生を選ぶのであれば、もう何も言えることはありません。
























※※※以下2点は教訓になるであろうウェブ上の拾い物です





■ゲーセンで出会ったメンヘラと仲良くなった結果
>>
77:1 ◆ve57CRP6vE :2013/04/06(土) 00:57:26.21 ID:6bierxtci
 ポプ子曰く音ゲーをもっとやってほしい。
 最近冷たい。
 以前のように遠征したい。
 家にいると寂しくて死にそう。
ODしそう
 ぶっちゃけ私はメンタルクリニックに通ってる。
 親が最悪。
などと繰り返してた。
 他にも色々いってたけどこまけぇことはいいんだよ!
んで話を遡るとポプ子は名前を言いたがらなかった理由が判明した。
 家庭から決められた名前(本名)がものすごく嫌で仮の名前で世間に出ていた。
ゲーセンに居る間はニギヤカで落ち着く。
でも一人
そんな中いつま一人で居る俺君ならなんでもわかってくれる気がしたそうです。
これは最後の方の手紙で判明したお話ですが。
 
80:1 ◆ve57CRP6vE :2013/04/06(土) 01:09:09.89 ID:6bierxtci
取り合えず話し合いは完結し、うまくお付き合いを続けてました。
ポプ子も以外とわかってくれた?
みたいでメールと連絡の頻度が半分くらいになりました。
(って言っても着信50件とか来てたけど)
なんかポプ子が色々言ってたけど1つぐらいは守ってあげよう!っと思って思いきって家庭用の音ゲーを購入しました。
すると上達が半端じゃないwwww
ってくらい上達しました。
(やり過ぎて会社寝坊した日もありましたwww)
んでポプ子が最近俺君上達早いよね。
 抜かれそう~って言われました。
この時ポプ子の表情は心底悔しそうでした。
この頃にはライバルが他の方もおり、他の女性プレイヤーさんや遠征で見かけてライバルしてくれた方もいらっしゃいました。
ポプ子は正直な話ゲームとして成長が止まっていた。
それもそのはず高難易度の曲などもさわらず出来る曲のフルコン、スコア詰めなどばかりしていたのだ…
そして家庭用を持った俺とは一気に差がついていった…
 
84:1 ◆ve57CRP6vE :2013/04/06(土) 01:16:25.37 ID:6bierxtci
 ゲーセンでポプ子と一緒にやっていてもポプ子が出来ない曲ばかりが増えていき
日に日にポプ子が苛立っていた。
ある日スコア、ミスカウントを埋めていたらライバル勝敗が
俺432勝ポプ子12敗みたいになっていた
 まっでもゲームだし競いあって楽しむものだし~
なんて考えていたら…
甘 か っ た !
 自宅に帰ると家が荒れていた。
 泥棒が入ったのかと思うくらい
 
87:1 ◆ve57CRP6vE :2013/04/06(土) 01:23:54.05 ID:6bierxtci
 そして一通の手紙が荒れた机の上に置かれていた。
 内容は
最近俺君がうまくなりすぎて他の人と仲良く話してるのを見てるのが辛すぎます。
 話も入れないし、寂しい。
どーしてあたしの方が先にやってるのに…
以下省略
みたいな内容でした。
ゲーセンで高難易度の会話が嫌だったのかわからないけれど苦しい心境に陥ってしまったようです。
とにかく心配になりすぐにポプ子に電話かけた。
するとあることに気付いた。
ポプ子の着信音が俺の家の中から聞こえる…
 
90:名も無き被検体774号+:2013/04/06(土) 01:26:16.37 ID:mHIQdM5a0
 気になって寝れない
 
93:名も無き被検体774号+:2013/04/06(土) 01:30:27.20 ID:y1FwDjnu0
 こえぇぇぇぇ
  
94:1 ◆ve57CRP6vE :2013/04/06(土) 01:33:09.65 ID:6bierxtci
 よく聞くとお風呂場から聞こえる。
まさかお風呂で…

っと思い急いで扉を開けると
腕の中腹部よりを切り刻んで浴槽に血まみれうつ伏せ状態。
 急いで救急車呼んで一命を取り止めた。
それからポプ子はODもしていた。
 腕の治療が済んだ時点で精神病院に入院した。
その間お見舞い行ったり、たわいもない会話をしたりしてたが、正直俺はポプ子の事が好きだけどこれから先もこういうことが続くならゲームなんかやめたい。と思ってた。
 退院したら一度切実にお話をしようと思いました。
 
ODとは
オーバードース(drug overdose、過量服薬)とは、向精神薬、つまり医薬品や薬物を、生体の恒常性がそこなわれる用量になるほど摂取すること、それによって起こる状態、症状、または概念。心身に深刻な症状を引き起こし、時に死亡する場合もある。本質的には生体における毒の作用の一例である。
wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BC%E3%82%B9

 
97:1 ◆ve57CRP6vE :2013/04/06(土) 01:40:43.47 ID:6bierxtci
 それから数ヵ月後ポプ子は無事退院しました。
その間ゲーセンは行ってないです。
なんかやる気が起きなくて。たかがゲームで人一人死にかけるなんてって気持ちが怖くて
実際ネトゲやり過ぎやデータ消されて死んだ人とか居るみたいですが。
 退院後落ち着いた頃合いを見計らいポプ子に相談しました。
 親身になって。
 二度とこう言う事はしない。
 楽しんでやろう。
 次に自殺紛いをしたらもうお付き合いできない。
はっきりと言ったら案外素直に「うん…」っと言っていた。
 安心したし、また二人で楽しめるんだと思って安心していた。
しばし平穏な日々が続いていた……


かのように思えた
 
98:名も無き被検体774号+:2013/04/06(土) 01:40:51.09 ID:y1FwDjnu0
 まだリスカでよかった


102:1 ◆ve57CRP6vE :2013/04/06(土) 01:48:30.63 ID:6bierxtci
 仕事→帰宅→風呂→飯→ゲーセンみたいな感じの生活でポプ子と付きっきりになってた。
ポプ子は目を離すと危ないなぁ…って思ってたから
退院後ポプ子はうちに週五位で泊まっていてほぼ同棲と変わらない生活をしていた。
ある日仕事の部署が変わり荷物を運ぶことが多くなり、全身筋肉痛の日々でした。
 特に膝の負担が酷くポプ子にマッサージしてもらってました。
 
109:1 ◆ve57CRP6vE :2013/04/06(土) 02:10:32.42 ID:6bierxtci
毎日毎日荷物運びが続き疲れも溜まりゲーセンにあまり行かなくなりました。
ポプ子「最近俺君ゲーセン行かないね…」
 俺「仕事で体痛くて遊びいけないね~行きたいのに~」
ポプ子「………。」
ってな感じでした。
しかし膝が妙に痛むのに違和感を覚えていた。
ある日お風呂に入ると膝の裏見て仰天した。
 虫に食われたようなプツプツがたくさん出来ていた。
 俺「あちゃ~あせもか何かかな~あんまりひどくなるようだったら軟膏でも塗るか~」
って思っていた晩にようやく気付いた。
 俺は一度寝ると震度4の地震でもなかなか起きない。
うつ伏せで死体のように寝るのが家でのクマ避け睡眠スタイルなのだ。
 
110: 忍法帖【Lv=11,xxxPT】(1+0:8) :2013/04/06(土) 02:12:35.53 ID:8QxJIof20
 なにそれこわい
  
114:名も無き被検体774号+:2013/04/06(土) 02:16:34.40 ID:OcrqEKjmO
 恐いけど続き気になるわ
  
115:1 ◆ve57CRP6vE :2013/04/06(土) 02:19:15.23 ID:6bierxtci
 発覚したのは蒸し暑かったせいもあり睡眠がいつもより浅かったのだ。
 膝に鋭い痛みが起こりガバッと目を冷まして起きた。
なんだ?っと思い膝を勢いよく触るとポロポロっと何かが複数落ちた。
なんだかわからないし暗くてよくわからないから電気をつけた。
 膝は汗を大量にかいており寝ぼけながら見ると血でした。
 虫刺されの正体は
「安全ピン」だったんです…

もちろんポプ子が私の足元にいて安全ピンの束を真顔で抱えてました。
 
117:名も無き被検体774号+:2013/04/06(土) 02:21:37.40 ID:OcrqEKjmO
 のわぁぁぁぁぁ
真顔も怖いが安全ピンかいな…
 
119:名も無き被検体774号+:2013/04/06(土) 02:22:26.24 ID:C00RO6Ys0
 うへぇ、大変だなマジで
  
120:名も無き被検体774号+:2013/04/06(土) 02:24:14.51 ID:XGr+vdWl0
 メンヘラやばいなー
  
121:名も無き被検体774号+:2013/04/06(土) 02:24:40.23 ID:XBRqbz8W0
 安全ピンってちょっと可愛いな
 
125:1 ◆ve57CRP6vE :2013/04/06(土) 02:27:46.31 ID:6bierxtci
 >>121
実際寝てるとこブスブス刺されてみな
恐怖どころの騒ぎじゃないから。
 
122:名無しのもんめ:2013/04/06(土) 02:24:41.81 ID:gNfNauoX0
 こわいな
  
124:1 ◆ve57CRP6vE :2013/04/06(土) 02:25:50.80 ID:6bierxtci
 ポプ子に問いただすと。
 死なない。
 大丈夫。
 元気になる針治療。
 構ってくれないから。
 職場にも電話した。
 職場先の人は悪いやつ。
 話も取り合わないし声も聞かせてくれない。
 以下省略。
すべて真顔でいってた
 こまけぇことはいいんだよ!
って言いたいけど全然細かくない。
 大事過ぎる。
 何故なら後日談で職場の部署が変わったのは変な女から毎日電話来るからお前を異動させたとのことwww
 洒落にならんww
 
127:名も無き被検体774号+:2013/04/06(土) 02:29:40.20 ID:ILut5Si10
 攻撃性強いメンヘラはムリだ!
  
132:1 ◆ve57CRP6vE :2013/04/06(土) 02:34:35.81 ID:6bierxtci
本人曰く針灸らしい傷口えぐってる鍼灸師は見たことないけど
 
128:名も無き被検体774号+:2013/04/06(土) 02:30:57.80 ID:y1FwDjnu0
 安全ピン知らない間に刺されてるとか怖すぎ
  
129:1 ◆ve57CRP6vE :2013/04/06(土) 02:32:42.33 ID:6bierxtci
 その日を決意に別れようと思いタイミングを見て話を切り出した。
その話をした途端にポプ子は
 ポプ子「フゥフゥフゥ………」

 俺「って言う話でさすがにそれでは付き合えないの…わかる?聞いてる?」

ポプ子「フゥフゥフゥ…キィヤァアアアア~」

ポプ子はその日どっか行った。
 俺はあとを追わなかった。
 次の日仕事もあったのでチェーンをかけて寝た。
 
130:名も無き被検体774号+:2013/04/06(土) 02:33:01.85 ID:OcrqEKjmO
 ありえへんな
仕事もピンも
 やっぱ関わったアカンな
 
135:名も無き被検体774号+:2013/04/06(土) 02:35:50.93 ID:OcrqEKjmO
 結構冷静にチェーンかけたな
 ポプ子に合鍵は渡してなかったよな?
 怖いよ怖いよ続き怖いよ
 
141:1 ◆ve57CRP6vE :2013/04/06(土) 02:39:10.48 ID:6bierxtci
 >>135
なんて言うか眠かったけど刺されんの嫌だったからかけたww
ちなみにポプ子に合鍵渡してた
 
148:1 ◆ve57CRP6vE :2013/04/06(土) 02:45:05.36 ID:6bierxtci
布団について2時間くらいしたところで扉がドンドンと鳴り
最初は何故か無視をした。
どうせポプ子だろ?
っと思い布団にうずくまった。
しばらくしてドンドンドンとしつこくなり、つい勢いで「ハーーーイ!」
と返事した。
しまった!っと思った瞬間に「夜分にすみません〇〇警察です!俺さんのお宅ですか?」
っと言われ慌てて家を出た。
 
150:名も無き被検体774号+:2013/04/06(土) 02:46:24.19 ID:OcrqEKjmO
 >>148
おぅ 思わぬ来客。
 
153:名も無き被検体774号+:2013/04/06(土) 02:48:17.36 ID:XBRqbz8W0
 ポリ公登場か
 
154:名も無き被検体774号+:2013/04/06(土) 02:49:37.66 ID:PKsJe2zgO
 なにこの怖い話
  
158:1 ◆ve57CRP6vE :2013/04/06(土) 02:52:35.06 ID:6bierxtci
 警官「〇〇ポプ子さんをご存じですか?」
 俺「はい。」
 警官「ポプ子さんがこちらのお宅にお住まいでしたか?」
 俺「はい。」
 警官「先程泣きながら何度も相談に来られたんです。こちらの住所を言って。それで警察署の近くで飛び降りまして…」
 俺「はい?」
 警官「いいですか?落ち着いてください。ポプ子さんが飛び降りたんです。」
 俺「え…」
 

159:名も無き被検体774号+:2013/04/06(土) 02:53:08.86 ID:gUO+SZNV0
 ポプ子「I can fly」
  
163:名も無き被検体774号+:2013/04/06(土) 02:57:53.24 ID:XBRqbz8W0
 ポプ子は「そらをとぶ」をおぼえた
  
166:1 ◆ve57CRP6vE :2013/04/06(土) 03:01:42.76 ID:6bierxtci
お前ら…
 
164:1 ◆ve57CRP6vE :2013/04/06(土) 02:59:00.80 ID:6bierxtci
 俺は警官に聞いた病院に急いで病院に駆けつけた。
どうやらODしてI can flyした模様。
 意識は飛んでいたが命に別状はない模様
なんでかわかった。飛び降りたの二階だったらしいwww
この時死ぬ気ないだろって思った。
 警官に話を聞くと俺のうちの住所と仕切りに辛い話をしていたそうで警官も相手にせず帰らせた所飛んだらしい。
しかし電話番号もわからず困っていたところ一部警官が取っていたメモから住所を辿って来たらしいそうです。
その後ポプ子入院
 
168:名も無き被検体774号+:2013/04/06(土) 03:02:31.91 ID:XBRqbz8W0
死ぬ気ないな
 ただのかまってちゃんだ
 
175:1 ◆ve57CRP6vE :2013/04/06(土) 03:08:40.57 ID:6bierxtci
そうみたいね
 でもODとなんでもコンボするのはやめてほしい
<<<<
http://blog.livedoor.jp/kinisoku/archives/3743581.html








■現在付き合っている36歳の彼女がBPDです。
>>
No.24920 by クリッター 2012/04/16 (Mon) 01:23

 
皆さん初めまして。
私は35歳のクリッターと申します。いろんなホームページを渡り歩きここへたどり着きました。たくさんの方の投稿を目にし、ここで助言などを頂けたらと思い・・・私の事を書かせて頂こうと思いました。
現在付き合っている36歳の彼女がBPDです。
付き合って半年くらいですが、もう精神肉体ともに限界です。
BPDだということがわかってから、私から距離を置いています。実際仕事もかなり忙しいのですが、彼女への恐怖心から家にいられなくなり、秘密裏に引越しをしました。彼女はまだそれに気づいていません。
ひっきりなしのメール、途切れることない着信地獄、会社への無言電話・・・元の家にいたときは動悸がしてそこにいられず、しばらく実家にいました。
電話で話せば何時間もひたすら罵倒、会えばまた何時間も罵倒の嵐・・・
さんざん文句を言われても、彼女は私との結婚に強い執着心を持ち続けています。
お互いにバツイチ同士、結婚などは意識せずに付き合おうと言ったのは彼女でしたが、それには私も同感でした。かたちにこだわらずゆっくり歩を進めていけばいい・・・そう思ったからです。
しかし彼女は人が変わってしまったかのように、結婚にたいする強い執着を見せるようになりました。
別れを切り出しても全く応じてくれる気配はありません。
今は私自身電話が出来なくなってしまいまいした。
携帯の着信音などもってのほか、バイブ音さえも聞いただけで動悸がしてしまい、平常心でいられなくなります。
電話がかけられない、電話に出られない・・・このおかげで仕事にも支障を来し、客先からもクレームが来たりといった状態です。
SNSでもいつの間にか私の友人に連絡をしていたり、かたや女性の友人などには根拠のない非難メールを送っていたり・・・周りの人にもずいぶん迷惑をかけてしまいました。
逃げたら絶対に許さないなどというメールも結構頻繁に送られてきます。
これを書いている今も、横で携帯に着信の嵐です・・・
この状況では無視をし続けるしかないのでしょうか・・・話し合いなどではらちがあきません。彼女もバツイチなのですが、前の旦那さんからはDV被害を受け、逃げるように別れたとずいぶん早い段階で聞きました。
前の旦那さんも同じような状況だったのかわかりませんが、私自身彼女の言葉に今まで感じたことのない怒りを覚え、返すように罵声を浴びせた事もあります。
ひとつたががはずれてしまったら、私は彼女に暴力を振るってしまうかもしれない衝動にかられます。
今は電話には一切出ず、メールだけに応対しています。
実際仕事もかなり忙しいため、メールの数も少ないのですが、そうれが続くと彼女からの爆発攻撃が激化します。
職場も知られてしまっており、無視を決め込んだらあの人は会社まで乗り込んでくると思います。実際に何日か連絡を絶った時は、会社に連絡をしてきました。
逃れるためには職場も変えるしかないのでしょうか・・・



No.25008 by 瞬 2012/04/29 (Sun) 23:34

心中お察しします。
私の場合は彼女から逃げるために完全無視しました。
結果彼女は自殺未遂のようなことをしてそれが知れ渡り私の職場での立場も悪くなりました。
それでも放置して1年ほど、新しいターゲットを見つけたようで連絡はなくなりました。
人の噂も~という言葉がありますが未だに私への中傷や噂がネット上でも残っています。
それでも職場の人間はその話題に「飽きた」のでしょうね。今は全くないです。
職場に来たことはありませんでしたがそれでも同じだったでしょう。
別れさせ屋を雇えばよかったかなと今なら思います。
いっそのこと携帯電話を解約してみるのも手ではないでしょうか。
No.25013 New! by 匿名 2012/04/30 (Mon) 21:28




スレ主様
彼女から沢山の嫌な思いをいただいたようですが、何事にも動じない強さが必要なのではないかと思います。
平常心を保てないと書いていらっしゃいますが、そんなことでは飲まれる一方です。
心を鬼にして自分の意思を強く持ち、精神的にキツイのならば精神科を頼りましょう。
また、警察、弁護士を頼りましょう。
着信、メールは拒否、その後何をされても一切リアクションは取らない。
嫌なのであれば徹底してやることが相手の為でもご自分の為でもあるかと思います。
私の場合はそれで相手が色々と脅迫をしてきましたが一切無視しました。
手紙等も届きますが一切無視、訪ねてこられても無視です。
数年たった今でもそうですが、ひたすら「もう関係ない」と思うのが一番です。
何か行動を起こされるのが怖いなどあれば手を打つのも良いと思います。
私の場合は精神科の医師に相談しましたが、「無視により相手が仮に亡くなってしまったとしても、あなたに一切責任はない」と言われ気持ちが少し楽になりました。
関われないのならば、徹底しましょう。
No.25019 New! by クリッター 2012/05/01 (Tue) 15:24


瞬様
書き込みありがとうございました。
今はかなりメールの数も減らし、コンタクトの頻度を減らしています。
それだけに、夜は着信とメールの嵐です。
会うのをひたすら拒否、仕事という以外理由は告げていませんが、
定期的に、やりにげするつもり?とか、逃げたら絶対に許さない
というようなメールも来ます。
もう引っ越しもして、唯一知られているのが職場なのですが、
これがネックで…
絶対に彼女が職場に来るのではないかと思うと、最後の一手が打てません。
<<







「いいですか、みなさんなしでは、ボーダーラインの人はアイデンティティを失ってしまいます。見捨てられの感情は耐え難いものです。
 みなさんがいなくなってしまったら、彼らには自分の感情の責任を押し付ける人も、投影する人もいなくなってしまうのです。
 彼らは、自分自身と、自分の羞恥心と不全感という感情の間でクッション役を果てしてくれるみなさんがいなければ、自分自身と共に生きていかなくてはならいのです」
(愛した人がBPDだった場合のアドバイス 精神的にも法的にもあなたを守るために ランディクリーガー著)より抜粋

2013年9月3日火曜日

男性は女性の過去が気になり、女性は男性の未来が気になる












>>
「昔の人のことを気にするなんて全然意味がないと思わない。
 私はあなたがこれまで誰と付き合ってきたかななてこれっぽっちも興味がない」


「僕はそう思わないね。その人間に対して心から興味があれば、その人の過去をまるごと知りたいと思うのが自然だからね。きみがもし僕の過去の女性関係に興味がないとしたら、それは僕自身に興味がないと言っているのと同じだと思うけどね」
<<
(僕のなかの壊れていない部分/白石一文)より引用











◇男女における過去未来の関心ごとの差異


 

■子孫を残す確率を上げるために関心の持ち方が違う


「結局、人間は子孫を残すために生きている」みたいな結論に帰結して結論付けるのはあまり本位ではないが、
そこに答えを求めざるを得ない。

男性は自分の子孫を残すためには自分の精子の子どもを生んでもらう必要があるし健康な母体を求めることになる。
だからこそ、その女性の過去の男性遍歴が気になるし、食生活・タバコ・アルコールとの付き合い方はどうだったか?というような、「今までの事」に重点を置いている気がする。
男遍歴に目を光らせていないと自分の精子の子どもの確率が減ってしまうという恐怖感があるし、ハチャメチャな生活をしていているとしれば健康な子供が生まれる確率は減り結果、子孫を残せる確率も減ってしまう。

一方、女性は男性の未来とか将来性とか、「これからの事」を重点的に見ている気がする。
女性は自分の身を守りながら子どもを育てていかなければならない。
女性にとって大事なのは自分と子どものことだという現実を男性はしっかり受け入れなければならない。
もし身ごもった場合あるいは子育て中は、基本的には女性自身が収入を得られないので男性の収入に期待することしか出来ない。
(ただしこれは狩猟時代に基づいた考えで、たとえばパソコンのスキルのある女性は出産1週間後くらいでも普通に稼げる時代だとは思うけど)
だから、少なくとも子育てが終わるくらいまでの期間の安全を保障してくれる将来性をもった男性の存在が必須になる。
自分を(リソース的に)守ってくれる存在が必要なのだ。
だからこそ、女性は男性の過去(の自慢話)など大して興味がなく「これから(私と子供を守れるだけの逞しさがあるかしら)」に強烈に関心を持って男性を品定めしているのだと思う。

会社でOLさんたちが「誰が出世するか」なんて世間話をしているのも、「男性が将来的にどうなるか」ということに関心がある典型例なんじゃないかと思う。


 

■「自分の子どもを生んでくれるか」「子どもと自分に安全を提供してくれるか」


そして、人は自分の価値観で世界をみているから、自分がこうなら相手もこうだろうという思いがどうしてもある。
だから、過去など気にならないだろう未来など気にならないだろう、ということがおこる。

そしてこのことは「男性は女性の初めての男になりたい。女性は男性の最後の女になりたい」にもつながることだと思う。
自分が初めての男性であれば、自分の子孫である確率はぐっと上がるだろうし、
最後の女性になれば、その時点から、その男性が将来に渡って得るものが自分にも分配されることになる。

で、「男性は身体の浮気が許せない、女性は心の浮気が許せない」という文言も、子孫とリソースの話に落ち着くのではないだろうか。
身体の浮気であれば自分の子孫かどうかの確率が下がってしまうし、男性の心が離れてしまったら、男性が得るものが分配されなくなってしまうから(男性も心があるほうに分配したいと思うだろうから心が動いてしまうことは浮気された女性にとっては大問題)。











…そんなことを考えていくと、なんか悲しいことも起こるような気がする。
人間は自分の価値観を通して世界をみているので、
「私が気にしていることをみんな気にしているはず」と思って生きている。
男性であれば「自分が女性の過去を気にしているのだから、女性も自分の過去を気にしているだろう」と思っていたとしても、それは実はまったく見当違いになる場合がある。
女性に対して「昔の俺はすごかった」話が全く響いていかないのは、多分このあたりに理由を求めることができる。
女性は貴方の過去など興味がないのですよ、ということ。

で、女性であれば「私は男性の将来性について興味があるのだから、相手も私の将来を気にしているはず」と思っていたとしても
残念ながら男性は「いままでの貴方の事」が気になっていることになってしまう。
女性が自分の未来について、たとえば英会話とか資格の取得とか、あるいは子どもを何人産みたいとかどんな家に住みたいとか、ダイエットしてキレイになりたいとか、何か未来の事について語っていたとしても、男性にはあんまり響いていないことって多いんじゃないでしょうか(笑)

アピールしたい異性がいたら、その異性が気にしている部分を話してあげると、お互いにうまくいきそうな気がするんですけど、いかんせん、人間は自分の価値観を通してしか世界を見ることはできないので、
このへんは埋まらない溝なのかもしれませんね。。。





こんなふうに思うと時間(≒年齢)って男性にとっては味方だけど女性にとって大敵なんだなぁと(白目)
先に進めば進むほど評価があがるのは基本的に男性なんだなぁーと。
もちろん、男性が女性を査定するときだけの指標かもしれませんが。

2013年9月1日日曜日

シック・マザー 心を病んだ母親とその子どもたち 岡田 尊司 筑摩書房






シックマザーとは病気や精神的な問題によって自己愛障害に陥り、
子供に愛情を注げなくなった状態だと 言う事もできるだろう。

自分の傷つき苦しさゆえに子供を愛せない母親、それがシック・マザーの
本質的な病理なのかもしれない。

















◇はじめに

本来、母親からの愛情と保護を受けて育つはずの子どもが それを十分に受けられないだけでなく、不安定で明日をもしらない母親の存在が 子どもの心の重石となってのしかかる。
それも、母親の怠慢や過失によってではなく、 母親自身にもどうすることもできない疾患や障害によって、 そうなってしまう。



こうした悲劇的な状況が、今もいたるところで起きている。


しかも、問題を見えにくくするのは、 子どもには大きな適応力があるため、
かなり大きなストレスがかかっていても、 そのときは何事も無く過ぎていく事も多いと言う事である。
それで困難が乗り越えられたのかというと、問題はそれほど簡単ではなく、時間差をおいて、 子どもに様々な問題が出てくる事が少なくない。


一見、健康的に育ち、 社会にうまく適応して、活躍しているようなケースでさえも、
内面に不安定さや心の傷を抱えていて、 生き方や対人関係において、
特有の偏りや歪みを示すこともある。
人知らず、悩みや苦しさを引きずっているケースも少なくない。









 

■うつのときは子どもに対して愛情がわきにくい


母親がうつ状態のときに出産や子育てをした場合、うつのときは子どもに対して、
母親は愛情を抱きにくいということがおきる。
その後、親が元気を取り戻して、子どもにかかわろうとしても、関係はしっくりいかず、お互いにうまく愛情のコミュニケーションをとることができない。
なぜなら愛着のベースが作られるのは、生後2歳くらいまでの間だからである。

母親のうつ状態や不安定な状態が、子育てやその後の子どもとの関係に、意外なほど影響している。
あまり自覚されていないところで、親子関係の将来に影を落としているのが、愛着形成の失敗なのである。
うつだけでなく、母親が子どもに対して全身全霊を傾けた関心を抱くことを妨げる状態がある場合
ーー身体的な問題や夫婦間の揉め事、家族の死などで母親の気が滅入っていたという場合ーー

それが愛着の問題を引き起こす原因となり得る。

 

 




 


■家族の問題としてのシックマザー


精神的な問題は、しばしばその人個人の問題というよりも、
その人が属している集団の問題を映し出していることが多い。
母親の病気は、子どもや家族に影響するが、母親もまた家族からさまざまな負担を強いられ、それが病状に響いているということも多い。


母親だけを問題視するというのではなく、シックマザーの問題を家族全体の問題として捉えていくことが必要である。

シックマザーは、自分自身の親との問題を引きずっていることが多い。
身体的・心理的虐待を受けていた人も少なくない。
子ども時代に虐待を受けた女性は、うつになりやすく、また自分の子どもを虐待しやすいとされる。
親と上手くいっていないと、妊娠中や出産後に、必要な支えが得られにくくなるという実際的な問題も絡んでいる。



また、夫やパートナーの関係にも、しばしば問題を抱えている。

うつの母親は、夫との間に不一致や葛藤を抱えていることが多く、しばしば結婚を不幸だと感じている。
夫やパートナーに思いやりや協力が乏しかったり、すでに離別して援助が得られなかったり、
夫やパートナーから暴力を受けているケースも少なくない。
母親が結婚を後悔したり、その苛立ちを子どもにぶつけている場合もある。
母親は子どもを愛したい気持ちをもつ一方で、子どもがわずらわしい、重荷だと感じてしまう。
この子さえいなければ、自分ももっと違う人生を歩めたのにと考えることもある。

シックマザーが、とりわけ重要な問題であるのは、母親ひとりの問題ではなく、それが子育てというプロセスを媒介にして、際限なく連鎖していきやすいからである。

イエール大学の長期に渡る追跡研究によると、
うつの親の影響は、子どもにとどまらず、孫の代にまで見られたのである。

うつになったことのある人の孫と、うつの既往のない人の孫を比較すると、不安障害など精神疾患のリスクが高まる傾向が見られたのである。






 


■夫婦関係を損なうことで、子どもにさらに影響が



妻のうつ病によって、夫との不和や家庭内葛藤が生じやすくなり、夫自身がうつ病になるケースもある。
また、うつの女性の家庭では、夫婦間の不一致や葛藤が強まりやすい。

そうした事態が、さらに子どもにとってマイナスの影響をもたらしやすい。


両親がうつであるときには、さらにリスクが高まるのである。
両親の関係が険悪さや冷淡さを帯び、緊迫する影響は破綻そのもの以上に、子育てに有害である。
母親と父親(義父や同居人も含めて)が、いがみ合ったり、母親が暴力を振るわれたり、離婚話で、もめている場面を目にすることは子どもを深く傷つける。


家庭内葛藤は、子どものうつなどの精神的な問題にも、非行や攻撃性といった行動上の問題にも、促進要因として作用するが、家庭内葛藤はしばしば母親のうつと密接に関係しており、その両面から、子どもを傷つけることになる。








 

■母親のうつ病


母親のうつは、子どもが必要としているものを注意深く、素早く感じ取り、常に一貫して、熱心に応えていくという親としての能力を低下させてしまう。
子どもは、本来なら受けられる世話を受けられなくなるだけでなく、子どもに向けられる関心や愛情表現も乏しくなりがちだ。
子どもは健全な発達のために、母親からの愛情のこもった関心や反応を必要としている。

それが十分に与えられないと、愛着頚性や認知的発達に支障がでるばあkりか、自己肯定感や健全な自己愛の発達が損なわれやすくなる。
さらに、もう一つ危惧すべき影響は、母親が抱きやすい悲観的でネガティブな人生に対する態度や受け止め方を、知らずしらず取り入れてしまうことである。
母親の否定的な見方に縛られると、人生を実際以上に困難なもの、苦しみにばかり満ちたものとみなす過度な悲観主義に囚われ、本来の喜びに満ちた人生を味わうことに
諦めや罪悪感を抱いてしまうこともある。
それを防ぐために、母親の悲観的な見方に子どもを巻き込まないように用心する必要がある。





 

■子どもへの影響を最小限にするために


子どもにとって、安心できる環境が保障されているということが非常に重要である。

子供の安心を守るためにはたとえ、母親が子どもを愛せない状況にあろうとも「母親は私の事を愛してくれている」という思い込みを子どもに感じさせてあげるのが大人の義務である。


配偶者や周囲の家族が、病気を理解し、受け入れ、感情的な反応をぶつけるのではなく、
理性的に話しように心がけることが、子どもへの悪影響を減らすことになる。


「お母さんは病気だから、あんな風になっているだけだ。本当は優しくて、お前の事が大切に思っているんだ」と
言われるだけで、子どもは現実を肯定的に理解し、安心することが出来る。
特に幼い子どもは現実に起きていることをどう理解して良いかわからない。それに対して解説者の役割を果たす人との存在が重要だと言える。


そこで語られることが幾分希望的観測に基づく「ストーリー」であってもいいのである。
大事なのは、そこに秩序を回復し安心を与えると言うことなのである。

2013年8月29日木曜日

「孤独力」で”ひとりがつらい”が楽になる 水島広子 さくら舎





♪ここにあなたがいないのが悲しいのではなくて、ここにあなたがいないと思うことが悲しい

「あなたと居ると素晴らしい人生だと感じることが出来る」は正しいが同時に、
「あなたが(現実の存在としてココに)いないと最悪の人生になってしまう」というのは正しい生き方とはいえないような気がします。










 

◇はじめにーー「ひとりでいること」が不安なあなたへ


「ひとりでいると、寂しい人だと思われるのではないか」「性格的に問題がある人だと思われるのではないか」という思いから、本当はあまり好きではない人とでも一緒に行動してしまい、行きたくないところに行かされたり、つまらない思いをしたり傷つけられたりする、ということもあります。


つまり、「ひとりにならないこと」を中心に生きてしまうと、いろいろな犠牲を払わなければならなくなるのです。


「つながっている人の数が少ないと恥ずかしい」と感じる人は少なくありません。
ネット上でつながっている人の数が、本人の魅力や人気、どれほど他人から関心を抱かれ必要とされているかを示すように思われてしまうからです。
そのため、つい必死になって「つながっている人の数」を増やす努力をしてしまいがちになるのです。
そのために払う時間的・精神的犠牲も、また大きなものです。

本文で詳しくお話ししますが、そうやって「目に見える『つながり』(一緒に行動できる相手がいる、つながっている人の数が多い)」にとらわれることは、人生を豊かなものにするどころか空虚で不安定なものにしてしまいます。
本書では、「目に見える『つながり』」を必要としないで生きている力、「孤独力」についてもお話していきますが、それは「ありのままの自分と一緒に居られる力」と言っても良いのです。









 


◇2章 孤独を感じたら、与えよう





■孤独を「何か」で満たそうとしても、「もっと、もっと」になってしまう

何かと「つながっている」という感覚を持つとき、自分の心が開いているときです。
開いた心しか、つながりを感じられません。
つまり、孤独を感じているとき、私達の心は閉じているのです。
特に「自分はどう見られているだろうか」と思うとき、心は警戒感を持って閉じています。
心を開き、つながりを得るためのコツは、何かをするときに、「自分はここから何を得られるか」に目を向けるのではなく、
「自分は何を与えることができるか」に目を向けることです。
私達は、何かが得られないから孤独なのだと感じ、「何か」を求めようとします。
しかし、「何か」で孤独を満たそうとすると、余計に孤独になることが多いものです。
物理的には人と一緒にいても、ありのままの自分が「つながっている」という感覚を持てないと余計に孤独になる、ということを前章でお話しました。
人から認められたり愛されたりすれば孤独でなくなるはず、と多くの人が考えますが、そのために自分を「作って」しまうと、結局は満たされないのです。
それよりも、「本当の自分を知られたら嫌われてしまう」という恐れが芽生えてしまい、常に緊張するようなことにもなってしまいます。





■「何か」に依存していく心は、罪悪感や「自分嫌い」を膨らませるだけ

人以外にも、孤独を紛らわすために、私達はさまざまな「何か」を求めるものです。
食べ物、アルコール、買い物、仕事、などなど。
これらは、維持知的に寂しさを麻痺させてくれるものの、決して安心を提供してくれることはありません。
孤独感の本質的な解決などにはならないのです。
そういう「何か」で孤独が満たされるのかというと、そんな事はないのです。

せいぜいが、「一時的に自分の孤独感を麻痺させる」というくらいで、
本質的な解決にはなりません。
なぜかというと、「何か」が手に入っても、ありのままの自分が「つながっている」という感覚を持てない限り、孤独は続くからです。
そして「もっと、もっと」となっていきます。

孤独はありのままの自分が「つながっている感覚」を持たない限り解消されません。
「何か」に依存している場合には、さらにお金を遣ってしまった太ってしまった、また飲みすぎてしまった、と罪悪感を抱え込むことになります。
そしてそれらの結果、ありのままの自分をより否定する(自分を嫌いになる)ことになってしまい、孤独感はかえって募って感じられる、ということも多いものです。



■「何を得られるか」ではなく「何を与えられるか」

孤独を感じたら、何かを得ようとするよりも、与えることを考えたほうがよい、ということになります。










 

◇おわりにーー「孤独力」を基盤にして、よい人間関係を作ろう


心を開いてつながることのできるよい人間関係をもっている人はストレスに強いですし、孤独感の強い人は、ストレスに耐えることがそれだけ難しくなります。

「孤独力」は、良い人間関係を作る基盤となります。
なぜかというと、「ひとりになりたくないから」という動機がなくなるからです。
「人生を豊かにしてくれる人」は、やはり「孤独力」の高い人になるでhそう。
ただベタベタと依存して群れるのではなく、きちんと相手のことを尊重して、必要があれば共に行動してくれる人であるはずでうs。
「ひとりでいるのも楽しい、一緒に居るのも楽しい」という、自立に基づいた共生の姿勢が、これからますます必要になるのだと思います。

2013年8月25日日曜日

人間として当たり前の感覚を取り戻す(育てなおす)






◇失わされた自己感覚(ある意味で自分)を取り戻して人間としての当たり前を取り戻す



暴力を長い間受け続けてきた母子は、つらさに耐えるために、
自分の身体の感覚や感情を鈍くして身を守る傾向にある。
子どもは、抑えつけた悲しみや怒りを、他者への暴力の形で表現することも少なくない。
マインドフルネスで「今ここにある」感情や感覚に気づき、言葉で表現できれば、抑圧してきた心が徐々に解放される。
同時に物事に冷静に対処する力が少しずつ身についてくる。

(2012年8月22日 読売新聞 医療ルネサンス、より抜粋)

















ーー症例 梅野さんの場合




大手企業で受付をしている梅野さんはいつもにこにこしている美人でした。
当然、色々な人からデートに誘われました。

普段はにこにこして「困ります」などと断っていましたが
「デートをしてくれないと自殺する」と強く迫ってきた人のことは断りきれず、デートをすることになりました。
その彼は万事を自分のペースで運びたがり、梅野さんが少しでも応じないそぶりを見せると本当に恐ろしい怒り方をしました。
それでも、梅野さんは
ずるずると彼から言われるがままに交際をすることになりました。
付き合うようになると
ますます彼の一方的なところはエスカレートし
梅野さんを「ブス、頭が悪いんじゃないか」などと言葉で虐待することも
多かったですし、時には暴力を振ることもありました。
それでも梅野さんは彼と別れずに関係を続けていました。




****



客観的に見れば大企業の受付をしていて
にこにこした美人である梅野さんが男性関係に困ることなどは
まず考えられず
なぜ、こんな相手との交際をやめられないのだろうか、
ということは不思議だと思います。
しかし、子ども時代に虐待を受けている梅野さんにとって
「別れたら自殺する」と言ってくれる彼は
唯一の確かな存在と感じられるのです。
そもそも、梅野さんがいつもニコニコしていることもそんなトラウマを反映しています。
一人でいるときにはむしろ暗く沈んでいることが多いです。


人といる時にも決して明るい気持ちでニコニコしているわけではありません。
梅野さんは常に「周りの顔色」を指標にして生きてきました。
周りの顔色をうかがうことが、梅野さんの知っている唯一の「安全に生きる道」だったのです。

相手の機嫌がよいことが、唯一の「望ましい結果」でした。
ですから、自分がどう感じているのかが分からなくなることが多かったのです。
そして、そんな空虚な自分を見破られるのも不安で、ますますニコニコするということになりました。


彼が一方的なペースを押し付けてきたときに
そのまま巻き込まれたのも梅野さんに「自分」というものがなかったからです。
相手に合わせるということばかりを続けてきた梅野さんは
自分にとって有害だという事を感じる力もそこから自分を守る力も育てることができなったのです
そして、結果として自分を傷つける相手との関係に巻き込まれ、
トラウマ体験をする、ということになっていきます。

相手に合わせてばかりいる梅野さんの場合、
明確に脅威を排除しようとしている桜さんのような人とは異なり
「脅威のセンサー」は働いていないようにも見せますが実際は違います。


「相手に合わせる」という行動は「脅威のセンサー」が働いた結果としての自己防衛策だからです。
そして、「脅威のセンサー」が過敏に働いているのは梅野さんの場合も同じです。


梅野さんの場合はどんな相手に対してもニコニコしていますが
実際にはニコニコしていなくても大丈夫な、
危険ではない相手はたくさん居るはずです。
しかし、あらゆる人に「脅威のセンサー」が作動してしまうので
結果としてはいつもニコニコする、ということになってしまうのです。
桜さんのケースは「脅威のセンサー」が働くと「正当防衛」としての攻撃をする例で
梅野さんの場合は「脅威のセンサー」が働くと
 やはり防衛として相手に合わせる例です。
これらのパターンは人によって完全に分けられるわけではなく1人の人に、
桜さんのようなパターンと梅野さんのようなパターンが混在していることの方が多いものです。








■「相手の問題」と「自分の問題」の区別がつかない



梅野さんもそうなのですが、対人トラウマを持つ人の場合、
「誰の問題か」という境界線が上手く引けない人が多いです。
特に梅野さんのように子ども時代に虐待を受けている場合、本来は100%大人側の問題であるはずのことを、かなりの程度自分の問題のように思っていることが多いものです。

「自分を虐待した大人が異常だっただけで、自分には何ら問題がない」と割り切れる人はなかなかいないでしょう。
そして、虐待者も、「お前が俺を怒らせたのだ」「どうしてお母さんをイライラさせるの」などと、
あたかもそれが子ども側の問題であるかのようにいうことが多いのです。
性的虐待という悲惨なケースであっても、子供が誘ったなどということを平気で言う人がいるのが現実です。


梅野さんは相手の顔色を読むことで今まで生き延びてきたわけですが
これはまさに相手の問題を相手の問題を自分の問題として
引き受けているということです。
境界線がきちんと引けている人たちは
顔色を読まれることを不快に感じるものです。
いちいち自分の顔色を読まれて相手が反応する、ということそのものが
重苦しい束縛感をもたらすのです
何と言っても「読まれること」は正確ではない場合が多いからです。

ところが、梅野さんの恋人のように
自分の問題を相手が引き受けるのが当たり前だと思っている人は
梅野さんのような人と相性がよくなってしまいます。
梅野さんの恋人は
まず「デートをしてくれなければ自殺する」と言っていますが
これは明らかに境界線を踏み外した言い方です。
デートをしてもらえなければ哀しいものですが
 そのうえで自殺するかどうかを決めるのは自分の問題です。
「デートをしてくれなければ自殺する」と言っている時点で
自分の領域のことにまで梅野さんに責任を取らせようとしているのです。

付き合い始めてからの彼が梅野さんを虐待するのは
自分の機嫌の悪さが梅野さんの責任だと思うからです。



本来は自分の問題として考えて改善策(梅野さんに協力してもらうことを含めて)を
検討すべきなのですが「そもそも自分の機嫌を損ねた」梅野さんが何とかすべきだと感じているのです。


いかにも境界線を逸脱したものの考え方です。



境界線の問題は「相手の問題を引き受けている」という形だけではありません。
自分の領域なのに相手に踏み込ませてしまう、という形でも起こってきます。

トラウマの結果として「自分への信頼感」がない人は
「自分はこうしたいから」「自分はこう感じるから」と
自分の領域を守ることが出来なくなってしまいます。

梅野さんも「ぶす」などと言われて本当は不快なのですが
「私は不快だ」とはっきり思ったり言ったりすることができないのです。



勇気を出して「ブスなんて言われると哀しくなっちゃう」と控えめに
言ったことはあるのですが相手から「それくらいの事で気にするなんて、人間が小さいよ」と言われ
相手の言っていることのほうが正しいような気になってしまいました。


本当は「ブスと言われると不快だ」ということは
相手からとやかく言われる筋合いのない、尊重されるべき自分の感じ方です。
 相手が何と言おうと自分がそう感じたことは事実だからです。

そこに相手が「不適切な感じ方」と土足で踏み込むことを
許してしまうところも、境界線の問題だと言えます。


他人の感じ方は自分の感じ方とは違う、ということが事実上分からなくなっている人も居ます。
当事者は何とも思っていないような出来事でも
自分がひどいと思うのであれば
「あんな目に遭うなんて本当にかわいそう」と感情移入してしまうのです。















ーー治療


梅野さんの治療はまず、自分にとって不快を感じられるようになることからはじめました。
ずっと人の顔色をうかがって生きてきた梅野さんには
「自分はどう感じるか」という視点が決定的に欠けていました。
「こういうことは、ふつう、不愉快に感じるものだ」
「こういうことをされたら怒りを感じてよい」ということを伝えながら
梅野さんの気持ちを少しずつ育てていきました。

梅野さんは
感情的な負荷がかかると解離しやすい傾向にありました。
本来は動揺するような状況でも解離する結果として「たいしたことはない」という捉え方になってしまうのです。


そういうところも
「これだけの扱いを受けたのだから、感情的にはかなりの負荷がかかっているはず。
 それなのに大した事はない、と捉えている事自体が解離症状かも知れない」という
見方をすることによって
本人も、だんだんと自分の症状に気づいていきました。



特に彼がひどいことをしたときには
「それは本当にひどいことだ」という認識を共有することによって
少しずつ「彼から離れる」という選択肢を考えるようになりました。
また、「そうやって彼を見捨ててしまったらかわいそうだ」という感じ方も
強かったのですが、それも
「本来は彼自身が引き受けるべき問題。
 梅野さんはこうして治療の中で少しずつ自分の回復と成長を感じているのだから
 彼もいずれ自分の問題をそういう形で扱えると良いと思う」
という認識をだんだんと共有していきました。
梅野さんは

「たしかに、私が何でもいう事を聴くことによって彼は自分の問題を見ないで済んでいるのかもしれない」
ということに気づいてきました。


彼と別れることは一筋縄でいかず
何度も進んだり戻ったりをしましたが
その中で、梅野さんはだんだんと自分の感じ方が分かるようになり、
また、彼との関係の限界にも気づくようになってきました。
そして、少しずつ「彼と別れた後の将来」について
希望も感じられるようになってきたのです。





*****






梅野さんのようなケースの治療にはそれなりに長い時間が必要となります。
小さい頃から一度も「自分への信頼感」をもたれたことが無く
それを「取り戻す」というよりも「初めて育てる」という形になるからです。

時間は長くかかりますが基本的な考え方は同じです。
自分の感じ方を大切にすること、
それを指標にして自分にとって少しでも快適な環境を作ること、
助けてもらえる人を見つけて助けてもらうこと、
トラウマが自分にどのような影響を与えているのかを知ること
トラウマ症状を認識し
症状との折り合い方を学ぶこと、
自分のトラウマを悪化させるような人たちからは距離をとること、などと
こつこつと続けていく中で梅野さんほどの生涯にわたる問題でも
着実に前進していくものです。
人を信頼するなど
本来は発達上ふさわしい年齢で達成しておくべきであった課題でも
後から取り組むことは可能です。
ただし、そのような課題を共有できる人(治療者など)は必要だと思います。
「自分への信頼感」が全くない、という状態では
「この人はきちんと成長できる」ということを信じている人が
近くにいないと
なかなか前進する力を得ることが出来ないからです。
だんだんと「自分への信頼感」を取り戻していけば
自分でも自分の力と可能性を
感じられるようになってくるものです。