2017年10月27日金曜日

虐待を生み続ける「善と悪の逆転」



■娘をたたき出すと止まらない…

「3歳の娘の事で悩んでいる。子どもを叱り始めると止まらない。叩いてしまう…」
相談員が由紀さんの面接を始めた。

質問の応対から、彼女がしっかりとした女性であることが分かった。
「精神障害」も「発達障害」もなく、心理的な理由による虐待相談と判断した。


娘の菜奈ちゃんは保育園でもとても良い子だった。
他の子におもちゃを取られても「いいよ、いいよ」と譲ったり、給食も見本にしたいくらいにきれいに食べているという
しかし、時々顔にアザらしいものがあったのと、妙に聞き分けがいいので保育園でも「もしかして…」と考えたことはあったらしい。

由紀さんはクリニックで何度も顔を合わせるうちに本音をいえるようになって言った。





■存在していないから死にたい

昨日、朝ごはんの時に菜奈は遊んでいてなかなかたべようとしなかったのです。
何度も注意しているうちに私は逆上してしまって、菜奈を叩いていました。
そうしたら、菜奈は「ママの言うこときかない、悪い子、止めない!」というので
カッとなって首を絞めて「だったら、死んでいなくなっちゃえばいい」と怒鳴ってしまいました。
菜奈は「うん、いいの。奈々ちゃんはもう”いない”。死ぬ」と言って、
頭に壁をゴンゴンぶつけ始めたのです。
止めなさい!って大声で怒鳴ったら、菜奈は壁に向いたままじっと動かなくなりました。
部屋の中が急に静かになりました。
その時に、自分が初めて死のうと思ったときの、小学校の記憶がよみがえってきました。
それから、はっと我に返ったら、菜奈がいないのでびっくりして、あちこち探しました。
菜奈は表通りに出て、歩道の端に立っていました
「何やってんの!帰ってらっしゃい!」と私はまた怒鳴ってしまいました。





■耐えるのが私の存在感の拠り所だった

由紀さんは虐待を受けて育った。
そのことを彼女はあまり話さなかった。
しかし、語られた断片的なエピソードは次のようであった。
小学校の頃、家で骨折したことがある。
風呂場の冷たいタイルの上に何時間も正座させられ、泣いたら頬をパチンと叩かれた。
母親に殴られて、鼻血が出て、浴槽に首を突っ込まれ、お湯が赤く染まった。
それから裸で外に出された。
熱があってもお風呂には入らなければならなかったし、食欲がなくても食べなければならなかった。
中学生の時、真夜中に急に「部屋が汚い、掃除をしろ」と起こされた。
きれいにできないと叱られた。


人は自分を主張して、自分の存在を確認する。
例えば、『お腹がすいたよ』「眠いよ、アレが欲しいな」…が自己主張である。

この世界に生まれて初めて自己主張を認めてくれるのは「母親」である。

お腹が空いてギャーと泣いてお乳をもらい満足をする。
主張を受け止めてもらえると「自分はここにいていいんだ。歓迎されている」と思える。
その積み重ねの上に私達は子の世界を生きている「実感「存在感」を作り上げていく。

ところが虐待を受けて育つと、ずっと自己主張を封じられてしまうから自分の存在を確認できなくなる。
周りの誰も自分を認めてくれないから、
自分がいるのか、いないのかわからない。


菜穂ちゃんは母親に叱られたとき
「うん、いいの菜穂ちゃんはもういない」という言葉を口にする。
あるいは、由紀さんの口からは
「私が、ここで苦しみながら生き続けている意味って何?」と
いきなり存在の基盤を問う言葉が出る。
それほどに「生きている感覚」が不安定なのだ。
「生きている意味」を自問することは誰にでもあるだろう。
しかし、虐待を受けた人の自問は
より日常的だし、切迫しているし、そして、乾いている。
虐待を受けた人が自分の存在を確認する唯一の方法は
自分を抑えることである。
自分は「我慢できているか」、我慢できていればよし、自分が「いる」ことになる。
我慢できていなければダメ、自分は「いてはいけない、いない」となる。
「普通の」子は、欲求を満たして、自分の存在を確認する。
虐待を受けた子は欲求を我慢して、自分の存在を確認する。
そして、逆転した存在感は異なる心理システムを作り出す。

我慢だけが「いる」ことの「手ごだえ」であれば、
そこに「生きる喜び」は生まれない。
喜びは自分の欲求を認めてもらい、
満足させてもらって初めて感じるものだから。
由紀さんは、この先、この世界に生きる「普通の」存在感と「喜び」の感覚を得ることはあるのだろうか。
その可能性は十分にある。

なぜなら、由紀さんには、まだ母親に向かって「悪い子止めない!」と言える娘の菜奈ちゃんが居るからだ。
つまり、母親とのつながりを求め、自分を認めてほしいと訴え続ける娘が居る。


その娘の存在が母親の希薄な存在感を揺り動かし、確かな存在感と生きる喜びを知らない由紀さん「それ」(主張して相手に受け止めてもらうことを求める)を
教えてくれるのだ。
そして、由紀さんがそのチャンスを生かすには
これからしばらくの間、
彼女は自分を語らなければならない。
辛い自分を語り、虐待されて、否定されてきた自分の「存在感」を知ることが
菜奈ちゃんからのメッセージを受け止める準備となる。





■長く同じ場所に居ると否定されているように思ってしまう

数ヶ月、通院して、彼女の以前の生活が少しずつ浮かび上がってきた。
まとめると次のようになる。
由紀さんは二度結婚し、二度離婚している。
二人の夫はともにDV夫だった。

>>
私は、夫から暴力を振るわれて、二度、大きな怪我をした。
生活費は全て管理され、自分のお金はなかった。
だから、自分で勝手に出かけたり、好きなものを買ったりはできなかった。
出かけるときは、いつも携帯に電話がかかってきて、どこにいるのか、何をしているのかと「監視」された。
あるとき、家で、急に身体がぶるぶる震えてきて、呼吸が荒くなり、動悸がひどくなった。
それから何度も繰り返すので、どうしてだろうと考えて、夫の帰宅時間が近づくとそうなると気づいた。
それに気づくまで数ヶ月掛かった。
しかし、、どんなときでも玄関に夫の姿がみえると震えはとまり、きちんとできた。
以前、働いていた時に、上司にきつく言われて同じ症状が出てしまったことがある。

結婚するまえ、仕事を転々としていた。
新しい仕事に就くと、いつも「明るいね」「前向きだね」といわれる。
しばらくは仕事も楽しいけれど、慣れてきてずっと同じ人と一緒に居ると
自分がそこにいていいのだろうかと不安になり
「いてはいけないのではないか」と思ってしまう。
そのうち「もう辞めたら」と周りから言われている気がしてきて、
それでいつも自分から退職した。

二人目の夫と離婚するときは菜奈がいた
娘とは別れたくなかった。
でも夫は娘の親権を主張してきた。
夫は娘に愛情なんかもっていなかったから嫌がらせだったと思う。
調停をしたが解決に到らず、裁判になった。
裁判の時、夫が証言している間は怖くて法廷に入れなかった。
裁判中はずっと「こんなことをしていていいのか夫ともう一度仲直りして、裁判をやめようか」と迷っていた。
その頃、夢を見た。
夫が優しくて、私が一緒懸命たくさんご飯を作っている
夢から覚めてがっかりした。

また違う夢。
私が駅で1人で切符を買おうとしたら
夫が後ろから「俺、言い過ぎちゃったごめん」と言ってきて、
切符を買ってくれた。
でも、夫は私を置いて、一人で改札の方に行ってしまう。
心の中では
「暴力を振るうのは私を愛しているからだ。いつかは変わってくれるはず…」と考えていた。
それは小さい頃から親に対してずっと思ってきたことだった。

裁判中はいつも「死にたい、死にたい」と思っていた。
自分が嫌いで
「いつまでこんな自分をしょっていくんだろう、いつまで生きていくんだろう」と思い、
「早く楽になりたいから、死んじゃいたい。でも、菜奈がいるから」と思ってきた。
でも、頭が真っ白になったら、そんなこと考えないかもしれない…。

いつも自分はビクビクして、人を怖がっている。
その態度が人に不快感を与えているのも分かってきた。
ある時、店で店員さんと反していたら向こうが感情的になってきた。
怒らせてしまった。
私がはっきりしないからだ。
急に怖くなって、涙が出てきた。
何度も謝りながら店を出た。

ずっと感じていたことに気づいてしまった。
私は存在してはいけない人間。
心細くて、毎日、自分が悪いことをしているみたいで、消えてなくなってしまいたい。
子どもの頃、童話が好きだった。
人魚姫が好きで、最後は泡になって消えてしまえるといいなと思っていた。

<<


由紀さんは
ずっと人には言えなかったこと、誰にも聞いてもらえなかったことを話せるようになった。
自分の本音を聴いてもらえたのは初めてだったかもしれない。
で、あれば、彼女は生まれて初めて、自己主張を受け止めてもらえたことになる。
語って、聴いてもらって、自分の「存在」を確認できる。
語る内容は辛いもの、否定的なものばかりだったとしても
話して、聴いてもらうことで自分が肯定される
初めての自己肯定の体験である。



■心理システム(善と悪)が逆転している

虐待されて育った女性はDV夫を選ぶことがよくある。
また、人から「必要としている」と言われないと、
ただそこにいるだけで自分が嫌われていると感じてしまうことがある。
そして、自己主張が中途半端で自信がないので
店員さんに怒られたり、
自分が雇った弁護士さんに叱られたりする。

(暴力を振るわれること、相手に従うこと、相手の理不尽さ、
 感じている辛さを「我慢」することが
 被虐待者にとっては生きる規律であるから、
 その規律を達成するためには、自分を我慢させる相手が必要。
 だからDVをしてくれそうな男性を選ぶ)


由紀さんの離婚・親権裁判は、誰の目から見ても彼女の側に「正義」があるのは明らかだ。
なのに、由紀さんは裁判を続けるのを迷い、自分を責め、死んでしまいたいと思い、できれば夫に戻ってきて欲しいという。

普通の人が当たり前のように思っている善いことが彼女にとっては悪い事である。普通の人が「なんでそんなバカなことやっているの!」と思う生き方が
彼女にとっては善い生き方である。
こうした善宅が逆転した心理システムが出来上がってしまったのは
小さい頃から親に否定され、「悪」しか体験できなかった結果である。

目の前にいる親は、暴力を振るい、ご飯も出してくれないことがある悪い親である。
でも、子どもはそれ以外の親を知らない。
自分が生き延びていくためには、その親に従うしかない。
人は誰でも生きていこうとする。
そのために必要な事をするのが「善」である。
だから、子どもにとっては目の前の「悪い親」に耐えることが「善」であり、
その逆に、耐えられずに逃げ出すことが「悪」となる。
悪に耐えることが「善」で、膳を求めるのが「悪」である。
こうして「普通の」人と善悪が逆転する。
これを裁判に当てはめると、悪い夫に耐えることが善であり、夫と争うのは悪となる
善悪が逆転した心理システムに生きていると、悪に耐えていると心は安定し、善を求めると不安になる。
期待できないものを期待するよりは、確実なものに耐えていたほうが不安は小さいからだ。

そして三ヶ月後、由紀さんは子育てを認められ勝訴した。
「子どもと一緒に住めるようになりました。
 嬉しかったです。
 少し自分が大人になれた感じ、少し強くなった感じがしました。」
裁判に勝って「もしかしたら善を求めてもいいのかも」と彼女は思ったに違いない。






■虐待の連鎖

しかし、由紀さんが本当に善悪を再逆転させて「生きている喜び」を取り戻すためには
もう少し時間がかかる。
なぜなら、由紀さんが30年護り続けてきた善悪逆転の生き方
「自分を抑える生き方」「耐える生き方」は
今でも由紀さんの支えであり、彼女の頑張りの源だからだ。
毎日の生活を維持するためにはこの頑張りが必要だ。
それがなくなったら生きていけない。
でも、その同じ気持ちが
実は菜奈ちゃんを「虐待」する気持ちにつながってしまう。
これが「虐待の連鎖」である。

どういうことなのか。

まず、人が生きようとする意欲は「善」を実行しようとする気持ちから生まれてくる。
由紀さんの善は「我慢し、耐える」ことである。
彼女は、毎日頑張って、自分を抑え、耐えていこうと前向きになる。
頑張って子育てをして、家事をして、部屋をきれいにして、
自分を抑えて、子どもを可愛がろうと思う。
その彼女の生き方を
菜奈ちゃんが逆なでする。
菜奈ちゃんはワガママを言ったり、
我慢をしなかったり、耐えなかったり、落ち込んだり、固まったりするのだ。
すると、由紀さんの中に「どうしてこの子は”ちゃんと”(自分を押さえて大人の言うことを聞く)生きられないんだ!」と怒りが湧いてくる。
耐えて、頑張って生きるのが、いい子だ。
わがままを言って自分を主張するのは「悪い子だ。そんな子は許せない」
菜奈ちゃんを怒鳴る。
すると、菜奈ちゃんは固まってしまう。
それを見て、由紀さんはさらに怒りが止まらなくなる。

こんなときに固まってはいけないのだ。



どんな時でも緊張を絶やさず自分を我慢して生きないといけない。
「固まるのは我がままだ。弱い気持ちだ。悪い子だ!」
子どもに向かう怒りは自分に向かっている怒りと同じだ。
店員の前でオドオドする自分は嫌いだ、
夫にビクビクする自分はダメ人間だ。
こんなときに泣いてはいけない…。
「そんな人間は許せない!」
こうして、由紀さんが自分の意欲を引き出して前向きに生きようとすればするほど、
その気持ちがそのまま菜奈ちゃんへの怒りとなる。
頑張れば虐待する。
由紀さんはこの絶対的な矛盾の中でもがき苦しんでいる。
そして、虐待が続けば
彼女はいつまでも生きる喜びは味わえない。
喜びを知らなければ
彼女はいつまでも善を知らず、
悪を求めて
自分を抑えて生きようとする。
虐待の連鎖は終わらない。
連鎖を乗り越えていくためには
彼女は今は自分を語るしかないだろう。




■親と同じことを繰り返している自分って…

食事の時間のことで、どんどんひどくなっています。
菜奈はちゃんと食べないんです。
ぐずぐずしていて…。
食べないんだったら終わりにするよ!って言って、
時間で区切ると食べ終わらないので食事を取り上げます…
菜奈は痩せてきました
それから、朝、保育園に行くのに時間がかかります。
私は、怒鳴るし、叩くし、先週は蹴ってしまいました。
保育園まで引きずっていって、顔も見ずに置いてきました。
自分が切れて、違う自分に成ってしまいます。
そうすると、自分の声が
ぎゃんぎゃんぎゃんぎゃん聞こえてきて、止まらないのです。
私が親にそうされてきたので、娘にもしてしまう。
それは分かっているんです…。
菜奈を叩いてしまうと
自分の愛情が消えてしまったんじゃないかと焦ってしまいます。
自分はそういう親になりたくない。
でも、焦れば焦るほど、どうして自分の気持ちが通じないのかと、
ひどく当たってしまって…
寝ている娘の顔に痣が出来ているんです。
それを見ると
「これでは親と同じだ」と思って、
小さい頃の気分、親が怖くて
いつか親に殺されてしまうと思って気持ちがよみがえります。
今は親と離れているけれども、
親に支配されて、呪われています。
それで、自分が辛いと思えば思うほど
ちゃんとやらなければ、頑張らなければと思うほど、
娘に当たってしまいます。

「結局、私は親から逃れることができない。だから、いつも死んでしまいたいという気持ちがある。いつも、死んでしまいたいという気持ちがあります。もうおわりにした。それは小さい頃から消えない…」

由紀さんはぎりぎりの気持ちを言葉にして語り続けた。







>>
菜奈は保育園は楽しいみたいです。
でも、朝、私がご飯を急かせると固まってしまいます。
黙って何も言わなくなります。
それが一番、腹が立ちます。
それを見ると、私は狂ったように
「答えろ、答えろ、答えろ…」と言って止まらなくなります。
まだ黙っている娘を見て、
もっと怒りがあふれてきます。
いつの間にか、叩いたり蹴ってしまって、
気が付くと泣き叫んでいる娘が居るんです。
そうすると、「これって…」と思って、
フラッシュバックします。吐き気がします。
昨日は、娘を送り出した後、吐きました。
それから涙が止まらなくなりました。
泣き叫ぶ娘を叩いている自分を冷静に見ている自分も居ます。
でも、菜奈を叩くのをやめようとしない。
止まらない。
明らかに2人の自分が居ます。
<<



>>
私は娘を愛せないんです!嫌いなんです。
どうして愛せないんですか?どうして好きになれないんですか?
<<



彼女は必死に訴えた。
言葉は質問になっているが
彼女はその答えを待ってはいない。
今はただ気持ちを表現することで、分かってもらいたい。

「怖かった…家では感情を否定された。怖いというと”そんなの怖くない”と否定されて、怖いということはない、怖くないんだと思って育った。痛いと言っても痛くないと叱られた。感情を出してはいけない家だった。みんな感情の逆の事を言う家族だった」



また、ある日の診察で由紀さんは報告した。
先週の土曜日の夜、菜奈が怪我をして救急車で病院に行った。3針縫った、と。
何で怪我したのかを彼女は言わなかった。私も聞かなかった。




今の由紀さんは語り続けることが必要だ。
その内容が虐待であってもいい。
それが人には言えない汚いことであってもいい。なんでもいいから自分の気持ちを語る。
30年間、ずっと語れなかった自分の気持ちを言葉にする。
自分の感情を聞いてもらい、認めてもらい、
自分がいることを認められるようになると
不安と恐怖は弱まり、さらに自分がいても”いい”、生きていても”いい”と感じられるようになれば
由紀さんの辛い頑張りと自分を否定する気持ちはやわらいでいく。






■菜奈ちゃんからの温かいメッセージを受け取って、善悪が再逆転する


「朝、布団から出たくない時があります。動けない。トイレに行く以外は何もしたくない。
 このまま外を見ないで、目を閉じたままじっと布団の中にいたい、思います。
 でも、菜奈がいるです。
 何とかご飯を作って食べさせて、保育園に送り出します。」
「この前の日曜日、朝、菜奈は出かけていきました。
 保育園で一緒の近所のお友達の家です。」
「菜奈が出かけてから、ぱたぱた洗濯して、掃除をしました。
 でも、疲れて、気持ちが止まってしまいました。動けなくなりました。」
「これじゃいけない、これじゃいけない、と涙を拭いて必死に動きました。
 部屋が散らるのが嫌で、毎日掃除をしないと気がすまないのです。掃除をしないと怖い…休めない。」
「家の掃除は小さい頃からの私の仕事でした。ちょっとでも部屋が汚れていると叩かれました。
 今は菜奈と二人なのに、誰もいないのにそれでも掃除をしないといられないんです。
 朝から頑張っても何もかも中途半端になってしまいました。」

「ああ、ダメだ、生きていけない…死んでしまいたい」と思って、
部屋の真ん中にぼーっと立っていました。
気づいたら、いつの間にか菜奈が帰ってきました。
菜奈が「ママどうしたの?」と聴いてくれました。
私の事を見上げていました。
菜奈の顔、かわいいなと思いました。
菜奈が生まれた頃のことを思い出しました。
菜奈が愛おしくて「私はいいお母さんになるんだ」と思ったときの気持ちが蘇りました。

「ううん、なんでもないよ、大丈夫よ」って言ったら
「ママ、涙でてるよ」って…。

それから遅いお昼を一緒に食べました。
なぜか気持ちは穏やかでした。私はもう何も考えていませんでした。

そういえば、先週、保育園にいったとき、
園長先生が菜奈のことを話してくれました
「菜奈ちゃんはママのことを心配してますよ。
 ママはいつも疲れていると、言っています。大丈夫ですか」と聴かれました。
菜奈は私の事を見ている。優しい目で見ているんだと思いました。
それは私が恐怖の目であの人(母親)を見ていたのとは違う
菜奈は私を必要としている。
自分は必要とされていると思いました。
自分が”いる”ことが”良い”ことなんだ、私は”居て”いいんだ…
あの時は、怒りが消えて、時間がゆっくりと流れていきました。

また、次の診察で由紀さんは語り続けた。
「菜奈がにぎやかにしていると、頭痛がしてきます。
 明るくて元気なところは菜奈のいいところなので、それは潰さないようにしてあげたい。
 でも、最近は顔に表情がなくなりました。前はもっと生き生きしていたと思います。
 お腹が一杯でも、食事時間なると無理して食べようとするのがわかります。
 我慢して食べている。その顔を見ると痛々しいです。」
「私もそうしてきました。食欲がないけど、ちゃんと食べないと叱られる。
 うどんを短く切って、一本一本飲み込んだのを思い出しました。
 喉が詰まっていたけれど、やっと飲み込んだんです。
 菜奈も同じ事をやっている。かわいそうです。」
「夜、菜奈の寝顔をみて、いつも後悔しています」

その日の診察では、由紀さんの語り口はいつになく穏やかになっていた。
話し方が少しずつ変わってきた。駆り立てられるような焦りや、自分を責め続ける緊張は伝わってこなかった。
淡々とした印象だった。

「一昨日、娘が保育園から帰って来たときです。じっと黙っているので、どうしたの?何か嫌なことがあったの?と聴いたら、
 菜奈がポロポロ涙を流しました。私は自然と娘の頭を抱いて、よしよししてあげました。
 そんなことをしたのは最近なかったんです」
「その日、どうしてできたのか、自分ではわからないのですが、自然とそうしていました。
 娘は頭を私の身体に押し付けてきました。
 私は何も言わずに娘の頭をなでていました。
 そうしたら、ふーっと力が抜けてきて、温かく不思議な気持ちになりました。」
「今思うと、私が許された気持ちになったようでした。
 菜奈は私を必要としている。自分は必要とされていると思いました。
 自分が”いる”ことが”いい”ことなんだ、私は”いていい”んだ…あのときは、焦りが消えて、時間がゆっくりと流れていました」






小さい頃から誰にも助けてもらえず、一人ぼっちで生きてきた。疲れた。
「もういいか…」という諦めの気持ちがわく。静かに消えてしまいたいと思う。
でも、菜奈ちゃんが自分を必要としてくれる。
自分の存在を認めてくれている。
娘は自分が長年押し殺していた「甘える」という気持ちを思い出させてくれる。
それを自分は許せなかった。
でも、今は「菜奈は可愛いな」という気持ちが彼女の緊張を解く。
菜奈ちゃんの甘えを許せているということは
自分の甘えを許し始めているということだ。
こうした雪さんが忘れていた優しい心、ゆったりした時間、
それに何よりも
じぶんは許されているという感覚が彼女の中に根付いてきた。
自分が生きていていい、緊張しないで甘えてもいい、
自分は「この世界」で菜奈ちゃんに歓迎されている。
「生きていていい」、その根本的な存在感は
親子の間でしか伝わらない。
自分を肯定できれば、子どもを否定することも無い。
子どもを肯定できれば、自分を否定することは無い。
虐待は消える。
 
由紀さんと菜奈ちゃんは、少しずつ「普通の」親子になっていった。
すると、菜奈ちゃんはもっと甘えるようになり、由紀さんはずっと穏やかになった。

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