2017年10月28日土曜日

自分は「変な人」という感覚を覚える理由




感情を共感してもらう喜びを積み重ねないと「変な人」という自覚が生まれる







■「寂しさを感じないように生きる」、そう決めた

学校ではいじめられました。
みすぼらしい格好をしていたからでしょう。
それにおとなしかったから。

学校の帰りはいつも1人でした。
神社によって帰りました。
猫が来るんです。
給食のパンをポケットに入れてもって行きました。
最初は夕方帰ろうとするとついてこようとしました。
追い払っていきましたがそのうち、ついてこなくなりました。

ダメだって分かったのでしょう。
でも、翌日はまた神社で待っていてくれました
嬉しかったです。
そして、夕方まで
そこで猫と過ごしました。
楽しかったです。



話し相手だったんですね



でも車に轢かれて死んじゃったんです。
学校の帰りにみんな猫が死んでるって騒いでいたので
あとから1人でそこに行ってみたら口から血を流して死んでいました。
両手でかかえて神社までつれてきていつもの場所に寝かせました。
夕方まで一緒に居ました。

暗くなってきて、いそいで縁の下に隠して家に帰りました。
何日か同じように猫と一緒に居て
それから、穴を掘ってお墓を作りました。
誰にも分からないようにしておきいました。



小さいときから一人ぼっちだったんですね。
誰にも分かってもらえなくて、ずっと1人で我慢してきたんですね



すみません、こんな話をしてしまって…。もう時間ですよね。



■心を閉じた瞬間

それから二度と感情を話すことはなかった。
「寂しかった」「辛かった」「悲しかった」という気持ちを表現する言葉はなかった。
怒りもなかった。
彼は、それらを封じて生きてきたのだ。
その感情を認めてしまったら彼は生きてこられなかったのだろう。


「自分の本心を言わなくなったのは8歳のころです。」
分かってもらえない、言ってもわがままと言われてしまう。
それで口を紡ぐようになりました。
ある寒い冬の夜、何でだったかは覚えていませんが
母に叱られて部屋に戻り布団をかぶって泣いていました。
身体を丸めてひざを抱えて、でも、すーすーとつめたい風が入ってきて
寒くて身体が震えていました。
毛布か布団がもう一枚あればと願ったのですが言っても「わがまま」といわれてしまうと思って何も言いませんでした。
たった一つのジャンバーを着て布団に入りなおしたら
少し温かくなってきました。

涙がにじんできて
ジャンパーの上に落ちました。
あのときから、たぶん、自分の気持ちを言わなくなったと思います。
1人で生きていくと決めたのでしょうね。

自分は”変な人間”だと思ってきました。
小さい頃、友達から「お前、ヘンだよ」って何度も言われたことがありましたけど
分かりませんでした。
人と一緒に居ると緊張して疲れてしまうので一人の方が楽でした。
それが「変」だったのかもしれません。
自分は周りの友達とは違うんだなぁって思いました。

いつも次はどうしたらいいかって考えていたので友達と遊んでいてもどこか安心できないところがあってそれで「変な」行動を取っていたのでしょうね。
周りを警戒していつも緊張している、ぎこちない、溶け込めない、
変な奴だったんです、
1人で居るときが一番安心でした。
猫と居た時間は今でも一番の安心の時間です。





変な人間から普通の人に戻るには
遮断してきた「寂しさ」を感じられるようになることが不可欠だった。



■寂しさの制限を解除するステップ


彼は、自分が「楽」になることが申し訳ないと感じる人間である。
だから、睡眠が改善し、体の疲労がとれて、「うつ病」が治ったら、
すぐにでも働かなければならないと思っている。
そして働き始めたら、診察も終わりにしないといけないと思っている。



時間はかかったが、彼はぐっすり眠ってもいいと思えるようになり、
ご飯を食べておいしく感じてもいいと思えるようになった。
いつの間にか身体の緊張もとれてきた。
その時、最初に感じたのは「肩こりがひどい」ことである。
生まれてこのかた肩が凝ったことはなかった、というか、正確にいうと、
肩凝りを感じたことはなかった。
ずっと緊張して生きていると、肩凝りは感じない。
少し緊張が緩んで、初めて肩凝りは感じられるのだ。

普通が分からない


◇親とのつながりを持てないと世界は希薄化する



■普通が分からない…


「何か、うまく生きていけないんです」と彼女(38歳・外資系の専門商社勤務)は話し始めた。


私はずっと生きづらさを抱えています
うまく生きられなままにここまで来ました。

いろいろやりつくしてしまった感じでそれでもうまく生きられない。
疲れているのかな、早くこの人生が終わって、と思ってしまいます。
このまま生きていくのだったらもう嫌だなって思います。

うまく言えないけれど、子どもの頃からずっと「平気なふり」をしてきました。
今も本当は平気で、だから、仕事をしているし、生活しています。
30歳の時にカウンセリングを受けて「よくグレなかったですね。母親を恨まないと治りませんよ」といわれたのですがよくわかりませんでした。

恨みならいくらでもあるけど…という感じでした。
でも、自分の話しをして余計に疲れました。
通じない、というか、何を話したらいいのか分からなくなりました。
20歳の時にはACの集会に行きました。
そこではみんな親への不満を言い合っていました。
それは真実だなあと思って聞いていました。

私にも親への恨みはあります。
でも、そういう切実さ、熱心に訴えるようなリアリティはないと思って
やっぱりいかなくなりました。



彼女は淡々と話し続けた。

なんでも客観的に見えて、困るときがあります。
見えすぎるのでどれを選んでいいかわからなくなります。
並列に見えます。
そんな時に人から何か言われるとそれを選んでしまいます。
自分に基準がないのです。家がちょっと変だったのっで
確たるものを別に捜し求めていたんだと思います。
「これがあれば私は大丈夫」というものを欲しがっていました。
家の中には無いとわかっていました。
外にあると思っていました。
でも、外にはありませんでした。


彼女の訴えはフワフワととらえどころがなかった。

ハッキリしているのは人生に満足していないということだが、
苦しいとか悲しいとか痛いとかがない。
普通は「満足していない」の背景には自分が期待していて実現できなかったもの、
求めたが得られなかったものがある。
それで、苦しい、悲しい、痛いになるはずだ。

しかし、大川さんの話の中には
もとめているものが何かが見えてこない。
彼女は何も求めていないのか?
そんな人生もあるのだろう?

ちょっと考え込んだ後、彼女は話を続けた。


私の劣等感は普通じゃない、ということです。
仕事が終わって美味しいものを食べに行くとか女同士でおしゃべりを始めたら止まらないとか、仲のいい友達と海外旅行に行ったりとかそれが普通なんだと思います。私にはそれがありません。

人と違う自分が怖い…
仕事はミスをしないようにいつも緊張しています。
普通に出来るようにこうしていれば普通、と思って平気になるように緊張してきました。
ずーっと緊張して生きてきました。
みんなと同じように生きようと思って、
緊張して生きてきました。
でも、うまく生きられません。

最近、急にイライラしたり、突然落ち込んだりしています。
落ち込むのは前からあるけれどイライラは最近で、それが強くなっています。


たんたんと語っていた彼女は最後に、
「……もう疲れてしまいました」と言って、目に涙を浮かべた。






■孤独感ではなく「孤立感」

また、彼女と同じように不思議な感覚を語ってくれた29歳の男性がいる。
「僕は、小さい頃からずっと”人と関われない孤独感”」を抱えていると背負ってきた。
それで自分は「人と関われない孤独感」について考えてきたけど
本当はそうじゃないと思った。
僕のは「そこにいられない”孤立感”」だと思った。
僕1人だけ人と違うんじゃないか、という孤立感。
「孤独」じゃなくて「孤立」なんだと思ったら、悲しかったけど、
少し霧が晴れた気がした。そういう自分を認めてあげないといけない。



■家は人とは違っていたらしい

小学生の時、友達の家に遊びに行きました。
その子のお母さんは「お母さんのイメージ」に近かったです。優しい人でした。
小さいながらも、お母さんと言うのはこういう人なんだって思ったような気がします。
その子とは高校まで一緒でした。
その子のが家の話をするのを聞いていると家族と言うのは一緒に考えてくれるんだとか
一緒に出かけるんだとか、不思議な感じがしました。

自分の家とは違うな、と思っていました。






■人生のスタートラインに家族が居ない

カウンセリングで自分を語り始めると
人は自然と小さい頃の家族の思い出を語るようになる。
この世界で行き始めた時の最初の人間関係、
それは自分の人生の出発点、人付き合いの土台があるからこそ、悩みの源でもある。
だから、自分を振り返ったとき、
話が家族に及ぶのは必然なのである。
しかし、いつまでも家族の事を話そうとしない。
語りたくない理由があるのか。
あるいは人生のスタートラインに家族がいなかったのか。





■何かがズレていた母


家族の事を詳しく聞いてもらったのは初めてです。
聴いてもらえて嬉しかったです。
私も先生に聞かれて、母親が人と違っているところを色々と思い出しました。


あなたは大変な家庭で育ったんですね。
失礼な言い方ですけど、普通とはだいぶ違う家庭環境だったと思います。
大川さんのお母さんは普通のお母さんとは違うところがありますよね。それであなたは人とは違う苦労をしたと思います。
辛かったと思います。

あなたは親に自分の気持ちを受け止めてもらったことがないんですね。


ええ、友達の母親とは違っていました。
やっぱり、母親はおかしなところがありますか?

ええ、残念ですが、そんな風に思います

母親は、人の気持ちを察することが出来ないんだろうと思ってきました。
いつも「自分は悪くない、悪いのは全部、周り」で…、反省するということができない人でした。私には理解できません。

母親にはなにか、病気とか障害とかあるのかと思ったことがあります。
認知症とか思いましたけど、昔からだと違う。
でも…今日は言ってくれてありがとうございます。
そういわれたのは初めてです。

大川さんは、それ以上聴こうとしなかった。
彼女の心の中には静かではあるけれど、大きなショックが広がっているようだった。





■親が「いない」と心理システムが出来上がらない

大川さんの母親に「発達障害」があるのは間違いなかった。
医学的には「軽度発達障害」の部類に入るだろう。
その元で育った恵子さんは
「ネグレクト」に近いものを受けていたと考えられる。

大川さんは衣食住の世話はしてもらったが、精神的なケアを受けることがまったくなかった。
つまり、誉められたり、叱られたり、甘えさせてもらったり、厳しく教えられたり、一緒に考えたり…という親子の交流が無かった。

それが、心の成長に致命的な「傷」を残した。
もちろん、母親が悪いわけではない。
母親は子どもを育てるのに一生懸命だったに違いない。
しかし、残念ながら人間理解の「能力」が低かったので、子どもに生き方を教えることができなかった。

恵子さんは「母親を知らない」。
だから、恵子さんは「子どもになったことも無い」。
そして、親の生き方をコピーできなかった恵子さんには「普通の」心理システムができなかった。



子どもは母親を通じて、この世界を知り、自分を知り、人を知り、社会を知っていく。
その最初の手がかりが小さい頃の母子関係の中にある。
毎日、子どもは母親の反応を見る。
それを基準に自分を知る。
自分は、いい子であるか、悪い子であるか、
そういう自分が分かる。

しかし、恵子さんには母親のポジションを取ってくれる人がいなかったので
彼女は自分がいい子なのか、悪い子なのか、
うまく出来たのか、出来なかったのかわからなかった。
だから、自分がどこにいるのか、自分が誰なのかを確認できなかった。
彼女は自分を知らないままに大人になった。
恵子さんの母親は食事を出してくれただろう。
でも「美味しいかい?」とは聞いてくれなかった。
すると、恵子さんはそれが美味しいものなのか、
普通のものなのか、あるいはマズいものなのかを確認できない。
身体は美味しいものを食べて、満足を感じているが一方で、それが何なのか理解できない。
この食事は人間的に社会的に喜ぶべき事態なのか、あるいは、ただの普通の出来事なのか、その結論が出せないのだ。
出来事の強弱がなくなり、全てが並列になる。


美味しいものを食べてお母さんと一緒に喜ぶという体験は、人と共感する原点である。
それが人間関係を作る土台になる。
つまり、美味しいものを食べると人は嬉しくなる。
それを確認してくれる人がいると
美味しいという自分の感覚が母親のそれと繋がり、共感が生まれる。
美味しさは自分の身体が感じている、全く否定しようのない、明確で確実な感覚だ。
それを他の個体である母親と共有できる。
人と人とのつながりができる。
生まれてから何度も繰り返されたその関係の先には
母親以外の多くの人々がいて、
さらにその先に社会があるのだ。
さらに、美味しさから始まった人との共感は
楽しさや嬉しさ、悲しみや苦しさへと広がり、
人とのつながりを強固にする。
こうして、自分の身体の喜び、自分の感情は
社会の共通の基盤である心理システムにつながっていく。
しかし、母親が「美味しいかい」と聞いてくれないと
「美味しいから、満足、うれしい、よかった」という体験は
人間関係の中で確認できないままに
ぼんやりとしてしまい、やがて消えていく。
世界との関係が希薄になる。
子どもは人々が共通して求めているもの、
人との繋がりを確信できないままに
大人になってしまう。
そうして彼らはふわふわした、とらえどころのない存在感の中で
生きている。
自分には「美味しい」の確信がない。
それが彼らの「孤立感」であり、「普通」でないことの感覚なのである。



■母親の障害を受け入れる

「先生、私の母のおかしなところ、障害ですよね、どんな障害なのですか?」
4ヶ月たって、彼女はあらためて、母親を知る覚悟が出来たのだろう。
私医学的な説明を伝えた。

軽度発達障害の一番の障害は
人間関係の理解が十分にできないことである
他人が何を考えているのかを推測できないので、
子どもの気持ちが見えない。
だから親の立場に立てない。
子どもと一緒に共感したり、
喜んだり、落ち込んだりが出来ない。
子どもからすれば
自分をわかってくれない人、ただ同居している「あの人」になってしまう。
同じ理由で、社会の共通の理解、つまり「普通のこと」が何であるかを理解できないから、
子どもにも常識、つまり、当たり前のことや、何がよくて
何が悪いかということを教えられない。…と説明した


ありがとうございます。よくわかりました。
小さい頃から、母親には相談できず、結局は
あの人のなだめ役をやってきました。
興奮し始めると止まらない人でした。
分かってもらいたいのはこっちなのに…
誰も相談相手がいませんでした。
自分で決めていくしかありませんでした。
だから、いつも自信がなかったんです。

母親の事実、自分の家の事実、そして自分が「普通」でないことの事実を知った。

■何も解決していないことが分かりました
母親の事実、自分の家の事実、そして自分が「普通」でないことの事実を知った後も、大川さんは同じペースでカウンセリングに通ってきた。
何度か、「分かってもらえて嬉しかった」と語った。
それが心の安らぎになっていることは確かだった。
その証拠に、彼女の生活は少し、変わった。買い物とか映画とか美術館とか、前と比べると出かける機会が増えた。
仕事と生活の緊張感も、少し、和らいだ。
しかし、彼女の孤立感は埋まらなかった。
彼女は話し続けた。

やっぱり独りぼっちでした。
長い間ずっと緊張して生きてきました。
私の今までの時間ってなんだったんだろうって…考えます。
自分が無条件にここに居ていいという実感が持てません。
みんなに受け容れられているという感じを知りません。
「みんなと一緒」がないんです。
そこだけ欠けています。
本当はそこの気持ちを埋めたかったんです。
そう思ってずっと生きてきました。
でも、それが自分の努力では埋まらないと分かりました。
うすうすは分かっていましたけれど、それがはっきりして重いです。
家に帰って鍵を開けて部屋に入ったときに
私は分かってくれる家族が欲しかった、みんなと同じになりたかったんだな、と思いました。
でも、そういうことを考えるのはもう疲れたというのが正直あります。
だから、クリニックに来るのも気が重いです。

小さい頃から自分の気持ちにフタをしてきました。
産んでくれなければ良かった。
選べるんだったらあんたたちのところには来なかった…
そう言いたかった。
それが言えた。それはよかった。
でも、何も解決していない。
ここにきて、自分が悪くないと分かってよかったです。
自分の気持ちをいえてよかったです。
でも…何も解決しないことも分かりました。

共感の積み重ねが自己肯定感をはぐくむ





■人生の幸せは3つのことが実現できていること


普通の生活ができて、1に、美味しく食べて、2に、ぐっすり眠れて、3に誰かと気持ちが通じ合うことができれば、人は幸せである、と。
この単純な3つのことは、たぶん、普通の人生を送っている人たちにとってはすでに実現できていることであり、日々振り返ることさえしない、ごく当たり前の事である。






(v)心理的ネグレクト
心理的ネグレクトとは、親が子どもとの間に愛着感形を作れず、その結果、子の心理的発達が阻害されることである。
つまり、愛着関係の不成立=心理的ネグレクトである。



心理的ネグレクトだけを見ると、具体的には、子どもに声をかけない、子供が甘える気持ちに気づかない、子供が落ち込んでいたり喜んでいたりしていても無関心である、
子供が悩みを相談しても内容をくみとれない、子供が泣いていてもいたわる言葉をかけられない、
子供が喜んでいても一緒に喜べない、などである。



十分な食事を与えないのがネグレクト。
一方、食事を与えても「美味しいかい?」とか「お腹いっぱいになったかい?」とか聞こうともせず、餌を与えるかのように食事を出して、
子どもの気持ちに無関心なのが心理的ネグレクトである。





■子の気持が見えなかった母親

心理的虐待は子どもの心の中に奇妙な、矛盾した母親像を作り出す。
彼女は、いつも怖い母親だったと振り返る一方で、
「食事もお弁当も作ってくれた」「叱られたことはなかった」、
だから母親は優しい人だった、と言う。
母親は怖いという冷たい距離感と、母親は優しいという思いとが同居する。
心理的虐待を続ける母親が、子どもに優しいはずはない。
叱らなかったのは、子供に無関心だっただけだろう。
しかし、放っておかれたことを「優しかった」と被虐待児は翻訳して理解する。
食事を作ってくれたのは、家族の食事と一緒だったという理由だけだろう。
しかし、彼女はそこに子への愛情を読み込む。



「先日、久しぶりに実家に帰りました。 
 母の行動を見ていました。
 私が持っていたイメージの母親像と『私の母親をしていたあの人』とか、はっきり区別できるようになりました。」


「小さい頃、学校で嫌なことがあって報告したことがある。でも、母からは一度も『大変だったね』と言われたことがない。『あら、そうだったの』と、いつも見放された言い方だった。
 無関心だったのだ。
それが怖くて何も言わなかったし、学校で嫌なことが起こるのは私が悪いからだと思うようになった。私はどんどんダメな子になっていた。」

「期待してきた母親像と『あの人』との違い、その混乱がはっきり区別できた。
 整理できたので、もう求めるものがない。 
 執着していたもの、いつか手に入るかもしれないと思っていたものを、もう求めなくていいと思ったら、力が抜けてしまいました。」


2017年10月27日金曜日

虐待を生み続ける「善と悪の逆転」



■娘をたたき出すと止まらない…

「3歳の娘の事で悩んでいる。子どもを叱り始めると止まらない。叩いてしまう…」
相談員が由紀さんの面接を始めた。

質問の応対から、彼女がしっかりとした女性であることが分かった。
「精神障害」も「発達障害」もなく、心理的な理由による虐待相談と判断した。


娘の菜奈ちゃんは保育園でもとても良い子だった。
他の子におもちゃを取られても「いいよ、いいよ」と譲ったり、給食も見本にしたいくらいにきれいに食べているという
しかし、時々顔にアザらしいものがあったのと、妙に聞き分けがいいので保育園でも「もしかして…」と考えたことはあったらしい。

由紀さんはクリニックで何度も顔を合わせるうちに本音をいえるようになって言った。





■存在していないから死にたい

昨日、朝ごはんの時に菜奈は遊んでいてなかなかたべようとしなかったのです。
何度も注意しているうちに私は逆上してしまって、菜奈を叩いていました。
そうしたら、菜奈は「ママの言うこときかない、悪い子、止めない!」というので
カッとなって首を絞めて「だったら、死んでいなくなっちゃえばいい」と怒鳴ってしまいました。
菜奈は「うん、いいの。奈々ちゃんはもう”いない”。死ぬ」と言って、
頭に壁をゴンゴンぶつけ始めたのです。
止めなさい!って大声で怒鳴ったら、菜奈は壁に向いたままじっと動かなくなりました。
部屋の中が急に静かになりました。
その時に、自分が初めて死のうと思ったときの、小学校の記憶がよみがえってきました。
それから、はっと我に返ったら、菜奈がいないのでびっくりして、あちこち探しました。
菜奈は表通りに出て、歩道の端に立っていました
「何やってんの!帰ってらっしゃい!」と私はまた怒鳴ってしまいました。





■耐えるのが私の存在感の拠り所だった

由紀さんは虐待を受けて育った。
そのことを彼女はあまり話さなかった。
しかし、語られた断片的なエピソードは次のようであった。
小学校の頃、家で骨折したことがある。
風呂場の冷たいタイルの上に何時間も正座させられ、泣いたら頬をパチンと叩かれた。
母親に殴られて、鼻血が出て、浴槽に首を突っ込まれ、お湯が赤く染まった。
それから裸で外に出された。
熱があってもお風呂には入らなければならなかったし、食欲がなくても食べなければならなかった。
中学生の時、真夜中に急に「部屋が汚い、掃除をしろ」と起こされた。
きれいにできないと叱られた。


人は自分を主張して、自分の存在を確認する。
例えば、『お腹がすいたよ』「眠いよ、アレが欲しいな」…が自己主張である。

この世界に生まれて初めて自己主張を認めてくれるのは「母親」である。

お腹が空いてギャーと泣いてお乳をもらい満足をする。
主張を受け止めてもらえると「自分はここにいていいんだ。歓迎されている」と思える。
その積み重ねの上に私達は子の世界を生きている「実感「存在感」を作り上げていく。

ところが虐待を受けて育つと、ずっと自己主張を封じられてしまうから自分の存在を確認できなくなる。
周りの誰も自分を認めてくれないから、
自分がいるのか、いないのかわからない。


菜穂ちゃんは母親に叱られたとき
「うん、いいの菜穂ちゃんはもういない」という言葉を口にする。
あるいは、由紀さんの口からは
「私が、ここで苦しみながら生き続けている意味って何?」と
いきなり存在の基盤を問う言葉が出る。
それほどに「生きている感覚」が不安定なのだ。
「生きている意味」を自問することは誰にでもあるだろう。
しかし、虐待を受けた人の自問は
より日常的だし、切迫しているし、そして、乾いている。
虐待を受けた人が自分の存在を確認する唯一の方法は
自分を抑えることである。
自分は「我慢できているか」、我慢できていればよし、自分が「いる」ことになる。
我慢できていなければダメ、自分は「いてはいけない、いない」となる。
「普通の」子は、欲求を満たして、自分の存在を確認する。
虐待を受けた子は欲求を我慢して、自分の存在を確認する。
そして、逆転した存在感は異なる心理システムを作り出す。

我慢だけが「いる」ことの「手ごだえ」であれば、
そこに「生きる喜び」は生まれない。
喜びは自分の欲求を認めてもらい、
満足させてもらって初めて感じるものだから。
由紀さんは、この先、この世界に生きる「普通の」存在感と「喜び」の感覚を得ることはあるのだろうか。
その可能性は十分にある。

なぜなら、由紀さんには、まだ母親に向かって「悪い子止めない!」と言える娘の菜奈ちゃんが居るからだ。
つまり、母親とのつながりを求め、自分を認めてほしいと訴え続ける娘が居る。


その娘の存在が母親の希薄な存在感を揺り動かし、確かな存在感と生きる喜びを知らない由紀さん「それ」(主張して相手に受け止めてもらうことを求める)を
教えてくれるのだ。
そして、由紀さんがそのチャンスを生かすには
これからしばらくの間、
彼女は自分を語らなければならない。
辛い自分を語り、虐待されて、否定されてきた自分の「存在感」を知ることが
菜奈ちゃんからのメッセージを受け止める準備となる。





■長く同じ場所に居ると否定されているように思ってしまう

数ヶ月、通院して、彼女の以前の生活が少しずつ浮かび上がってきた。
まとめると次のようになる。
由紀さんは二度結婚し、二度離婚している。
二人の夫はともにDV夫だった。

>>
私は、夫から暴力を振るわれて、二度、大きな怪我をした。
生活費は全て管理され、自分のお金はなかった。
だから、自分で勝手に出かけたり、好きなものを買ったりはできなかった。
出かけるときは、いつも携帯に電話がかかってきて、どこにいるのか、何をしているのかと「監視」された。
あるとき、家で、急に身体がぶるぶる震えてきて、呼吸が荒くなり、動悸がひどくなった。
それから何度も繰り返すので、どうしてだろうと考えて、夫の帰宅時間が近づくとそうなると気づいた。
それに気づくまで数ヶ月掛かった。
しかし、、どんなときでも玄関に夫の姿がみえると震えはとまり、きちんとできた。
以前、働いていた時に、上司にきつく言われて同じ症状が出てしまったことがある。

結婚するまえ、仕事を転々としていた。
新しい仕事に就くと、いつも「明るいね」「前向きだね」といわれる。
しばらくは仕事も楽しいけれど、慣れてきてずっと同じ人と一緒に居ると
自分がそこにいていいのだろうかと不安になり
「いてはいけないのではないか」と思ってしまう。
そのうち「もう辞めたら」と周りから言われている気がしてきて、
それでいつも自分から退職した。

二人目の夫と離婚するときは菜奈がいた
娘とは別れたくなかった。
でも夫は娘の親権を主張してきた。
夫は娘に愛情なんかもっていなかったから嫌がらせだったと思う。
調停をしたが解決に到らず、裁判になった。
裁判の時、夫が証言している間は怖くて法廷に入れなかった。
裁判中はずっと「こんなことをしていていいのか夫ともう一度仲直りして、裁判をやめようか」と迷っていた。
その頃、夢を見た。
夫が優しくて、私が一緒懸命たくさんご飯を作っている
夢から覚めてがっかりした。

また違う夢。
私が駅で1人で切符を買おうとしたら
夫が後ろから「俺、言い過ぎちゃったごめん」と言ってきて、
切符を買ってくれた。
でも、夫は私を置いて、一人で改札の方に行ってしまう。
心の中では
「暴力を振るうのは私を愛しているからだ。いつかは変わってくれるはず…」と考えていた。
それは小さい頃から親に対してずっと思ってきたことだった。

裁判中はいつも「死にたい、死にたい」と思っていた。
自分が嫌いで
「いつまでこんな自分をしょっていくんだろう、いつまで生きていくんだろう」と思い、
「早く楽になりたいから、死んじゃいたい。でも、菜奈がいるから」と思ってきた。
でも、頭が真っ白になったら、そんなこと考えないかもしれない…。

いつも自分はビクビクして、人を怖がっている。
その態度が人に不快感を与えているのも分かってきた。
ある時、店で店員さんと反していたら向こうが感情的になってきた。
怒らせてしまった。
私がはっきりしないからだ。
急に怖くなって、涙が出てきた。
何度も謝りながら店を出た。

ずっと感じていたことに気づいてしまった。
私は存在してはいけない人間。
心細くて、毎日、自分が悪いことをしているみたいで、消えてなくなってしまいたい。
子どもの頃、童話が好きだった。
人魚姫が好きで、最後は泡になって消えてしまえるといいなと思っていた。

<<


由紀さんは
ずっと人には言えなかったこと、誰にも聞いてもらえなかったことを話せるようになった。
自分の本音を聴いてもらえたのは初めてだったかもしれない。
で、あれば、彼女は生まれて初めて、自己主張を受け止めてもらえたことになる。
語って、聴いてもらって、自分の「存在」を確認できる。
語る内容は辛いもの、否定的なものばかりだったとしても
話して、聴いてもらうことで自分が肯定される
初めての自己肯定の体験である。



■心理システム(善と悪)が逆転している

虐待されて育った女性はDV夫を選ぶことがよくある。
また、人から「必要としている」と言われないと、
ただそこにいるだけで自分が嫌われていると感じてしまうことがある。
そして、自己主張が中途半端で自信がないので
店員さんに怒られたり、
自分が雇った弁護士さんに叱られたりする。

(暴力を振るわれること、相手に従うこと、相手の理不尽さ、
 感じている辛さを「我慢」することが
 被虐待者にとっては生きる規律であるから、
 その規律を達成するためには、自分を我慢させる相手が必要。
 だからDVをしてくれそうな男性を選ぶ)


由紀さんの離婚・親権裁判は、誰の目から見ても彼女の側に「正義」があるのは明らかだ。
なのに、由紀さんは裁判を続けるのを迷い、自分を責め、死んでしまいたいと思い、できれば夫に戻ってきて欲しいという。

普通の人が当たり前のように思っている善いことが彼女にとっては悪い事である。普通の人が「なんでそんなバカなことやっているの!」と思う生き方が
彼女にとっては善い生き方である。
こうした善宅が逆転した心理システムが出来上がってしまったのは
小さい頃から親に否定され、「悪」しか体験できなかった結果である。

目の前にいる親は、暴力を振るい、ご飯も出してくれないことがある悪い親である。
でも、子どもはそれ以外の親を知らない。
自分が生き延びていくためには、その親に従うしかない。
人は誰でも生きていこうとする。
そのために必要な事をするのが「善」である。
だから、子どもにとっては目の前の「悪い親」に耐えることが「善」であり、
その逆に、耐えられずに逃げ出すことが「悪」となる。
悪に耐えることが「善」で、膳を求めるのが「悪」である。
こうして「普通の」人と善悪が逆転する。
これを裁判に当てはめると、悪い夫に耐えることが善であり、夫と争うのは悪となる
善悪が逆転した心理システムに生きていると、悪に耐えていると心は安定し、善を求めると不安になる。
期待できないものを期待するよりは、確実なものに耐えていたほうが不安は小さいからだ。

そして三ヶ月後、由紀さんは子育てを認められ勝訴した。
「子どもと一緒に住めるようになりました。
 嬉しかったです。
 少し自分が大人になれた感じ、少し強くなった感じがしました。」
裁判に勝って「もしかしたら善を求めてもいいのかも」と彼女は思ったに違いない。






■虐待の連鎖

しかし、由紀さんが本当に善悪を再逆転させて「生きている喜び」を取り戻すためには
もう少し時間がかかる。
なぜなら、由紀さんが30年護り続けてきた善悪逆転の生き方
「自分を抑える生き方」「耐える生き方」は
今でも由紀さんの支えであり、彼女の頑張りの源だからだ。
毎日の生活を維持するためにはこの頑張りが必要だ。
それがなくなったら生きていけない。
でも、その同じ気持ちが
実は菜奈ちゃんを「虐待」する気持ちにつながってしまう。
これが「虐待の連鎖」である。

どういうことなのか。

まず、人が生きようとする意欲は「善」を実行しようとする気持ちから生まれてくる。
由紀さんの善は「我慢し、耐える」ことである。
彼女は、毎日頑張って、自分を抑え、耐えていこうと前向きになる。
頑張って子育てをして、家事をして、部屋をきれいにして、
自分を抑えて、子どもを可愛がろうと思う。
その彼女の生き方を
菜奈ちゃんが逆なでする。
菜奈ちゃんはワガママを言ったり、
我慢をしなかったり、耐えなかったり、落ち込んだり、固まったりするのだ。
すると、由紀さんの中に「どうしてこの子は”ちゃんと”(自分を押さえて大人の言うことを聞く)生きられないんだ!」と怒りが湧いてくる。
耐えて、頑張って生きるのが、いい子だ。
わがままを言って自分を主張するのは「悪い子だ。そんな子は許せない」
菜奈ちゃんを怒鳴る。
すると、菜奈ちゃんは固まってしまう。
それを見て、由紀さんはさらに怒りが止まらなくなる。

こんなときに固まってはいけないのだ。



どんな時でも緊張を絶やさず自分を我慢して生きないといけない。
「固まるのは我がままだ。弱い気持ちだ。悪い子だ!」
子どもに向かう怒りは自分に向かっている怒りと同じだ。
店員の前でオドオドする自分は嫌いだ、
夫にビクビクする自分はダメ人間だ。
こんなときに泣いてはいけない…。
「そんな人間は許せない!」
こうして、由紀さんが自分の意欲を引き出して前向きに生きようとすればするほど、
その気持ちがそのまま菜奈ちゃんへの怒りとなる。
頑張れば虐待する。
由紀さんはこの絶対的な矛盾の中でもがき苦しんでいる。
そして、虐待が続けば
彼女はいつまでも生きる喜びは味わえない。
喜びを知らなければ
彼女はいつまでも善を知らず、
悪を求めて
自分を抑えて生きようとする。
虐待の連鎖は終わらない。
連鎖を乗り越えていくためには
彼女は今は自分を語るしかないだろう。




■親と同じことを繰り返している自分って…

食事の時間のことで、どんどんひどくなっています。
菜奈はちゃんと食べないんです。
ぐずぐずしていて…。
食べないんだったら終わりにするよ!って言って、
時間で区切ると食べ終わらないので食事を取り上げます…
菜奈は痩せてきました
それから、朝、保育園に行くのに時間がかかります。
私は、怒鳴るし、叩くし、先週は蹴ってしまいました。
保育園まで引きずっていって、顔も見ずに置いてきました。
自分が切れて、違う自分に成ってしまいます。
そうすると、自分の声が
ぎゃんぎゃんぎゃんぎゃん聞こえてきて、止まらないのです。
私が親にそうされてきたので、娘にもしてしまう。
それは分かっているんです…。
菜奈を叩いてしまうと
自分の愛情が消えてしまったんじゃないかと焦ってしまいます。
自分はそういう親になりたくない。
でも、焦れば焦るほど、どうして自分の気持ちが通じないのかと、
ひどく当たってしまって…
寝ている娘の顔に痣が出来ているんです。
それを見ると
「これでは親と同じだ」と思って、
小さい頃の気分、親が怖くて
いつか親に殺されてしまうと思って気持ちがよみがえります。
今は親と離れているけれども、
親に支配されて、呪われています。
それで、自分が辛いと思えば思うほど
ちゃんとやらなければ、頑張らなければと思うほど、
娘に当たってしまいます。

「結局、私は親から逃れることができない。だから、いつも死んでしまいたいという気持ちがある。いつも、死んでしまいたいという気持ちがあります。もうおわりにした。それは小さい頃から消えない…」

由紀さんはぎりぎりの気持ちを言葉にして語り続けた。







>>
菜奈は保育園は楽しいみたいです。
でも、朝、私がご飯を急かせると固まってしまいます。
黙って何も言わなくなります。
それが一番、腹が立ちます。
それを見ると、私は狂ったように
「答えろ、答えろ、答えろ…」と言って止まらなくなります。
まだ黙っている娘を見て、
もっと怒りがあふれてきます。
いつの間にか、叩いたり蹴ってしまって、
気が付くと泣き叫んでいる娘が居るんです。
そうすると、「これって…」と思って、
フラッシュバックします。吐き気がします。
昨日は、娘を送り出した後、吐きました。
それから涙が止まらなくなりました。
泣き叫ぶ娘を叩いている自分を冷静に見ている自分も居ます。
でも、菜奈を叩くのをやめようとしない。
止まらない。
明らかに2人の自分が居ます。
<<



>>
私は娘を愛せないんです!嫌いなんです。
どうして愛せないんですか?どうして好きになれないんですか?
<<



彼女は必死に訴えた。
言葉は質問になっているが
彼女はその答えを待ってはいない。
今はただ気持ちを表現することで、分かってもらいたい。

「怖かった…家では感情を否定された。怖いというと”そんなの怖くない”と否定されて、怖いということはない、怖くないんだと思って育った。痛いと言っても痛くないと叱られた。感情を出してはいけない家だった。みんな感情の逆の事を言う家族だった」



また、ある日の診察で由紀さんは報告した。
先週の土曜日の夜、菜奈が怪我をして救急車で病院に行った。3針縫った、と。
何で怪我したのかを彼女は言わなかった。私も聞かなかった。




今の由紀さんは語り続けることが必要だ。
その内容が虐待であってもいい。
それが人には言えない汚いことであってもいい。なんでもいいから自分の気持ちを語る。
30年間、ずっと語れなかった自分の気持ちを言葉にする。
自分の感情を聞いてもらい、認めてもらい、
自分がいることを認められるようになると
不安と恐怖は弱まり、さらに自分がいても”いい”、生きていても”いい”と感じられるようになれば
由紀さんの辛い頑張りと自分を否定する気持ちはやわらいでいく。






■菜奈ちゃんからの温かいメッセージを受け取って、善悪が再逆転する


「朝、布団から出たくない時があります。動けない。トイレに行く以外は何もしたくない。
 このまま外を見ないで、目を閉じたままじっと布団の中にいたい、思います。
 でも、菜奈がいるです。
 何とかご飯を作って食べさせて、保育園に送り出します。」
「この前の日曜日、朝、菜奈は出かけていきました。
 保育園で一緒の近所のお友達の家です。」
「菜奈が出かけてから、ぱたぱた洗濯して、掃除をしました。
 でも、疲れて、気持ちが止まってしまいました。動けなくなりました。」
「これじゃいけない、これじゃいけない、と涙を拭いて必死に動きました。
 部屋が散らるのが嫌で、毎日掃除をしないと気がすまないのです。掃除をしないと怖い…休めない。」
「家の掃除は小さい頃からの私の仕事でした。ちょっとでも部屋が汚れていると叩かれました。
 今は菜奈と二人なのに、誰もいないのにそれでも掃除をしないといられないんです。
 朝から頑張っても何もかも中途半端になってしまいました。」

「ああ、ダメだ、生きていけない…死んでしまいたい」と思って、
部屋の真ん中にぼーっと立っていました。
気づいたら、いつの間にか菜奈が帰ってきました。
菜奈が「ママどうしたの?」と聴いてくれました。
私の事を見上げていました。
菜奈の顔、かわいいなと思いました。
菜奈が生まれた頃のことを思い出しました。
菜奈が愛おしくて「私はいいお母さんになるんだ」と思ったときの気持ちが蘇りました。

「ううん、なんでもないよ、大丈夫よ」って言ったら
「ママ、涙でてるよ」って…。

それから遅いお昼を一緒に食べました。
なぜか気持ちは穏やかでした。私はもう何も考えていませんでした。

そういえば、先週、保育園にいったとき、
園長先生が菜奈のことを話してくれました
「菜奈ちゃんはママのことを心配してますよ。
 ママはいつも疲れていると、言っています。大丈夫ですか」と聴かれました。
菜奈は私の事を見ている。優しい目で見ているんだと思いました。
それは私が恐怖の目であの人(母親)を見ていたのとは違う
菜奈は私を必要としている。
自分は必要とされていると思いました。
自分が”いる”ことが”良い”ことなんだ、私は”居て”いいんだ…
あの時は、怒りが消えて、時間がゆっくりと流れていきました。

また、次の診察で由紀さんは語り続けた。
「菜奈がにぎやかにしていると、頭痛がしてきます。
 明るくて元気なところは菜奈のいいところなので、それは潰さないようにしてあげたい。
 でも、最近は顔に表情がなくなりました。前はもっと生き生きしていたと思います。
 お腹が一杯でも、食事時間なると無理して食べようとするのがわかります。
 我慢して食べている。その顔を見ると痛々しいです。」
「私もそうしてきました。食欲がないけど、ちゃんと食べないと叱られる。
 うどんを短く切って、一本一本飲み込んだのを思い出しました。
 喉が詰まっていたけれど、やっと飲み込んだんです。
 菜奈も同じ事をやっている。かわいそうです。」
「夜、菜奈の寝顔をみて、いつも後悔しています」

その日の診察では、由紀さんの語り口はいつになく穏やかになっていた。
話し方が少しずつ変わってきた。駆り立てられるような焦りや、自分を責め続ける緊張は伝わってこなかった。
淡々とした印象だった。

「一昨日、娘が保育園から帰って来たときです。じっと黙っているので、どうしたの?何か嫌なことがあったの?と聴いたら、
 菜奈がポロポロ涙を流しました。私は自然と娘の頭を抱いて、よしよししてあげました。
 そんなことをしたのは最近なかったんです」
「その日、どうしてできたのか、自分ではわからないのですが、自然とそうしていました。
 娘は頭を私の身体に押し付けてきました。
 私は何も言わずに娘の頭をなでていました。
 そうしたら、ふーっと力が抜けてきて、温かく不思議な気持ちになりました。」
「今思うと、私が許された気持ちになったようでした。
 菜奈は私を必要としている。自分は必要とされていると思いました。
 自分が”いる”ことが”いい”ことなんだ、私は”いていい”んだ…あのときは、焦りが消えて、時間がゆっくりと流れていました」






小さい頃から誰にも助けてもらえず、一人ぼっちで生きてきた。疲れた。
「もういいか…」という諦めの気持ちがわく。静かに消えてしまいたいと思う。
でも、菜奈ちゃんが自分を必要としてくれる。
自分の存在を認めてくれている。
娘は自分が長年押し殺していた「甘える」という気持ちを思い出させてくれる。
それを自分は許せなかった。
でも、今は「菜奈は可愛いな」という気持ちが彼女の緊張を解く。
菜奈ちゃんの甘えを許せているということは
自分の甘えを許し始めているということだ。
こうした雪さんが忘れていた優しい心、ゆったりした時間、
それに何よりも
じぶんは許されているという感覚が彼女の中に根付いてきた。
自分が生きていていい、緊張しないで甘えてもいい、
自分は「この世界」で菜奈ちゃんに歓迎されている。
「生きていていい」、その根本的な存在感は
親子の間でしか伝わらない。
自分を肯定できれば、子どもを否定することも無い。
子どもを肯定できれば、自分を否定することは無い。
虐待は消える。
 
由紀さんと菜奈ちゃんは、少しずつ「普通の」親子になっていった。
すると、菜奈ちゃんはもっと甘えるようになり、由紀さんはずっと穏やかになった。

あのとき親に言ってもらいたかったこと


4.父親の生き方が見えて怒りが消える



42歳の柏木孝男さん。
高校生の頃、いまでいえば「ひきこもり」で一年留年した。
大学卒業と同時に家を出て、以後一度も帰っていない。
父親に絶交の手紙を出したことがある。
6ヵ月前からうつ病でクリニックに通い始めた。
うつ病は治ったが、それからも月一回のカウンセリングを続けている。
話し内容は仕事の事から自分の家族の事、娘の事などで、
いままで一度も父親の話をしたことはない。




■ずっと怒りを抑えてきたーー理想的な上司、柏木さん

その柏木さんがある日、初めて父親の事を話題にした。
「父の事は話したくない、先生にも。憎しみと怒りがわいてきて辛いから考えたくない。
 自分はずっと父親に嫌われてきたと思う…」
「小さい頃からお前は駄目な奴だとずっと言われてきた」
「小学生の時に、日曜日に野球の試合があって負けて帰って来た。遅くなってしまったので心配した父親が途中までバイクで迎えに来てくれた。
 『なんだやっぱり負けたのか』と言われて、そのとき父親は笑っていた。気づいたらバットを試合会場に忘れていて、自分はそれからグランドに引き返した。
 父親は先に家に帰った。バッグを持っていってくれた」


彼はそんなことをぽつりぽつりと語った。
終始、無表情だった。そして、話題はいつもの仕事や会社の人間関係に戻って、その日のカウンセリングは終わった。

一ヵ月後、彼はまた父親の事を話題にした。
「前回、ここで親父のことを話した後、帰り道で考えた。先生に『父親に対する怒りを出し切っていない』といわれたような気がしました。
 先生はそんなことは言わないのは分かっているのですけど、そのことをずっと考えながら帰ったんです」

「最近、父親とたまたま電話で話す機会があって『どうしてるんだ、ちゃんとやっているのか』と言われてすごい怒りがこみ上げてきた。
 電話を切ったあと、もう一度電話をかけなおそうと思って何度も迷ったけれど、先生にきけばこんなとき多分、『まあね、どっちでもいいけど(迷ったときは)急ぐこともない』といわれるだろうと思って止めておいた」
そういって彼は寂しげに笑った。

「うつ病も治って昔みたいに仕事に精をだそうと思うんですけど、どうしても父親の事を考えてしまう。もう父親のことなんか忘れて仕事していればいいんですよね」


「でも、忘れられるかな、時間を引き延ばすだけになるでしょうか」
「どうしたらいいんですかね。なんか苦しいです…」
彼は黙った。




忘れていればそれでいいいのだ。
今さらどうという事もない。
でも、悔しさがどこかにひっかかかっていて思い出してしまう。



>>
柏木さん、あなたはとても優しい人で
人の面倒を見てきましたね。
部下から慕われている。
よく気がつくし、共感するのも得意ですよね。
それはあなたのとてもよいところだと思います。
お父さんから「どうしてるんだ、ちゃんとやっているのか」といわれて
怒りを感じたといいましたけど
あなたは優しいから、どこかでやっぱり怒りはぶつけちゃいけないと思っているところが
多分あるのだと思います。
でも、それはあなたが長い間我慢してきたことだから
とてもよかったことの一つだと思います。
<<


えっ?という顔をして柏木さんは聴いていた。
それから緊張した声で最近父親と話して、
やはり腹が立つことがあったといった。

しかし、その話はすぐに終わり
急に話題は変わって妻と娘の話題になった。
さらに仕事の話で部下の話、新しいプロジェクトへの興味、会議の中の人間像などになった。
とりとめのないことを夢中になって喋っている。いつもの柏木さんらしくない早口である。
先ほど私が言ったことや、父親の話は忘れているかのようであった。
そして15分くらいつらつらと家族の話をした後で
自分から元の話題に戻った。

「先生、僕はやっぱり父親が怖いんですね…」
「自分の事を言ったりすると、逆襲されて潰されそうだったんです。
 だから黙ってきました。そのほうがいいんです。
 僕は自分を主張しないほうがいいんです。
 そうして生きてきたんです…」と言って言葉が出なくなった。
手が震えていた。
「何で…」と彼は押し殺した声で泣いた。
こぶしを握り締めていた。
それから二週間の間、
父親に対する激しい怒りを感じ、
その前で我慢してきた自分を思い出したという。
すると、惨めな気持ちに襲われてまた怒りが激しくなった。
さらに二週間後のカウンセリングでは
彼は再び父親への怒りを語って元気が無かった。



■あのとき言ってもらいたかったこと

さらに一ヵ月後のカウンセリング、気持ちは穏やかになっているようだった。
彼は野球の試合に負けた日の夕方を思い出した。
「そのとき、お父さんから本当は何て言ってもらいたかったんですか?」と私が尋ねた。
彼はしばらく考え、「疲れたか?とか負けたのか残念だったな、とか、やっぱり分かってもらいたかったんですね。慰めてもらいたかった…」と答えて、
柏木さんは窓から夕暮れの空を見上げた。

「人の失敗を慰められない人だったんですね、父は。
 失敗や試合に負けたことを受け容れられないのかな。多分、
 自分自身にもそうしてきたのでしょう。自分を慰めたことも無いし、人から慰められた経験が無かったんですね」
「多分、そうでしょう。だから柏木さんに”もっとしっかり”と
 きつく言うことしか出来なかった。」
「そうですね。僕は幸いに今の家庭をもてたから、
 それこそカウンセリングにこれたから、自分を慰めたり、人から慰められたりすることを知ったんですよね。
 父は多分、今もそれを知らない」
柏木さんの顔はとても穏やかになっていた。



さらに一ヶ月後、カウンセリング。
父親ともはもちろん会っていないし、会おうとも思わない。
そのうち会うかもしれないが、今はいい。
彼はもうすっきりしている。
しかし、そうであればこそ、少し実家の事が心配になってきた。
母親のことである。
「もう実家の事はいいかなと思っています。そばに姉夫婦もいるし…」と彼は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

「柏木さんは小さい頃から長い間、ご両親の面倒を見てきたでしょう。
 とくにお母さんの面倒を見てきたのでは?
 お父さんがわがままで厳しい人だったら、そう言っていないのかな、だから
 その分、あなたはお母さんの事を心配したでしょう。
 あなたと同じようにお母さんもお父さんのところで苦労したところがある」

「ええ、そうですね。お袋に心配かけないようにって思ってきたことは
 そういうことだったんですよね…」
「もう、でも、柏木さんもいいじゃないですか。
 たくさんご両親の事を心配してきたから
 長い間、十分やってきたからもういいですよ」
「十分やったから…もういいんですかね…姉はいつも自分のわがままを通せて、でも私は我慢してやってきたんです…その姉が実家の傍にいて、私はこうして離れている。そでいいんですかね」


「あなたは優しいから100%やらないと気がすまないかもしれないけれど、まあ、90%くらいで残りはとっておいたらどうですか?そのうちにご両親にあったときに何か言えればいいでしょう?」

柏木さんはとてもすっきりした顔になって言った。
「もう、母親を手放してもいいんですね…」
そう言って、しばらく時間を置いて付け加えた。
「これでいいんでしょうね。気持ちが軽くなりました」
もう少し我慢しなくてはいけないのかという迷いも
「まあ、いいかな」と思えて自分を許せたのである。


知らないところでお母さんを支えてきた


心の絶対矛盾(「A」と「反A」)が融合していく




■親子逆転にとって境を越えるーー例②拒食症の容子さんのその後

拒食症の大井容子(29歳)の経過。

彼女達、母娘の対立がどうして解決したのかをまとめてみよう。


大井さん親子3人が外来を始めて受診したとき、容子さんは治療に対して「斜に構えた」態度を見せていた。

しかし、自分から点滴を希望したことをきっかけに治療が始まった。
治療が進んでいく途中でこんなエピソードがあった。


容子さんは毎晩寝る時間になるとお母さんに甘えてわがままを言い、自分の話を聴いて欲しいと明け方まで母親を放そうとしない。
母親は娘に対する罪悪感から無理して付き合っている。


ある日、外来で娘を横にして母親は言った。
「前のところでも、娘を愛してあげなさいといわれたんです。どんなことでもきちんと話を聴いてあげるようにといわれたんですが…。
 おとといも夜十二時過ぎに娘が話を始めて私は午前三時まで聴いていました。でも…私も疲れてしまって娘の言うとおりにはしてあげられないんです」

娘を拒絶すれば娘の病気は治らない。しかし甘えさせていれば切りがない。
母親の体力も持たない。絶対矛盾である。


私は二人を前にこんなことを話したのだった。

「お母さん、容子さんが分かって欲しいというのは…彼女が小さい頃からお母さんのためを思って生きてきたということを分かって欲しいんですよ。

 たとえば、容子さんが小さい頃にね、お母さんの顔色をみながら、こうしてあげたらいいんじゃないか」と思って色々してきたことがあったと思うんですけど、
 それを分かって欲しいんですよ。知らないところでお母さんを支えてきた、そういう子じゃなかったですか?」
そういうと母親はじっと考え込んでいたが、それから急に崩れて涙ぐんだ。
「娘を何とかしなくてはならない。育て方が悪かった。自分の責任だ」。


そう思って母親は娘の治療に必死だった。
その必死さは実は治療だけでなく、母親の生き方そのもので、もう30年近く続いていた必死さだった。
でも、必死なのは母親だけでなかった。
子どものほうも実は「何とかしよう」と思って必死だった。

お互いに「何とかしよう」と思って一緒に生きて生きたのである。
それでいい子になろうとした。


母親が小さい子供の面倒を見て愛情を注ぐ、という一方通行の図式が逆転し、実は子も母親の気持ちを察して親の面倒を見てきたとわかると、
絶対矛盾が崩壊する。なんだお互い様じゃないかとなって母娘の対立が意味を失うからである。


拒食症の娘の絶対矛盾は母親に従ういい子とそうしたくない悪い子であり、母親の絶対矛盾はきちんと娘を育てる、いい母親と、もうそれを止めたい母親であった。
このことを契機に容子さんの怒りは小さくなり、母親も自分を責めることが少なくなった。
その結果、母娘は穏やかになり、相変わらず喧嘩はするけれども、安心して言いたいことをいえるようになった。
冗談が出るようになり、穏やかな関係が生まれたのである。
もちろん、容子さんの拒食という症状もいつの間にか消えていった。

がんばる、という規律を守れなくなるうつ病


うつ病になる人は「真面目で、頑張り屋」の人が多い。
だから、このくらいの辛さで挫けてはいけない、もっと頑張れる、と考える傾向が強い。


人が自分の苦しさがどれほどのものであるかを主観的に評価するとき、自分は世界で一番つらいのか、普通につらいのか、あるいは、こんな程度でつらいと思ってはいけないくらい「軽い」程度なのか、と色々考える。

そんなときに、頑張り屋さんの度合いと真面目さが重症度の自己評価に影響を与えることは容易に想像が付くだろう。



■頑張れないのなら死んでしまいたい

先生、もうだめです。
会社を辞めようと思います。
みんなの前で笑顔を作るだけでも精一杯です。
全部投げ出してしまいたいです。
でも、そうしたらみんなに迷惑がかかるから、会社を辞めようと思います。
本当はそんなに辛くないけど、自分は大げさに言って、
私だけにげようとしているんじゃないの?と思います。
そう周りからも言われている気がします。
あなたは甘ったれているだけじゃないの?と言われている気がします。




■人が死を賭ける「規律」

人が死んでしまいたいと思うのは
思ったとおりに人生が進まず、
自分の納得できるような生き方できなくなった時だ。
「思ったとおりに」というのは何かわがままが通らずに、ということではなく
生きていくのなら最低限ここだけは守っていこうと言う自分なりの
「規律」が守れなくなった時、
頑張れなくなったときという意味である。
人がそれぞれ自分に課している生き方の「規律」は軽くは無い。
命を賭けるくらいに厳しく自分に課している規律である。
だから、それを守れなくなったときに、人は死んでしまいと思う。
それぞれが自分の中に生きる「規律」を持っている。
その規律とは実は、
人とのつながりを保つために作り上げてきたものだ。
その規律を保とうとして人は頑張り、
それが守れないと感じたとき、
死んでしまいたいと思う。
うつ病の辛さの中で人は自分が守ってきたこの規律と対峙する。
生きるために規律をつくり、それを自分に課して、守っている。
精神的には、それは自分と人との繋がりを保ち、
自分が「ここ」にいてもいい、
自分が生きていてもいい、自分は歓迎されている、自分は生きることを許されているという
自己肯定感、安心感を作り出している。




■頑張りの空回り

しかし、規律は一度出来ると、もともとの必要性、すなわち生きるため、から離れて
「一人歩き」するように見える。
規律を守れない自分を責め、うつ病になり、そして、規律を守れない自分は生きる価値が無いと生きることを否定し最後には自殺へと及ぶことさえある。

安心して生きるために作り上げた規律が今度はその人の人生を破壊してしまう。
うつ病からの回復は真の回復は、頑張れない自分を許し、生きる規律を作り替えることである。







■自責の念=自分への怒りがうつ病を発症させる

単なる頑張りすぎでは
うつ病は発症しない。
うつ病発症には過労状態に加えて
自責の念が不可欠である。

うつ病の発症=心身の過労状態+自責の念(自分への怒り)
この二つのうち、うつ病発症により本質的なものは、
自責の念である。
私たちはどんなときに自分を責めるのか。
それは自分が決めた規律を守れなったときである。
こうしたほうがいい、こうすべきだ、と
なすべきことを決めて、それが出来なかったときに
人は自分を責める。
どうして出来ないんだ、何で間違えたんだ、
こんなことをもできない自分はダメだ、
自分を許せない、自分が悪い、となる。
こんなことでへこたれている自分はダメだ、
自分はだらしない、意気地が無い、
頑張れない、だから、自分はここにいてはいけない、
生きている価値が無い。
そして、死んでしまいたい…と、とめどなく苦しくなる。
自殺、すなわちダメな自分を殺すことは
自分を責める気持ちの究極的な表現なのである。




■もっとがんばらないといけない、そうしないと怖い

あまり仕事をやり過ぎないように、疲れすぎないようにって
やっているのですが、
それがうまくできなくて。
ふつうにやっているつもりなんですが
どうしても疲れてしまうんです。
やりすぎないようにするのは難しいです。
頑張らないのは怖いですか?
そうです。頑張らないと怖いんです。
不安になります。
こんなに頑張れない自分じゃダメだって思います。
頑張らないと不安で落ち着かなくなります。
でも、今までと同じように頑張っていたら、
うつ病が再発してしまうと、そう考えて、どうしていいかわからなくなります。



人は頑張って、前向きに生きていかなければならない。
そうしないと不安だ。怖い。
彼女は、頑張りの根本にある恐怖に気づいた。
生きようとする頑張りの根本にあるのは、恐れである。
頑張らないと見捨てられる。頑張らないと認められない。
頑張らないと一人ぼっちになってしまう。
頑張らないと食べていけない。
頑張りの根本には
こういう恐怖がある。
それらを避けて生きていくために、
だから、頑張らないといけない。

彼女は涙を流しながら会社に向かった。
疲れ切って挫けそうな彼女を行動に駆り立てたのは
怒りであった。
涙は恐怖や怒りのさらに深いところにある悲しみから流れ出したものだ。
人は生きていかなければならない、その悲しみです。


頑張らない自分はいてはならない、許されていない。
そう思って怖い。
そうですね。生きている以上、「頑張らない」のは無理ですよね。
人一倍、頑張らないことは苦手なようですから。


自分が小さい頃から作り上げてきた生き方、
それには深い人生の意味が込められている。
だから変えていくのは大変な作業だ。
簡単には変わらない。
でも、変わらないことに気づけば、それが自己受容だから、変わる。





■それでも、人生は頑張るしかない


不安は面白い性質を持っている
それを避けようとすると、不安はますます大きくなり
それを正面から見つめると、不安は小さくなる。



ひきこもり息子とまじめな母親



■「いい母親」が「いい子」を演じさせる

母親は午前中に家事を済ませて午後からパートに出ていた。

ある日、身支度をして家を出ようとしたら、昼夜逆転の息子が二階の自分の部屋から起きて来て不機嫌そうに「メシ!」という。

母親は自分の怒りを抑えながら穏やかな声で「これから母さん仕事だから…」と言った。
息子はムッとして食卓の上にあった醤油の瓶をひっくりかえした。

そして何も言わずに二階に戻っていった。






「先生、私はどうしたらよかったのでしょうか?仕事には遅れても、ご飯を作ってやるべきだったのでしょうか?息子に何を言われてもやってあげたほうがいいのでしょうか?」
息子はどうして怒ったのか。


母親の「これからお母さんは仕事だから…」という言葉に彼が読み取ったものは、
「何でこんな時にご飯だなんていってくるの。いい子のあなたはそんなことなかったじゃない。ちゃんと時間に起きてこなくてはだめよ」という怒りと叱責のメッセージである。
”いい子を期待する母親が悪い子である息子を責めている”という構図がここにある。
「A」⇔「反A」という対立関係に苦しんでいる彼はこのメッセージに敏感に反応するのだ。


彼の目からみれば、日常生活のあらゆるところに、些細な出来事のどこにも、この「A」⇔「反A」という対立関係が仕組まれている。
カウンセリングでこのことを母親は理解できた。


では、こんな場合「どう答えたらいいか」であるが、その前になぜ母親が息子の「メシ!」に怒りを感じたかを考えてみよう。
出掛けに「メシ」といわれれば誰も怒るかとおもえば、そうでもない。


例えば、こんな親子関係もありうるだろう。
母親は「何言ってんのよ、バカね、こんな時間に」と笑って取り合わず、息子は時計を見て「あれ、もう一時半か」などと応えて、
ぼさぼさ頭を掻きながら即席ラーメンを探す、などという関係である。
しかし、母親は怒りを感じてしまった。なぜだろう。
それは彼女の中に「息子にはちゃんとご飯を作ってあげなければならない」という”真面目な母親”の気持ちが強いからである。
彼女は「いい母親」でありたいと思っている。 
それを演じられない時間帯に「メシ!」と言われたので怒ってしまったのだ。
ここに母親が抱えてきた苦しさ、辛さがある。







■僕がこうなったのはお母さんのせいだ

ひきこもりになってしまうのは、登校や仕事に対して義務感が強すぎるからである。
「 絶対に学校は休んではいけない」と思っていると、学校に行けなくなる。
逆に学校なんて週3日もいってりゃ十分だ…、と思っていれば不登校は起こりにくい。

子の義務感は親から受け継ぐ。だから親の義務感が強すぎると、
子供の義務感も強くなる。その強さは必ず親より大きくなる。
親が10の義務感で生きていれば、子供は15くらいになる。
義務感の強すぎる母親は知らず知らずのうちに子に強いメッセージを送り続ける。
学校は休んではいけない、いい子で居なさい、先生の言うことを聴きなさい、友達と仲良くしなさい、
宿題はちゃんとやるのよ、お行儀よくするのよ…つまり、いつも頑張りなさいというメッセージである。
それを信じた子供は義務感がさらに強くなる。知らず知らずのうちに、学校=緊張と我慢の場、
となってしまう、毎日、強い緊張をかかえて登校しているから、ある時、力尽きて不登校となる。
親自身のもっている義務感は例えば、人とうまくやっていかないといけない、
世間から悪く言われないように、子供をしっかり育てなければ…つまり、ここでも頑張らなくてはいけない、である。
一方、親の義務感がそこそこに範囲内だと子供は現実的なメッセージを受け取ることができる。
つまり、人とはうまくいくことに越したことはないが、ケンカをしたり、うまくいかないこともある、あるいは自分はあまり自信がないけれど、
そういう子もいる、まぁ大丈夫だろう…などのメッセージである。すると、学校は「行かなければならない場所」だけではなく、
時々は休んだりすることもある場所であり、安心感を持てる場所にある。友達付き合いや授業も緊張感も比較的小さくなるから、
学校生活に楽しみを見出すこともできるだろう。そんな子には不登校・ヒキコモリは起こりにくい。
引きこもった子は親から引き継いだ過剰な義務感に縛られ、窒息している。
こういった心理的な背景を理解すると、引きこもった子が親とのケンカでよく口にする言葉の意味も理解できる。
「僕がこうなったのは、お母さんのせいだ!」
この言葉に込められた思いの深さは初めは、親はもちろん、言っている本人も理解していない。
さらに心理の専門家であるカウンセラーでさえも、表面の意味しか見えていないことが多い。
つまり、親のせいでこうなった。だから親が反省して親が変わらなければ、
子の問題は解決しない、と解釈されている。
子の義務感は親に従おうとする自然な気持ちから始まり、ついで親を労わる気持ちによって強化される。
しかし、それは親から引き継いだ義務感であり、親自身も苦しんだ義務感だ。親には親との人生とその辛さがあった
。親は親で一生懸命に生きてこなくてはならなかった。親子の辛さは表裏一体である。
それが理解された時、初めて、問題が解決される。その時に、家族全体の緊張感が見えてくる。






■気を遣いすぎて「ひきこもる」



一般論ですけどね、
周りに気を使ってきた子がひきこもりになりやすいんですよ。
ずっと気を使ってきて疲れちゃってね。
それで学校に行けなくなります。
女の子はお母さんの話に付き合って一緒に頑張ろうって気を使うんですが
男の子はお母さんの期待することを先回りしてやってきたり、
それに気を使うんです。


だいたい小学生の頃が一番それが出ます。
「幼稚園の頃だったと思いますが
 私が義母に叱られていると、そのときは隠れているのですが
 その後、黙って私のところに寄ってきて…いつまでもそばにいるんです。」
義母がきつく当たりだすと、決まって夫はその場から居なくなった。


あるとき、涙をこらえながら夕食をしたくしていると、
いつの間にか息子が寄り添っていた。
「お母さん、今日のおかずは何?」って聴くんですよ。
「お魚だよ」って言うと「美味しそうだね」って言うんですが
でも…小さい息子には調理台の上は見えないはずなんですが…


そうですかすごく心配していたんですね。
「お母さん、大丈夫だよ、僕が居るからね」っていう気持ちでしょうかね。
彼なりにお母さんを慰めようと…
いろいろあったんですね。
本当に息子さんと一緒によくやってきたということですね。
お母さんも息子さんも、家の中ですごく緊張して暮らしてきたんですね。
その緊張が彼の抱えてきた辛さですね。






■子が欲しいのは「ごめんね」ではなく「ありがとう」



息子さんに謝りたいと思っていたが
きっかけがないと報告してくれた。

でも、お母さん、息子さんは何か違うものを感じ始めていると思いますよ。
言わなくてもいいですよ。
それから、今までも息子さんには何度も謝ってきたんじゃないですか?
ええ、そういえば、
「見てあげられなくてごめん…」って、
息子に責められてた時に何度も言いました。
そうしたら、息子さんは何と応えてていました?
何も言いませんでした。黙っていました。
そうですよね。
お母さんに謝られても辛いだけです。
息子さんが言って欲しいのは違う言葉ですよね、多分。
言って欲しいというか、実際の言葉じゃなくて…分かって欲しい気持ちってどんな気持ちだと思いますか?
「私を支えてくれてありがとう」です。
二人で頑張ってきたんでしょ?
母親は涙を浮かべていた。

もちろん、いきなり息子に感謝の言葉を伝えても、彼は何を言われているのかわからないだろう。
しかし、心の深いところではその言葉がほしいのだ。
「ごめんんえ」と謝られても彼の緊張は解けない。
それどころか、母親を困らせている「だらしない引きこもり」の自分を責めるだろう。
そしてイライラするだけだ。
居場所がなくなって、また一人部屋に閉じこもって苦しむのだ。

今、彼には過去を後悔することではなく、一緒に頑張ってきた過去を認めてくれる言葉が必要なのだ。




■母親が息子の悪口を言えば息子は治る

「お母さんは、あなたの引きこもりのことで前から相談に行っているんだよ。
 そうしたら先生に叱られてね。
 引きこもりの責任は親にあるっていきなり言われて…びっくりしたよ。
 和樹が小さい頃、お母さんはずいぶん息子に支えられたはずだって言われたよ。
 いろいろ思い出して、和樹がいい子をしてくれたお陰で、お母さんはずぶん支えられたって思い出したんだよ。
 だから、お礼を言っておこうと思ったんだよ…いろいろありがとう…」
息子は黙って聞いていた。
話が終わると、聞き取れないほどの小さな声で「うん」と言ったように母親には見えた。
そして部屋に入っていった。


「いい子」を演じる子どもの前には必ず「いい母親」を演じたい母親が居る。
「いい母親」を演じたい母親=真面目すぎる母親である。
不登校の子どもを持つ母親に対するカウンセリングはここが要点となる。
つまり、何でもきちんとやってあげる「いい母親」のもとに、何でもきちんとしようとする「いい子」の息子が育つのだ。
息子が自分の中に「ワル」を受け入れて成長しようとしているときに、母親も自分の中に「ワル」を育てなければならない。
母親も変わる。変わらざるを得ない。
自分のなかにあった「ワル」を許さない気持ちが溶けていくのである。
具体的には「こんな息子の事で毎日毎日せめられていてはかなわないわ。もういい加減にしてよ!」という気持ちを自分に許していくことである。
ところが、こんな気持ちを持つことは世間では許されないことになっている。
母親が相談に出向いた教育相談や精神科でそんなことをいったら、きっと「母親がしっかりしなくてどうする!」と叱られてしまうだろう。
でも、「もう、あんな息子どうでもいいわ!」と、カウンセラーの前で息子の悪口を言えれば、母親の変化は進んでいくのである。

子どもに「ワル」や「弱さ」を許さなかったのは、親が自分にそれを許していないからでもある。
子どもは親の生き方を見習って育っていくものである。
子どもが変わるときは、親も変わるときである。
A:いい母親、息子の面度を見る、自分を我慢する
反A(B):悪い母親、息子を放っておく、わがまま
息子の中の「A」⇔「反A」の対立に応じて母親の中にも同じように「A」⇔「反A」の対立がある。
息子が回復するのにしたがって母親の行動も変わる。
こうして息子も母親も自分を成長させていくのだ。




「怖いよー」と言えなかったパニック障害


薬で発作を止めるだけではなく、並行して「不安をちゃんと感じる」、「不安について語る」ことが不可欠だ。

その精神療法を行っていくのが根本的な治療である。






■「怖いよ!」と言えなかった頃

沙苗さんは、小さいときからずっと真面目な優等生であった。
大学生の時、初めてパニック発作をおこした。
一時は通学も難しいほどだったが、薬で発作はだいぶ軽くなった。
今は薬を飲みながら通学している。
しかし、発作が完全に消えたわけではない。





「そうですね。
 ところでどうしてパニック障害になったのか考えたことがありますか?」

「えっ、…原因があるんですか?」

「…」

「普通はね、ずっと緊張して生きてきて、小さい子どもの頃に「怖いよ!とか、「助けて!」とか言ったことの無い子が、大きくなってパニック障害になるんですよ。

どうしてパニック障害になったのか考えたことがありますか?ずっと不安を我慢して緊張していたのが原因といえば、原因ですね。


沙苗さんの家庭環境について簡単に述べておこう。
家庭は裕福だった。
両親ともに穏やかで、何事についてもきちんとしている家庭だった。
しかし、少しその度が過ぎていたようだ。
家庭の中の緊張はいつも強かった。
母親はどこかいつもピリピリしていた。
その緊張は忙しい夫の仕事のせいであろうか。
祖父母との二世帯住宅が影響していたのか。
両親とも、目立って仲が悪いと言うことはなかったが、
母は父を遠ざけていたようだった。

「ずいぶん前に先生は、私は緊張の強い家庭で育ったようだとおっしゃっていましたね。
 最初は言われて、ぜんぜん意味が分からなかったのですが、いろいろ思い出してきて、そうかなと思えてきました。


 私って誰かに『こわいよー、たすけてー』って言ったこと、多分ないんですよね。」

「そうですね。誰かに、って言うか、小さいときは、普通は一番近くにいるお母さんにでしょうね。
 あなたは言わなかったのかな?たぶん、真面目すぎたのかな? そういう子は言わないからね」


「そう、真面目すぎたんです」と沙苗さんは笑った。

「この間、母と父が、祖母の介護のことで話し合っていたんです。
 けんかしているわけじゃないんですけど、母はすごくピリピリしていて、父は不機嫌そうでした。私はそれを聞いていて、フーッとめまいがして不安定な感覚になってしまいました。すごく嫌な気持ちになって『ああ、この感覚って小さいときからあったな』と思ったんです。私の我慢してきたことってこれだったのかと…、家の中の緊張がわかりました」





家の中が緊張していれば子どもは遠慮して不安を口にしないものだ。
両親の不仲を子どもは敏感に感じ取り不安に陥る。

しかし、それは口にはしない。
人が「怖いよ!」と言えるのはじつは安心したときである。

怖い目に遭ったときは、夢中で逃げる、緊張する、対処する。
そこから逃れて後、ほっとして「ああ、怖かった!」と言える。


家庭の中がずっと緊張していれば、子どもはずっと「怖いよ!」とはいえない。
成長して、少し緊張が緩んだ頃に「怖かった」と言えるのだが、
その言葉を知らない、言い方を知らないので、いきなりパニック発作が出る。
そして、「怖いよー」と言えると治っていく。



■不安を認めると不安が消える

不安という感情は
危険に対する敏感な予知情報である。
その人の人生でパニック障害た起こる時期にもまた意味がある。
不安発作は
「もう、いままでの生き方のままで緊張し続けてはいきていけない。
 そろそろ緊張を和らげようよ。生き方を変えようよ、
 と言うサインである」
このサインが出たということは
危機が少し去り、ちょっと安堵したときである。
発作発現の意味を考えずに
ただその症状を消そうとするだけでは
制限を続ける逆向きの治療になってしまう。

不安を抑えるのではなく「不安はあるんだ」と認識できると不安は小さくなる。
正確に認識できると、認識の制限が解除される。
認識の拡大が心を楽にする。
そして、不安を制限する小さい心からはなれる。





ある時、彼女はこういった。
「ちょっと後ろめたいけど、もう両親のことに首をつっこむのをやめた。
 楽になりました。」
小さい頃から両親の間に入って夫婦仲をとりなしてきた自分の役割を終わりにしたのである。

心、身体を問わず「症状」の発現には意味がある。
お腹が痛いときに原因を調べずに
鎮痛剤を飲んでしまったら危険だ。
痛みの原因はガンなのか、胃炎なのか、必ず理由があるはずだからだ。
痛みは身体が発する、とても鋭敏で大切な情報である。
抑圧したり、制限してはならない
同じように精神科の心の症状にも意味がある。
不安には不安の意味があり、
鬱症状にはその原因がある。
身体の症状は
どこかで機能不全が起こっているという
警告信号であり、心の症状は制限された認識が限界を知らせている警告信号である。
その意味を正確に読み取り、対処できると
身体の機能は正常に戻り
心は広がる。

2017年10月20日金曜日

なぜ女性は占いにハマるのか?という疑問について



女性だけでなく男性でも占いにハマっている人はたくさんいるが。




女性は自分の話を聞いてほしいという欲求が男性より強いのだろう。
占いという言い訳を用いて自分が足りに共感してほしいのだ。

臨床心理士のカウンセリングが1時間8000円だとすれば10分1000円で自分の話題だけで会話が進む時間はコスパ良しだろう。

ネイルサロンや美容室も、その施術の技術いじょうに、施術者との会話を求めて足しげく通ったりするのかもしれない。







さて、女性は結局、強引な男性に惹かれる、という話がある。
強引な男性は、その女性たちに何をしてくれるのか。
彼らは女性たちを「決断」と「責任」から解放している。

占いにもおそらく同じことがいえる。

占いの結果どおりに生きてみる。
占いの結果なんだからしょうがない。

男性が決めたんだから、それについていくだけ。
男性が失敗しても私には責任がない。

占いも強引な男性も、決断と責任から女性を解放しているのではないだろうか。


いや、占いだけじゃない。
宗教も、雇われて働くのも、すべて、「決断」と「責任」から解放されたい人たちが欲する生き方なのだと推察する。

ひるがえって、たとえば、企業の経営者や大金持ちなんかもお抱えの占い師に大金を払って占ってもらったりしている。

経営者は決断をするのが仕事であるのだから、占いで開放する必要がない、という話になると思いきや、結局、決断の連続である経営者であっても、自分の決断は占いの結果を参考にしたのだから自分に責任はない、というセーフティネットを張るために占ってもらっているのだろう。


聖書も教祖様も、全部そうだ。

人間が生きていくためには心のよりどころみたいなものが必要だ。



しょうがない。
と何が起きても思えるような指針を人は求め占いにはまっているのかもしれない。

株式投資家が株式の専門家といわれる人たちの意見を参考に株を買うのも、自分の決断に自信が持てないからだろう。
あるいは自分で考えたくない、考える能力がない。