2014年6月20日金曜日

「他人が気になる…」についての誤解



■「他人が気になる」=そこに他人は存在していない


他人が気になる。
実は気になっているのは自分。
他人ではない。


興味がある(気にしている)のは他人ではなく自分への評価。




本当の意味で他人が気になるというのは

「あの人は、どういう食べ物が好きなのだろう?」
「あの人はどういう音楽がすきなのだろう?」
「あの人は、どんな価値観を持っているのだろう?」
などといった、相手の人間性への興味のことだ。





間違った意味合いの”他人が気になる”というのは

「自分はどう思われているのだろう?」
「あの人は私を嫌っているのかな?」
「私はあの人に嫌われないようにしなくちゃ」
などといった”自分への評価”だけなのだ。


だから、相手の事をすごく気にしているように見えて実は
相手の事など全く考えていないし無視していることに結果的になる。

なぜなら、フォーカスしているのは”自分への評価”だけで、そこに他人の人間性への興味は全く入り込む隙間がないのだから。



他人が気になりすぎて困っている人たちは、まずこの誤解を理解して受け入れるべきだ。
気になっているのは「他人の人間性」ではなく「自分への評価」だけなのだから。


他人に「自分が」どう思われているかが気になる。
フォーカスされているのはYouではなく、いつもIだ。

2014年6月19日木曜日

臨死体験は快感、というお話。





 

■死ぬってたぶん、至福の感覚だと確信している


内科的に体調が最悪の最悪になって搬送された。
その時に気を失った。
気を失った時に至福の快感を味わった。


立てないくらいの状態だったけど立ってレントゲンを撮らされた。
そのときに立ちくらみのようなことが起こったのだと思う。

その瞬間に、それまでの思い出の中の良い部分だけが頭に侵入してきて
主に首から胸のあたりに味わったことのない温かくてフワフワした感覚を覚えてすごく幸せだった。





現実の世界の時間で言えばたぶん3秒くらい。
自分の感覚では10年間くらい続いているような感覚だった。


残念ながら立ちくらみによってヨロけて地面に膝が付いた瞬間、その世界から現実の世界に戻ってきた。







死に近づくことは多分至福の快感があるのだとこのとき確信した。





身体が弱りきっていたとは言え、たかだか立ちくらみくらいで、あの体感。あの感覚。
本当に死ぬくらいになったらどんな快感が待っているのだろう…。









スポーツをしている人は、もしかしたら共感してくれるかもしれない。
ホイッスルという少年漫画にこういうシーンがある。


【サッカーで相手とぶつかって脳震盪を起こした時に、過去の良い出来事が想起された。】




脳に支配され人間は生きている。
その支配から解き離れたときに、本当の自由(快感?)のようなものが人間には舞い降りるのかもしれない。




認知症の人が時に最高に幸せそうに見えるのは、もしかすると解放されたからなのかもしれない。
「人間としての営み」みたいなものが一時停止あるいは停止したとき、素晴らしい最後のご褒美が人間には待っているのかもしれない。












天国はきっといいところだぜ。
だって行った人は誰一人として帰って来ないんだから



あなたが生まれたとき、
みなが笑って、あなたは泣いたでしょう。
だから、あなたが死んだとき、
みなが泣き、あなたは笑っているような、
そんな人生を送りなさい










現実世界でこのような発現をすると多分おかしい奴と大いに思われるので誰かに共感を求めたことはない。
だれか共通項の体験持つ人が居れば話を聞いてみたい。



まぁただ単にエンドルフィンのような快感物質が分泌されているだけということで
説明できてしまう現象なのかもしれないけれども。