2017年10月28日土曜日

共感の積み重ねが自己肯定感をはぐくむ





■人生の幸せは3つのことが実現できていること


普通の生活ができて、1に、美味しく食べて、2に、ぐっすり眠れて、3に誰かと気持ちが通じ合うことができれば、人は幸せである、と。
この単純な3つのことは、たぶん、普通の人生を送っている人たちにとってはすでに実現できていることであり、日々振り返ることさえしない、ごく当たり前の事である。






(v)心理的ネグレクト
心理的ネグレクトとは、親が子どもとの間に愛着感形を作れず、その結果、子の心理的発達が阻害されることである。
つまり、愛着関係の不成立=心理的ネグレクトである。



心理的ネグレクトだけを見ると、具体的には、子どもに声をかけない、子供が甘える気持ちに気づかない、子供が落ち込んでいたり喜んでいたりしていても無関心である、
子供が悩みを相談しても内容をくみとれない、子供が泣いていてもいたわる言葉をかけられない、
子供が喜んでいても一緒に喜べない、などである。



十分な食事を与えないのがネグレクト。
一方、食事を与えても「美味しいかい?」とか「お腹いっぱいになったかい?」とか聞こうともせず、餌を与えるかのように食事を出して、
子どもの気持ちに無関心なのが心理的ネグレクトである。





■子の気持が見えなかった母親

心理的虐待は子どもの心の中に奇妙な、矛盾した母親像を作り出す。
彼女は、いつも怖い母親だったと振り返る一方で、
「食事もお弁当も作ってくれた」「叱られたことはなかった」、
だから母親は優しい人だった、と言う。
母親は怖いという冷たい距離感と、母親は優しいという思いとが同居する。
心理的虐待を続ける母親が、子どもに優しいはずはない。
叱らなかったのは、子供に無関心だっただけだろう。
しかし、放っておかれたことを「優しかった」と被虐待児は翻訳して理解する。
食事を作ってくれたのは、家族の食事と一緒だったという理由だけだろう。
しかし、彼女はそこに子への愛情を読み込む。



「先日、久しぶりに実家に帰りました。 
 母の行動を見ていました。
 私が持っていたイメージの母親像と『私の母親をしていたあの人』とか、はっきり区別できるようになりました。」


「小さい頃、学校で嫌なことがあって報告したことがある。でも、母からは一度も『大変だったね』と言われたことがない。『あら、そうだったの』と、いつも見放された言い方だった。
 無関心だったのだ。
それが怖くて何も言わなかったし、学校で嫌なことが起こるのは私が悪いからだと思うようになった。私はどんどんダメな子になっていた。」

「期待してきた母親像と『あの人』との違い、その混乱がはっきり区別できた。
 整理できたので、もう求めるものがない。 
 執着していたもの、いつか手に入るかもしれないと思っていたものを、もう求めなくていいと思ったら、力が抜けてしまいました。」


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