2014年12月8日月曜日

介護職の給料は「今後もずっと上がらない」と思う理由(編集中)



介護職の給与が上がらない理由。
経営者優位の状態がこの先も続いていくから。







経営者の目線からその1。
まずは非介護人「お客様」。

非介護人は溢れている。
お客様は溢れ返っている。

1秒でも早く預けなければ仕事にいけない、というような状況の介護人が溢れている。
そういう人たちには介護に質を求めている余裕など、はっきりいってない。
とにかく預けたい。
そうしないと自分自身が社会生活が送れない。

そういう人たち向けに、わざわざ質の良い介護サービスを提供する必要はない。
預けられればそれで満足という人たちがたくさんいるのだから、付加価値など提供するどおりがない。


経営者の目線からその2。
従業員の質。

お客様は溢れ返っている。
たとえどんな劣悪なサービスを提供しようとも、
いますぐにでも介護施設を利用しなければならない状況にいる人たちはたくさんいる。
とにかくなんでもいいから預けたいというニーズが多いところにわざわざサービス(従業員=介護職)の質を高めようとは思わない。
だから給与を高く設定して質の良い従業員を使う必要は、ない。


その1、その2をまとめる。
非介護人(お客様)をどうにか預けたいと考える介護人(お客様)が溢れていれば、
わざわざ質の高い介護サービスを提供しなくてもお客様は向こうからやってくる。
そして、質の悪いサービスを提供していてもお客様が溢れているのだから従業員の質(≒サービスの質)を上げる必要がない。

最低賃金レベルで雇える人材を使っても十分に商売として成り立ってしまう。
だから、介護職の賃金給与はあがらない。あげる必要が無い。

「待機老人」が増えるほどに、介護職に求められる質は下がっていく。
質が低くても成り立つサービスに高給を出そうとする経営者はいないだろう。





付け加えるのなら、労働生産性の低い業種にしか付けない人材はいつの時代も一定数いるので給料が低くても介護職にしか付けない人たちも一定数出てくる。
わざわざ高い給与を設定する必要はない。

労働性差製の低い業種は、
「あなたが不満を口にするなら他の人はすぐに見つかる」確率が極めて高い。



ケアマネージャーになれば介護保険の分配という仕事が許されるようになる。
貴重な戦力になる。
しかし、たかだか介護福祉士では一般の人と許されることは変わらない。
一般人にゆるされなくて介護福祉士に許されている介護行為はない。
できるかどうかではない。
許されているかどうか。

介護保険の分配という業務はケアマネージャーにならないとできない。
介護暦5年の一般人にはできない。
しかし介護暦3年の一般人と介護福祉士とで非介護人に当てることが許されている介護行為なんてものはそんざいしない。


スキルは介護福祉士の方があるのかもしれない。
しかし、資格が保障してくれる権限において介護福祉士と一般人に違いはない。

「服を脱げない人の服を脱がせて着せる」
「寝たままのシーツ交換」

これらのスキルは介護福祉士の方が上かもしれない。
しかし、国から行政から、
「介護福祉士の資格が無いとこういうレベルの介護行為をしてはいけません」という権限は介護福祉士には与えられていない。
一般人にも全ての介護行為が認められている。




限定的な権限ない資格にはお金は払われない。
給与も高くする必要が無い。
なぜなら、資格があってもなくても何も変わらないから。








2014年12月介護報酬が引き下げられることが決定された。
介護報酬の増減は介護職の給与には、ほぼ反映されない。
介護事業の経営者には影響はあるのかもしれない。
しかし介護業界の従業員である限り、介護報酬の増減と従業員の給与の増減は相関も比例もしない。

その理由も上記が一旦。




 

■社会福祉法人の財務諸表問題


長谷川「保育士の賃金が安過ぎる。社会福祉法人に出している補助金がちゃんと保育士さんに払われているのか?代表のポケットに行ってるんじゃないか?」
アナ「それらは介護士にも同じことが言えるんじゃないか」
https://twitter.com/uganda_/status/429330446506131456


 それから、社会福祉法人の財務公開について。

 規制改革会議の要望を受けて、厚労省は「すべての社会福祉法人について2013年度以降の財務諸表を公表する」「公表が効果的に行われるための具体的方策について13年度中に結論を得て、14年度当初から実施する」という方針を決めた。

 さらに「12年度の財務諸表も公表するよう社会福祉法人に周知指導し、その取り組み状況を調査し、規制改革会議に報告する」「(都道府県など)所轄庁のホームページにも公表するよう協力を要請し、所轄庁の取り組み状況について調査、会議に報告する」とした。

 認可保育所の設置主体は社、会福祉法人である場合が多い。
 その社福には、補助金の形で税金が投入されている一方、法人税などが免除されている。税金面で優遇されているのは、社福が利益を社会に還元する建前になっているからだ。
 ところが、肝心の財務諸表はといえば、自主公開に任されている。

 これでは本当に利益が社会還元されているのかどうか、国民はチェックのしようがない。
 だから、財務諸表の公開が重要になる。

同族や家族経営の多い社会福祉法人こそ財務諸表を公開せよ

 社会福祉法人は実態として同族や家族経営が多く、事業の裏側には営利目的の企業があったりする。「ばく大な内部留保を溜め込んでいる」という指摘もある。

 そうなると、社会還元どころか「実は個人的な利益追求が優先されているのではないか」という疑惑が生じる。

 「そうではない」というなら、まず社会福祉法人自ら率先して財務諸表を公開すべきだ。

 彼らが「利益優先」と主張する株式会社は、上場企業であれば財務諸表を公開し、公認会計士による監査も受けている。
 税金優遇を受けているのだから、企業並みどころか、それ以上にもっと透明にすべきではないか。

 財務諸表の公開問題は、奥の深い所で「保育士不足問題」にも絡んでいる。
 それは、こういう事情だ。

 まず「保育所だけを増やしても、保育士が足りないから問題解決にならない」と指摘がある。だから、規制改革会議は保育士が増えるように、保育士資格試験で合格した科目の再試験免除期間を、3年から5年に延長するなど緩和策を提言した。

 それはもちろん大事だ。
 だが、実は保育士の免許を持っているのに、実際には保育所で働いていない「潜在保育士」が60万人以上もいるという推計がある。
(厚労省資料はこちら。PDFファイルです)

 彼ら彼女たちは、なぜ資格があるのに働いていないのか。

保育士の給与が低いのはオーナーの取り分が多いから

 理由の1つが、給料の低さである。それは4月1日の会議で議論になった。

 参考人「社会福祉法人の場合は人件費率が高いと言いながら、そこに占めるオーナーの取り分が高い。一般職員の人件費は株式会社でも社会福祉法人でも変わらない」

 委員「私はある会社の社外役員をやっていたが、そのときの経験で保育士は大変な仕事の割に待遇は低いと知った。すると運営費に占める(会社と社福の)人件費の差は保育士の給与の差ではなく、それ以外の方の人件費と理解していいか」

 参考人「それだけではないと思うが、大半はそういう要素が強い」

 別の参考人(大学教授)「私立の保育所で重要なのは肩たたき。『そろそろいいお婿さんがいるよ』と言って、早く辞めてもらう。それが人事管理の要諦。非常にいびつで人件費を歪めている構造がある。差額はどこにあるのかといえば、他のところでとっているのはあきらかと思う」
http://ch.nicovideo.jp/gendai/blomaga/ar258568


特別養護老人ホームや保育園などを多く運営する社会福祉法人(社福)を理事長が勝手に売り、多くの利益を得る例が相次いでいる。本来は福祉のための「非営利団体」で、個人が売買してはいけない。背景には、介護保険からの報酬や補助金をねらって社福を私物化する動きがある。
税金を食い物に 売買めぐりトラブルも
特集:報われぬ国
 「3億円で理事長ポストを買わないか。何回かに分けて現金で払えばいい」
 山口県下関市の会社社長(69)は2010年6月、横浜市の「朝日の里」の当時の理事長(75)からこう持ちかけられた。障害者施設などを運営する社福だ。
 「もう年だし、やめるつもりだ」という理事長は、数億円にのぼる朝日の里などの預金通帳を見せてこう言ったという。「理事長に就いたら自由に使える」「理事を身内にすれば、理事長を引き継ぐという形で決められる。現金でもらえば売買は表に出ない」
 この話は折り合わなかった。すると売却話は仲介者を通じて形を変え、東京都内の税理士と始まった。
 「朝日の里への参入及び継承プロジェクト」。そう記す資料には3段階の売却シナリオが描かれている。
 ①税理士が理事長側の希望する土地を所有する②税理士は4千万円を払い、(理事長側は)法人の理事1人、評議員2人の職を提供する③税理士が最後に1億円を払い、(理事長側は)理事長と理事2人、評議員1人の職を提供する。
 税理士は11年8月に理事になり、前後して6千万円が渡った。だが、その後の約束は実行されず、理事長になれないまま。そこで今度は税理士が金を回収しようと、社福の売却話を持ちかけて回っている。
 当時の理事長はこう話す。「みんな同じ穴のむじな。いずれは売却したいという話を聞きつけ、金の臭いを嗅ぎ取った連中が群がってきた。自分は『3億円』とは言っていない」
 理事長ポストを利用した社福売買は広がっている。インターネットでは、社福の運営権の取得方法を紹介するホームページもある。
 関東地方の行政書士は売買に十数回立ち会った。今年、首都圏の社福が数億円で売られた際には買い手の代理人として現金を渡し、引きかえに理事全員から辞任届を受け取った。仲介料は売買価格の5%だ。
 「社福は介護報酬などの収入があり、財産がたまる。施設建設には補助金が出て、税金もかからない。買い手は多い」と言う。(西井泰之、北川慧一)
http://www.asahi.com/articles/ASG5J6SZ2G5JULFA03M.html

2014年10月27日月曜日

反抗期がなかった理由(編集中)


 

◇心の病は第二の反抗期


親をコピーした存在から脱皮(自立)。
それが反抗期。
その反抗期を迎えられない、あるいは反抗期で脱ぎきれなかった親から受け継いだ価値観を脱がせる。
そのために心の病は現われる。






 

■反抗期に反抗する相手の不在


壁になる人物の存在。
子の反抗(成長)をスルーする親。
向き合わない親の存在。

どんなに強い反対でも良い。
自分にしたがわせようとする親でも良い。
子どもの反抗に対して何かリアクションを起こしてあげることが大事。
暴力でも良い。
お弁当を作らないでも良い。
反抗期は親と子がお互いに自分の正しさを主張しあって良い。

子は親を取り込んで思春期まで来た。
いわば親のコピー体。
そのコピーに耐えられなくなる。
ヤドカリのように自分の価値観にあった殻が欲しくなる。
親から受け継いだ殻はもう脱ぎたい。

そういう作業。
しかし、親も自分を否定されることに拒絶反応が起こる。
従順で、まるで自分の分身のように思っていた子供が自分を否定してくる。
それは簡単には受け入れられない。





子ども→
親←


→←←
→→←

力関係がどうあれ、衝突していることが大事。






  ←


→→


こういう状態では正しい反抗期(脱皮)を送れない。

 

心の病は反抗期の変わりに訪れる。
あるいは反抗期に足りなかった反抗(親の価値観からの脱出)を促進するために現われてくれる







親が発達障害を抱えていた場合も壁にはなれない。
反発しないのでベクトルがぶつかっている感覚を得られない。

そうした場合の意味においても、
壁になれない親の元で育った場合にもやはり適切な反抗期を送ることは難しくなるだろう。











■強固な壁でなければ子どもはぶつかっていけない

壁になれないor壁になりたくない親が増えている。
壁になれないのは子どもの心(価値観、感情)に関心が無いから。
療育が衣食住で済むと勘違いしているパターンが多い。

壁になりたくない親は幼い。
自分が子どもから嫌われたくない、だからご機嫌を窺う。
壁になれない。子供が安心して反抗できない。

親にはやるべきことがある。
たとえ自分が嫌われようとも悪役になろうともやらなければならない役割がある。
自分の事に視点が向いている大人は精神的に幼い。
自分の事が気になるから「嫌われたくない」という思いが先行する。

子ども(相手)の視点を優先できる精神性が備わっていれば、
自分が嫌われようとも子どもの成長に欠かせない反抗期、しっかりと壁になってあげようと覚悟できるはずだ。













ただ、このごろの若い人たちは親と異常に仲がいいんですよ。あれも気持ち悪い現象ですよね。反抗期がなく親子の距離が近いまま大人になってしまうと、より複雑になるんです。昔は子どもに反抗期が来て、その時期に親離れが済む。そして、自分が一緒に生きていきたい人を選ぶという感じだったのが、今では結婚相手すら親の意見に左右される。それはこれからの心配なところですよね。
http://www.cyzo.com/2014/10/post_19151.html


反抗期のない子供時を過ごすと、
自分を持っていない大人へと成長します。
まず、反抗期とは中学生あたりに生じる現象です。
そして、自分を持っていないとは
自分の意見がない、チャレンジする勇気や行動が取れない
また、自己責任を取ることへの恐れが強い等です。
アダルトチルドレンは反抗期がなかった方もけっこうおら
れます。
それはアダルトチルドレンの親子関係を考えれば理解出来
ます。
なぜなら、親が子供を抑圧支配しているからです。
親の子供に対する抑圧支配が強すぎると子供は親に反抗
出来ません。
いや、それ以上に反抗期以前に、親のすさまじい抑えつけ
により
親に自分を表現する力すら奪われてしまったかもしれません。
反抗期とは親の立場から子供を見た言い方です。
すなわち子供が自分達の言うことを聞かなくなったという
ことです。
しかし、子供は親を超えて、自分を培っていくものです。
したがって反抗期とは、子供の立場からすると
自立期なのです。
ですから反抗期は、自分を持った大人になるためには
必須の経験なのです。
https://www.facebook.com/permalink.php?id=285545461501148&story_fbid=452527411469618













>>
◎反抗期の激しさは、親が教えた「心の矛盾」に比例する

子どもはお母さんが大好きだ。
だから、子どもはいつも親の事を気にして生きている。
お母さんは元気?お父さんは機嫌がいい?
そして自分は親の役に立っているだろうか
親に必要とされているだろうか、と。
子どもにとって親は、
「この世界」で自分を守ってくれる唯一の存在である。
だから、大事にしたい、何でもいいから役に立ちたい。
笑顔を返す。
12才ころまでは
子どもは無心で親を真似て、生き方を学び、それにしたがっていく。
親を信じて疑わない。
すべては親が基準である。
それはやがて大人になって生きていくときの大切な心の基盤になる。
しかし、親も完璧な人間ではないから
気持ちの偏りや悪い心、嘘、辛い気持ち、間違った生き方を抱えている。
子どもはそういった親の「心の矛盾」もまた、無心にまるごとコピーする。
であるから、
もしも親の「心の矛盾」が大きいと
それを取り込んだ子どもは親と同じ苦しみを生きる。
しかし、苦しみを定着させてしまって耐えることに自分を麻痺させてしまった親と違って
子供は辛い生き方を辛いと感じる。だから、別の生き方を手に入れようとする。自分をいったん、壊す。
その過程で心の病が発生する。
もちろん、子どもは無理なことを教えられているとは気づかずに
それに従う。
彼らは親を信じているし
親に教えてもらった生き方以外はありえないからだ。
自分が我慢していることすら感じない。
だから、学童期に彼らが倒れてしまうことは無い。
例外的に、あまりにもストレスが大きく耐えられなくなると
それが身体のサインとしてでるのが
チック、ゆびしゃぶり、抜毛、慢性的な腰痛などである。
抱えこんだ心の矛盾は、しかし、
次の思春期になって爆発する



■親のツライ生き方が子を苦しめる
親からツライ生き方を引き継いでいると、自立は簡単には進まず
時に混乱し、心の病になる可能性もある。

例えば、両親の仲が悪くて母親が苦労していたとする。
子どもはいつも母親の心配をし
我慢だけの生き方を引き継ぐ。
すると子どもは新しい世界へ進みたい気持ちと
親のためにもっと我慢すべきだとの気持ちがぶつかりあう。
子は悩み、自分を責め、育ってきた家庭をうらむだろう。
また、父親から厳しくされて自分を押さえ込んできた子がいるとする。
不満が鬱積したままだと、やはり自立は難しい。
今までの我慢を晴らしたいが
一方では我慢が足りない自分を責め、
そういう生き方をさせた親に怒りが向かう。

■親の生き方に修正を迫る思春期の「心の病」

思春期のつまずきは
親からの自立を遂げられない苦しみである。
親が抱えていた心の矛盾が大きければ大きいほど、
子の我慢は大きく、自立には時間と労力を要する。
苦しい生き方を強いられた子は
思春期になって苦しみを訴え、
生き方を変えたい、助けて欲しいと親に迫る。
しかし、多くの親はその訴えを理解しない。
なぜなら、親は長い間続けてきた自分の生き方に
疑問を持っていないので
子どもが何を訴えているのか見当がつかないのだ。
子どもが「辛い」と訴えれば
親は自分の人生観から
「あなたは我慢が足りない」としか応えられない。
親から見ると、子どもはただ「わがままをいい、親に甘えて」自立していないように映る。
親は「そんな子に育てた覚えは無い」とイライラし
子どもは「親がいけないんだ」と言い返し、
親子対立は激しくなる。
子どもはわかってもらえない…と落胆し、
怒りの気持ちをどこに持っていったら良いか
わからなくなる。
そうして、彼らは最後の手段に訴える。
そう、それが「心の病」である。

一連の精神疾患、およびその症状的行動(リスカ、うつ、過食など)は
親から引き継いだ「心の矛盾」が子の中に生み出した「病」である。
と同時に、
教わってきた生き方を
修正するために子どもたちが
始めた抗議行動であり、
親子関係をみなすために
とったぎりぎりの手段である。

ここまでしないと、親は訴えを聞いてくれない。
振り向いてくれない。
子の苦しみは
親から受け継いだ苦しみである。
だから、親の苦しみでもある。
十数年間、無心に親に従ってきた子は
心の深いところで
親と一緒に治りたいと願う。
親が生き方を修正して親自身の苦しささえ取ってくれなければ
自分の苦しみも取れない、
と知っている

思春期は子どもにとって人生最大の危機ではあるが
それは同時に親子関係の危機でもある。
しかし、その危機を脱する過程で
子どもだけでなく、親も替わる好機がおとずれる。
<<
子は親を救うために「心の病」になる 高橋和己 筑摩書房






親子心理評論家:山崎雅保によると
●青年期に引きこもるのは反抗期がない子供が多い

反抗期がない男子は結婚しても上手くいかない傾向がある

結婚=親を裏切る行為→親と仲良しだと裏切れない

●2、3歳のイヤイヤの受け入れが反抗期と関係している

2~3歳の第1次反抗期は母親に最初に反抗する時期

反抗しても良いという事を分からせる事を、親も受け入れる事が大切
http://honmadekkatv.myblogs.jp/2013/11/13/%E9%9D%92%E5%B9%B4%E6%9C%9F%E3%81%AB%E5%BC%95%E3%81%8D%E3%81%93%E3%82%82%E3%82%8B/



反抗→自分を表現してもよい→自分の意見があってよい→親と違う自分(価値観、感受性、意見)があっても良い












>>
仲良し親子がいっぱいです。
親の言うことに逆らわないって、いいこと?
いつも、親の言う通り。
言いつけを守って、きちんと暮らしている。
挨拶もちゃんとできて、勉強だってまじめにやる。
お友達とけんかはしないし、人に優しくします。
でも
ほんとうに「自分にとって大事なことがわからない」
「親の意向と違う進路を選べない」
「親が思うようにしか、生きられない」
のが、25歳、30歳だったらどうします?
でも
ずっと実家にいてくれたらそれがいい。
それが幸せ。
死ぬまで子どもを側に置いて、ずっと自分の思うようにしていたら幸せ??
まさか、そんなこと思うわけない?

いえ、そういうことが冗談じゃないほどあります。
うちの子は反抗期がなかった
・・・それはいいことじゃありませんよ。
子どもは、自我が目覚めて、親と自分の考えの違いに気がつき、自分を形作っていくために親へ反発をし始める。それは「正しい成長プロセス」。
親には、ついこの間までなんでも話してくれて、かわいくて、甘えん坊だった我が子が、突然わけのわからない生き物になる「楽しくはない時期」ですが(苦笑)。
このとき、子どもを頭ごなしに押し付ける力強い親でも
子どものいいなりになる弱腰(または、子どもにすりよるだけの)親でも
反抗期は起こらなくなるかもしれませんけど
子どもは、精神的に親を殺して、一人前になっていくのだと言われています。
少し距離を置くのだなという合図なんだと思います。
<<
http://ameblo.jp/juno-career/entry-11770615121.html





反抗期が無い→反抗(反対・抵抗)は許されないと学習。自我の目栄えを摘み取られる→反抗してはいけない→相手をガッカリさせてはいけない→相手を過度に尊重し自分をナイガシロ→自分の意見、感情を持ってはいけない→断ること(相手を否定すること)=悪→防御力が非常に低い→言い人と言われていつかは苦しみが蓄積













13 名無しさん@おーぷん :2014/11/03(月)13:33:45 ID:MPvBRzITb
親は幼少の頃から俺に対して
使えない
使えないな
役立たず
 と手伝いをしてても叱ることが多かった

15 船に乗れなかった船乗り[ ] :2014/11/03(月)13:34:26 ID:C14M57lJg
>>13
こりゃ性格歪むわ

20 名無しさん@おーぷん :2014/11/03(月)13:42:23 ID:MPvBRzITb
行き過ぎた人に迷惑をかけるなも多かった
授業参観とか家庭訪問とか
 お前のために時間を割いて準備をするんだから、お母さん、この日にこういうのがあるから、時間を空けてくださいでしょ?迷惑をかけてるって自覚ある?
ってのとか、事あるごとにお願いをすると
迷惑をかけるな、迷惑をかけるなと怒られ続けた
http://alfalfalfa.com/archives/7619816.html

2014年10月26日日曜日

なぜEXILEは総選挙を行わないのか(編集中)





AKB48は皆 同じ歌を歌い 同じ振付で踊ります。違うのはポジションだけ
それに対してEXILE ボーカルと ダンスパフォーマーは分かれています。
http://blog.livedoor.jp/ksisite008/archives/1976361.html

テクニカルな理由は納得できる。
ジェンダー論として遊んでみたい。



結論としては→


「男性は自分たちの順位(序列)を自分たちで付けたい。
 外部から順位付けされるとマズいことが起こる」。














男性は自分で決めたい。

男性は自分たちで序列を決められる。
外から決めて欲しくない。


ヤクザの世界。
すべて内部の評価によって決まる。


男性社会と言えば一昔前の日本の多くの会社組織。

年功序列。終身雇用。
これらは男性にこそマッチしていた。



日本でも社外取締役の人数が法的に定められる雰囲気がある。
内部の順位によって自分たちで序列付けをしてきた男性的組織運営の崩壊を予感される。

外の風が入ることで男性による男性だけの集団は終わる。






たとえば、もし
「TAKAHIROさんがATUSHIさんより人気がある」という結果が数値で示されたとき、
EXILEの内部に良い影響があるとは思えない。

基本的に年功序列やキャリアを重んじる男性の集団において、
外部からの評価はむしろその集団の団結を削ぐことになりかねないと思う。





接待ゴルフあるいは社内コンペで誰が最も良いスコアでなければいけないか。
地位の下の者がスコアという客観的な序列で地位の上の者を上回ったらどうなるのか。
そういうことが起きたら誰が得をするのか。












女性=選ばれる性
選ばれた結果(選挙の結果)を受け入れることが出来る。

男性はそうはいかない。
年功序列。
年上の人が負けてしまった場合、年下の人のほうがむしろ辛い。
年上の人とどういう接し方をすればいいか分からない。
ジャニーズの総選挙でお年を召した昔のアイドルが今のアイドルに負けたらどうなるか。
今のアイドルはどうすればいいのか。




女性=若さは武器
男性=若さは弱点
卒業があるのは女性グループだけ。
脱退不祥事における卒業は男性グループにもあるが
未来のために卒業するのはほぼ女性グループのみ。→若い子は次々に生まれてくるから。




時間は男性の味方。




時の洗礼というのは、努力し続ける男の味方であり、女の敵なんですよね。
週刊金融日記(藤沢数希)
https://twitter.com/saying_massage/status/434888294082424832







・「自己定義欲求」は世界的に女性より男性が強い傾向がある
・女性は「占い」を好む⇒他人に定義されたい欲求が強い
    男性は人から決められる事に反発を感じる為、占いを好まない
・女性⇒口コミやトレンドの店を好む
    男性⇒自分が発掘した穴場の店を好む
http://shinzui.blog75.fc2.com/blog-entry-502.html




組織に居続けることにはしばしば多くのストレスが伴いますが、その中で頑張り続ければ、組織は(あらかじめデザインされた)目標に向かって努力する体験、挫折体験、成功体験を提供してくれます。自分の存在を認めてくれる人も周りにたくさんいますし、学年が上がれば自分が威張れる対象である下級生も入ってきます。今までの生活の中で、成功体験や他人に認められる経験、敬われる立場になる体験を渇望していた人にとって、この体験は強烈なものではないでしょうか。体育会系の組織は、個人では輝けない人、他の場所では輝けない人でも、きちんと耐え続ければ「辞めていく人もたくさんいるのに頑張っている自分」「下級生より偉い自分」「志を同じくする仲間がたくさんいる自分」「大会に勝ったチームの一員である自分」という自己肯定を得られる仕組みになっているのです。
http://d.hatena.ne.jp/kanedo/20100617/1276777583









 女性のと言うよりも、少女のと言った方がいいのかもしれないが、女性アイドルグループには、この卒業という行為がつきものである。それに対して、男性アイドルグループには基本的にそれがない。

男性アイドルグループと言えば、その代表はジャニーズのSMAPであり、TOKIOであり、今人気絶頂の嵐である。SMAPでは、かつてメンバーが一人脱退するということがあったが、それは卒業という形ではとらえられなかった。
SMAPの結成は、1988年のことで、すでにその歴史は24年に及んでいる。メンバーの年齢も皆30代後半で、中居と木村の場合には、今年40歳になる。それぞれのメンバーは、一本立ちできる実力を備えているにもかかわらず、グループを卒業していくことはない。それは、他の男性アイドルグループにも当てはまる。
 男性アイドルグループでは、解散ということも考えにくい。グループとしてある程度の歴史を重ね、一人一人のメンバーが個人として活躍できるようになっていれば、あえて解散の必要もない。むしろ、グループが維持されていれば、テレビのレギュラー番組も続き、グループの基盤は安定する。
 女性アイドルグループは、そもそも、それほどの永続性をもたない。一時期は高い人気を誇っても、どこかの時点で解散し、消滅していく。
http://agora-web.jp/archives/1443126.html






心は成長しない。



人間の心は、大人になっても成長しない。
心は10歳前後で成長が止まる。

10歳前後までに、どうやって心を”育てて”もらえるか。

自分で心を育てることは残念ながら、出来ない。
悩みや葛藤を溢れ出さずに注ぎ込める容量を持てるかどうかは、
心を育ててもらえるかどうかに掛かっている。








器(心)の中で処理しきれなくなったものが身体の症状(痛み)として出てくる。


症状がでるということは、【人生の苦しみ】を症状、という形に変えている。カウンセリングをすることは、症状の苦しみを【人生の苦しみ】に戻すことになる。よく誤解されがちだが、カウンセリングを受ければ幸せになれるというものではなく、【カウンセリングは人生の苦しみを突きつけるものである】。
カウンセリングとは悩みを消し去る手段ではない。カウンセリングを通して自分の心の声を聞き、それによって解決へとつながっていくのである




では、心の器はどのようにして個人差が出来上がるのか。
悩みや葛藤は誰もが抱き、誰もがもがき苦しむ。
「人間は生という病気にかかっているのだから、生きていることは辛いに決まっている」みたいなことを昔の人は言っていたが、心の器の中で対処出来てしまう人と、器から漏れ出して身体にも処理を頼むことになる人の差はどこにあるのだろか。




器は10歳くらいまでに完成する。
自己肯定感、共感で構築される。
何もできない自分でも認められる年齢を過ぎてから、器の大きさのプラスになる自己肯定感が育つことは無い。

大人になってからできることは器に入る痛みを和らげること。(NLP、リフレーミング、物事の受け止め方を改善、対人関係療法など)
痛みを解放してあげる(趣味、カウンセリング、良い人間関係)


人間は成長していくにつれて技術を身につけることは出来る。
つまり、入ってくる痛みを技術によって軽減すると言う対処法を身に付けることは可能である。
しかしながら、心の器の大きさ≒自己肯定感は、成長することは無い。
10歳前後で確実にとまる。(自己肯定感については諸説あって2歳まで3歳までとか6歳までとか、いろいろ読んだ。個人的には小学校4年生くらいまでは社会的成功を意識せずに生きていけると思っているので10歳前後まで可能だと結論付けた。テストの点数がいいとかカケッコが早いとかいうことを自己肯定感のプラスに出来るのはこのあたりまででは)
10歳前後からの社会的な成功によって得られた自己肯定感は心の器には寄与することはない。


「私は愛される存在なんだ」「私は愛されない存在なんだ」という前提条件の持ちようで世界は大きく変わっていき、人間関係も大きく変わっていく
そして、そのどちらに進むかは、10歳前後までに決まる。
このときまでに染み付いた「私は愛される存在なんだ」という感覚は死ぬまで続いていく。
「愛される存在」として他人とあるいは自分自身と接することになる。
もちろん、染み付いた「愛されない存在」という感覚も死ぬまで続いていく
この「愛されない存在としての自分」は社会的な成功によって、富や名声を得て、周りに人が溢れるようになって友達や恋人ができたところで、「愛されない存在としての自分」という感覚は「今の自分は愛される存在だからこそ回りにたくさんの人がいるんだ」とはならない。
10歳を過ぎた後にどれだけプラス材料を整えようとも、「根本的な自己肯定感=愛される存在か否か」には寄与しない。










>>
幼少期からの自己と他者とのずれ、その個人の生来の主張とも言うべきものと他者のそれとの
ズレであり、それはどんな個人においても他者との間に存在しているものである。
むしろ、そのようなズレをも含んだ両者の作り出す関係性から、自己感覚と他者感覚が織り成され、
その個人の生きる能動性が生み出されていくものと筆者は考える。
しかし、そのズレが大きすぎる場合、
あるいは一方もしくは双方がそのズレから生じる情緒(空虚感・無力感や怒り)に
耐えられない場合に混乱を来たし、時にはどちらかを抹消せざるをえないことにもなる。
つまり、自己と他者のズレは無力感・空虚感や怒りの情緒を生むが、
それらの情緒が双方の間に共有され抱え込まれるのならば
両者の関係性は生産的なものとなり、自己感覚や他者感覚を織り成し、能動的に生きていくエネルギー源になる。
しかし、情緒が双方を圧倒するのならば、
関係性は破滅的なものとなってしまい、お互いのズレを認知しながらも
自己感覚や他者感覚を育み、生きていく培地とはならないのである。
その結果、その個人が持っているであろう情緒を実感し言葉に表現することができず、
自己ならびに他者を見失ったまま、あるいは殺したまま受動的に生きていかねばならなくなる。
このように、自己と他者とのズレを認知し、それをめぐる情緒が個人の内のものとして
実感し言葉にできるかどうか、つまり、情緒を抱える”器”(capacity)としての
自我機能が自己と他者との関係性(情緒的コミュニケーション)の中で
その個人に育まれており、自己感覚や他者感覚が形成され、
自己の能動性が持てているかどうかによって、
精神病ーパーソナリティ障害ー神経症(健常)のスペクトラムを見、
パーソナリティ障害を捉えることができるのではないかと筆者は考えるのである。
<<
(パーソナリティ障害の精神分析的アプローチ 松木邦裕・福井敏  金剛出版)

2014年10月17日金曜日

「誰でもよかった」という照れ隠し


 

◇誰でも良かった=特定の相手に自身が認めたくない執着心を抱いていた



埼玉県入間市の路上で15日夜、女子大学生が刃物で刺し殺される事件があり、県警捜査1課などは16日未明に出頭してきた同市豊岡5の私立大2年生、沼田雄介容疑者(20)を殺人容疑で緊急逮捕した。「誰でもよかった」「(女子大生のアルバイト先の)コンビニから後をつけた」などと供述しており、同課は経緯を調べている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141016-00000035-mai-soci





■「誰でもよかった」=「その人でないといけない」



今回の事は、心理的な幼さが招いた悲劇なのではないかと推測した。
殺人を犯した彼は「好意(感情)の発露方法」が分からなかったのだと思う。


抱いてしまった好意をどうすればいいのかわからなくなった。

幼稚園児や小学生、中学生くらいまでなら行為がある相手にイタズラをする。
そういうレベルの「好意を持っている自分へのどうにもならないもどかしさ」を通過せずに20歳まで来てしまったのではないだろうか。





「誰でもよかった」は「その人ではないといけない」と同義だ。
すなわち、彼は彼女が好きだったのだ。
誰でもよかった、というのは好意的にみれば照れ隠しなのだ。
自分の中にある好意を認めなくない。
認めてしまえば叶わない好意であることを理解できてしまう。
そのときに心を守るために「誰でもよかった」という方便が彼の心をかろうじて守ったのではないだろうか。







自分の中にある感情に自分で名前を付けれない。
自分の中に渦巻いている感情の出所はどこにあるか、何に起因しているのか推し量れない。
そして、感情の処理の仕方が分からない。




好意を伝えられないもどかしさ
好意を持っている自分へのもどかしさ
幸せそうな人への妬み
輝いている人への妬み
自分に向けられない笑顔への怒り
好きな人が幸せそうにみえると感じる怒り



…推測の域を出ないが、このような種類の「好意を持っている自分への恥ずかしさの噴出」が
最悪の形として現われてのではないだろうか。







未熟な心の成長度
感情処理の経験に欠しい
漠然とした自分の人生への恨み。

そうしたものが絡み合っていたのかもしれない。




近年の「誰でもよかった」といえば本当に誰でも良いケースが多かった印象がある。
しかしながら今回の事は知りえる情報を総合して考えてみると「特定の人物」「計画的かつ衝動的」だといえると思う。



人の思いは直接伝えなければ伝わらない。
ある人と仲良くなりたければ、それなりの戦略と礼儀そして拒絶されるリスクを考える。
人生にはどんなに願っても自分の思い通りにならないこともある。
自分に振り向いてくれない人がいる。



こんな時代だからこそ「失敗」「(社会からの)拒絶」はなるべく幼いうちに経験しておくべきなのだと思わせてくれた事象だった。













あとは、まあ彼の食生活が気になるかな。
現在の体系は不明だが卒業アルバムを見る限り少し肥満美味の印象。

低血糖症由来の衝動的な行動だとしたら残念だ。

2014年9月21日日曜日

パニック障害の緊張に向き合う







パニック障害の原因、根本には生来の生き方が大きく関連している。
パニック障害を患う人の多くは大いなる緊張感を常に持ちながら生きる生き方がある






◇持続する緊張がパニック障害の原因




緊張は、誰でもする。
大事な場面の前の日あるいは直前、
パニック発作を起こす人も少なくは無い。

ただ、パニック障害と呼ばれるような状態すなわちパニック発作の頻度が高くなってしまう。
そういう特別に緊張するイベントが無くとも発作がおきてしまうケースには共通点がある。


それは抑圧である。



 大いなる緊張は抑圧によって生まれる。

理性で感情(感覚)にフタをする。
そこにあるものをないものとして扱う。

不安
寂しさ
恐れ
緊張…

こういった、あるもの(感情)をないもの(理性)として扱う。
理性でもって(自分のルールの中で)感じてはいけない感情を無かったことにしてしまう。
それが抑圧だ。

湧き上がってくる感情を理性で必死に押さえ込もうとすることの緊張。
その緊張がパニック発作を起こさせている。









--------------------

以下、「心をはなれて、人はよみがえる―カウンセリングの深遠 筑摩書房 高橋 和巳」を一部抜粋



5 パニック障害のパラドックス


■暗いトンネルの発作

「不安」という感情は人が危険を察知するために発達させた、もっとも感度の高い認識である。
これを理性で制限し続けると、パニック障害という病気を引き起こす。



パニック障害という病気は、生活の中の小さな「不安」情報を感じる事を制限、棚上げしてきた結果生じるものである。
たとえて言えば、この世に不安などあろうはずがない、頑張っていれば大丈夫なんだ、人生に心配なんてないんだ、と
自分に言い聞かせて生きてくると、ある日、突然、
「あーっどうしよう、このまま死んでしまったら…」と、それまでたまっていた不安が一気に流れ出してきてパニック発作になるのだ。




■パニック障害の治療の仕方

上野沙苗さんは、二十四歳の大学院生
ある日、通学の電車に乗っている時に、パニック発作を起こした。
その後、しばらくは電車に乗れなかった。




抗不安薬の効果は確実で、多くの場合、発作の頻度は下がり、症状は軽くなる。
薬を飲んで電車に乗る、ということを繰り返していると、
次第に慣れてきて、そのまま発作を忘れていくことも多い。
また、小さな発作がくすぶって長く続くときもある。
いずれにせよ、患者さんにとって抗不安薬は「お守り」である。



認識の拡大という心の治療から考えると、不安は押し殺してはいけないのだ。
制限を続けるのではなく、逆に「不安だ!」と感じること、
「いろいろな不安なことってあるよね。そういうときは嫌だな」と思えることが治療である。
だから、薬で発作を止めるだけではなく、並行して「不安をちゃんと感じる」、「不安について語る」ことが不可欠だ。
その精神療法を行っていくのが根本的な治療である。





■「怖いよ!」と言えなかった頃

沙苗さんは、小さいときからずっと真面目な優等生であった。
大学生の時、初めてパニック発作をおこした。

一時は通学も難しいほどだったが、薬で発作はだいぶ軽くなった。
今は薬を飲みながら通学している。

しかし、発作が完全に消えたわけではない。





「そうですね。
 ところで上田さんはどうしてパニック障害になったのか考えたことがありますか?」

「えっ、…原因があるんですか?」

「…」

「普通はね、ずっと緊張して生きてきて、小さい子どもの頃に「怖いよ!とか、「助けて!」とか言ったことの無い子が、
 大きくなってパニック障害になるんですよ。パニック障害になったのか考えたことがありますか?
 ずっと不安を我慢して緊張していたのが原因といえば、原因ですね。」


沙苗さんの家庭環境について簡単に述べておこう。

家庭は裕福だった。
両親ともに穏やかで、何事についてもきちんとしている家庭だった。

しかし、少しその度が過ぎていたようだ。

家庭の中の緊張はいつも強かった。
母親はどこかいつもピリピリしていた。
その緊張は忙しい夫の仕事のせいであろうか。
祖父母との二世帯住宅が影響していたのか。

両親とも、目立って仲が悪いと言うことはなかったが、
母は父を遠ざけていたようだった。



「ずいぶん前に先生は、私は緊張の強い家庭で育ったようだとおっしゃっていましたね。
 最初は言われて、ぜんぜん意味が分からなかったのですが、いろいろ思い出してきて、そうかなと思えてきました。
 私って誰かに『こわいよー、たすけてー』って言ったこと、多分ないんですよね。」

「そうですね。誰かに、って言うか、小さいときは、普通は一番近くにいるお母さんにでしょうね。
 あなたは言わなかったのかな?たぶん、真面目すぎたのかな? そういう子は言わないからね」

「そう、真面目すぎたんです」と沙苗さんは笑った。

「この間、母と父が、祖母の介護のことで話し合っていたんです。
 けんかしているわけじゃないんですけど、母はすごくピリピリしていて、父は不機嫌そうでした。
 私はそれを聞いていて、フーッとめまいがして不安定な感覚になってしまいました。
 すごく嫌な気持ちになって『ああ、この感覚って小さいときからあったな』と思ったんです。
 私の我慢してきたことってこれだったのかと…、
 家の中の緊張がわかりました」




家の中が緊張していれば子どもは遠慮して不安を口にしないものだ。

両親の不仲を子どもは敏感に感じ取り不安に陥る。
しかし、それは口にはしない。

人が「怖いよ!」と言えるのはじつは安心したときである。

怖い目に遭ったときは、夢中で逃げる、緊張する、対処する。
そこから逃れて後、ほっとして「ああ、怖かった!」と言える。

家庭の中がずっと緊張していれば、子どもはずっと「怖いよ!」とはいえない。

成長して、少し緊張が緩んだ頃に「怖かった」と言えるのだが、
その言葉を知らない、言い方を知らないので、いきなりパニック発作が出る。
そして、「怖いよー」と言えると治っていく。

治療の中で恐怖を味わい、それが消えていくことを体験する。
不安とその消失の経過を何度か繰り返して体験すると、不安なことってあるな、
でも、そんなに長くは続かないかなと思えて、
不安情報の制限は解除される。




■不安を認めると不安が消える

不安という感情は
危険に対する敏感な予知情報である。
その人の人生でパニック障害た起こる時期にもまた意味がある。

不安発作は
「もう、いままでの生き方のままで緊張し続けてはいきていけない。
 そろそろ緊張を和らげようよ。生き方を変えようよ」と言うサインである

このサインが出たということは
危機が少し去り、ちょっと安堵したときである。
発作発現の意味を考えずに
ただその症状を消そうとするだけでは
制限を続ける逆向きの治療になってしまう。

不安を抑えるのではなく「不安はあるんだ」と認識できると不安は小さくなる。
正確に認識できると、認識の制限が解除される。
認識の拡大が心を楽にする。
そして、不安を制限する小さい心からはなれる。





ある時、彼女はこういった。
「ちょっと後ろめたいけど、もう両親のことに首をつっこむのをやめた。
 楽になりました。」
小さい頃から両親の間に入って夫婦仲をとりなしてきた自分の役割を終わりにしたのである。

心、身体を問わず「症状」の発現には意味がある。
お腹が痛いときに原因を調べずに
鎮痛剤を飲んでしまったら危険だ。
痛みの原因はガンなのか、胃炎なのか、必ず理由があるはずだからだ。

痛みは身体が発する、とても鋭敏で大切な情報である。
抑圧したり、制限してはならない。

同じように精神科の心の症状にも意味がある。

不安には不安の意味があり、
鬱症状にはその原因がある。

身体の症状はどこかで機能不全が起こっているという
警告信号であり、心の症状は制限された認識が限界を知らせている警告信号である。
その意味を正確に読み取り、対処できると
身体の機能は正常に戻り心は広がる。



---------------------------抜粋修了。






 

■感情を出しても良い雰囲気があったか



家の雰囲気が悪いのは子供せいじゃない。


両親の仲が不安定なことは子どもの心に強烈なダメージを負わせる。
ケンカなどの表立った仲の悪さだけではなく、
ビジネスライクな間柄が見え隠れすると、それだけで混乱し動揺してしまう。

テレビで見る、周りにいる家族にある温かさのようなものが家庭に無い。
けんかはしないがお互いがお互いの人生に干渉しないような関係。
夫婦は所詮他人であるが、まさに他人同士が子どもには判らない共通の目的を持って同じ家に同居している感じ。

そのことを子供がどうこうできるわけもないし責任も無い。


父親が母親を愛せないのは子供が悪い子だからではない。
母親が父親を愛せないのは子供が悪い子宝ではない。
子供が良い子になったからといって、両親がお互いを愛し合える能力が上がるということは、
残念ながら、無い。
もちろん、そういうファンタジーが子どもの心を守れる時期もある。
しかしそれはやがては害になっていく。



両親が子どもに愛情を注げないのは
子供が愛するに値しないから、ではない。
ダメな子だから愛されない、のではない。

ただ単に、親側に愛する能力が無かったのだ。
しかし、そのことを子どもはわからない。
大人はそれぞれに事情を抱えて生きている、など、子どもにはわからない。
周りの人と同じように、両親は子どもを愛すものだと思ってしまう。
しかしそれが自分だけには与えられない。
なぜなのか。

そういうことも緊張を生む。

両親あるいは家族全体を取り持てない無力感。
緊張状態をどうにか解消しようとする緊張。
安らげる場所であるはずの家は不安の種。


広い意味で両親側に子どもを育てる能力が無いだけなのに、子ども側い欠陥があると思い込まされてしまう事例は無数に隠されているのではないだろうか。



そして、家の中が緊張していれば、子どもは自分の訴えを行わない。

寂しさ
不安
今日、嫌だったこと
褒めてほしいこと
悔しかったこと…

これらを言い出せる雰囲気かどうかは、子どもにも十分に分かる。
そしていつしか、大人側の技量が無いだけの話なのに、子どもは自分の責任にしてしまう。

「私の訴え(感情)など取るに足らないことだ。
 私の訴えなど誰も聴いてくれない。」

感情、とくにマイナスの感情は誰かに聞いてもらい共感してもらってはじめて消化できる。
大人でも誰かに聞いて貰わなければラクになれないときがある。
それくらいに不の感情はダメージ力が高い。

それを子どもの心で、子ども達は消化不良のまま抱えていくことになる。
そして、両親との関係の中で、自分の事を伝えること、あるいは伝えたことで、良いことが起こったためしがないと、何も言わなくなる。
どういう風に伝えれば良いのかわからなくなる。

そうしている内に頭(理性)が心を守ろうとする。
マイナス感情などないことにしてあげよう、と理性が助け舟を出す。
溜まっていくマイナス感情に対応するために。

マイナス感情が存在してしまったら、それは消化不良でドンドン溜まってしまう。
溜まっていくことを防げないのであれば、もう入り口で止めちゃえ、と。

マイナス感情などどこにも存在しない。
あるいは、奥底に眠らせておこう、と。

この助け舟は抜群の効果を発揮する。
ただその理性の副作用が大いなる緊張。
ちょっとでもマイナス感情を感じてしまいそうになったら真っ先に常に出動しなければならない。

そうした常に緊張をすることを生き方のベースに据えることで自分を守ってきた。
その限界が近づいていることを教えてくれるのがパニック障害、なのかもしれない。






 

 

■感じないようにする努力が緊張の大元だった


誰でも緊張するときはあるだろう。
大事なプレゼン、試合、挨拶、あるいはその前日のベッド。

ただ、パニック発作につながる緊張は24時間続いている。
その持続する緊張はその人の行き方の根底をなす。


根底を無し、あるときは、その緊張が自分を支え守ってきた。
必要な緊張だった。
自分の感情にフタをする。
自分の感情を無視して必死に理性を働かせ、平気なフリをする。

そういう生き方が必要な時期もあった。
何も間違っていなかった。


パニック発作、パニック障害は、その緊張を自分の生きるルールにしてきたことを
ストップする時期なのだと教えてくれるサイン。

そこにある感情。
底に沈めてきた感覚。

それをあるものとして扱っていくことが、治療になる。

緊張をしないことがゴールじゃない。
不安を無くすことがゴールじゃない。

それらが、自分の中に存在しているのだと認める。
それらを感じても良いのだと自分を許す。

そのことがパニック障害の心理的治療の重要な柱。

そして、感情を大事にすること。
それは自分を大事にするということ。

感情的になれということではない。
わがままに感情をぶちまけろということではない。

表に出さずとも、内側にわいてくる感情はしっかり湧き出させてあげること。
そこにある感情の存在を否定せず認めてあげる。


それが感情を大事にするということ。
自分を大事にするということ。















 

■パニック障害と副腎疲労


パニック障害を身体面から説明しようとすれば「ホルモン」と「血糖値」というワードがあがる。
緊張や不安、恐れはアドレナリンとノルアドレナリンの分泌を促す。



そして、アドレナリンとノルアドレナリンの過剰分泌は副腎疲労という病態を生み出す可能性もある。


甘いものが常に手放せない
アルコールが必要
便秘
月経前症候群
起床時に強烈な疲労感
不眠

このような症状がある場合には、パニック障害がもっと進んだ副腎疲労という病態の治療も必要になってくるかもしれない。





















-----------

以下、「対人関係療法で治す 社交不安障害 自分の中の「社会恐怖」とどう向き合うか 水島広子 創元社」より一部抜粋



■不安反応



恐怖する状況に直面すると
社交不安障害の人には「不安反応」と呼ばれる反応が起こります。

まず、主観的な不安を感じます。
その焦点は…

①他人にじろじろみられるのではないか(観察されたり、さらしものになったりするのではないか)
②恥をかいたり侮辱されたりする結果になるのではないか
ということです。

自分が何か馬鹿なことを行ったり、うまく離せなくなってしまったり、固まってしまったり
大失敗をして評判を損ねたりするのではないかと想像することもあります。

つまり、社交不安障害の人の不安の本質を簡単に言うと
”人からのネガティブな評価を恐れる”ということになります。

「人から批判されるのではないか」と明確に自覚していることもあれば
単にあいまいな不安として感じていることも少なくありません。

社交不安障害の人は一般に「自意識過剰」などと言われるものですが
ネガティブな評価という面でのみ敏感な「自意識」を持っていると言えます。

そして「自意識過剰」と言われることもひとつのネガティブな評価ですから、
「自意識過剰」と言われないように、と自意識過剰になる…という悪循環に陥っていきます。

主観的な不安のほかに、身体症状が起こることも多いです。
たとえば、発汗、ふるえ、胃腸の不快感、下痢、筋肉の緊張、赤面、
ほてり、足の冷感などです。

身体症状の著しい例としては、先述したパニック発作
(動悸や生き苦しさなどが起こり、このまま頭がおかしくなるのではないか、
 本当に死ぬのではないかと思うような発作)が起こる人もいます。

パニック発作だけではなく、
身体症状は全般に、その状況における不安を増すことが多いです。

「相手とのやり取りのなかで自分が恥ずかしいことをしてしまうのではないか。
 その結果とてい相手からネガティブな評価を受けるのではないか」という「本来の」不安以上に
「不安反応としての身体症状が他人に気づかれるのではないか。

その結果として相手からネガティブな評価を受けるのではないか」という不安に焦点が当たることになります。

何と言っても、身体症状は目に見えるものですし
基本的には自分でコントロールすることではありません。

ですから、社交不安障害の人が身体症状をとても気にするのも当然の事であると言えます。
そして、一般に、不安反応を気にすればするほど、
不安が強まり、不安反応そのものもひどくなる、という悪循環が成立します。

身体症状は、不安によって自律神経系のバランスが変わることで起こります。
簡単に言えば、その状況を「危険」と認識したときに生物としての人間に起こる反応に過ぎず
本来はその「危険」から逃れるために身体の機能を集中させるシフトなのです。

身体症状そのものに病的な意味があるわけではありません。
ポイントは、その状況を「危険」と認識した、というところにあります。

わかりやすくいうと
「危険」に対する不安反応そのものは適切だけれども、
「危険」のセンサー(感知器)が少しずれてしまっている、という感じなのです。
本当は危険ではない状況なのに「危険」というセンサーが働いてしまって、
身体が「危険対応モード」になってしまうのです。

例えて言えば、キッチンの火災報知機の調整がずれてしまって、ちょっと魚を焼いただけなのに
サイレンが鳴るというような状況です。

このときの修理方法としては
サイレンがならないようにするのではなく、
センサーを調整するはずです。
本当の火事の時にサイレンがならないと困るからです。

社交不安障害も同じことであり、
対人状況を「危険」と感じるセンサーを調整することが適切な対応になります。
つまり、本当は危険ではない状況に危険を感じなくなるにつれて
だんたんとおさまってくるのです。

サイレン(不安反応)が修理を必要としているわけではない
と考えると分かりやすいと思います。
なお、不安反応、特に身体症状はその状況を寄り危険なものに感じさせることが知られてます。

たとえば、人前で話そうとすると頭が真っ白になる、というような症状を持つ人は
「だから人前で話すことは恐ろしい」と思うのです。
でも、キッチンの火災報知機にたとえてみれば
魚を焼いたらサイレンが鳴った、「だから今起こっていることは火事なのだ」
と思っているのと同じ事になります。
繰り返しになりますが調整するべきはセンサーの方なのです。
人前で話すことの「危険度」を実際に試してみながら検討していけばよいのです。

ちなみに、なぜ頭がまっしるになるのかと言えば、恐らく、
強すぎる不安の感情から心身を守るためではないかと思います。
その状況に踏みとどまっているとストレスが強すぎるようなときに
よく頭は「真っ白になります」





■不安を感じなくなること、が目標ではない



社会不安障害の人は
「不安さえ感じなくなれば、何でも出来るのに」
と思っていることがあり、治療においても
「とにかく不安をなくして欲しい」と求めることがあります。

対人関係療法においては少なくとも
「不安させ感じなければ何でも出来るのに」ではなく
「ある程度の不安を感じながらも」何かをすれば、
それが結果として不安を軽くすることになる、ということです。
そうは言っても不安が強くなりすぎて自分が壊れてしまうのではないか
と心配かもしれません。

不安反応、なかでも強い身体症状は大変厄介なものですが
短期的にどれほど強い不安を感じようと、
そしてどれほど著しい不安反応が起ころうと、
それは深刻な結果に繋がるわけではない、ということを知っておくのは重要です。

たとえば、パニック発作で実際に命を失った人はいません。
また、目まいを感じ、気を失うのではないか、と思っても、実際に気を失ってしまう人は
めったに居ないのです。

万が一、気を失ったとしても、その後に起こることは想像していたこと
(こんなところで気を失ってしまうなんて、なんて恥ずかしい、気の小さいヤツなのだと思われる、など)
とは全く異なり、必ずしも破滅的な結果に繋がるわけではないのです。

(不安が強まって気を失ったと解釈する人はあまりおらず、体調が悪かったのだろうと気遣ってもらう程度でしょう)


身体症状そのものは危機にひんしたときの自律神経の反応と言うふうに考えると理解しやすいです。

「この状況は危険だ」というセンサーが作動すると自動的に出てくる反応なのです。
治療を通して調整していくべきものはセンサーのほうです。
そして、危険を感知したときに自動的に出てくる反応のほうは
本来は自分を守るために備わっているものであり
自分に害を与えるためのものではない、ということを
常に頭に置いておくことも安心に繋がるでしょう。


----------------抜粋終了

2014年9月20日土曜日

愛情を恐れてしまう理由




◇「愛情をあきらめる」という我慢が緊張を生む




愛情を向けられることに嫌悪感を感じる。
そこには悲しい過去がある。
両親との関係だ。
両親からの愛情をあきらめ、愛情を諦めて生きて行こうと決心したときから、ずっと愛情が怖くなる。

そして、愛情を締め出そうとする規範、努力が強烈な緊張を生み出す。
その緊張は24時間365日、解ける事は無い。

「二度と愛情を受け取るまい」と自分の心の鍵を頑なに閉め続けようとする我慢がある。










 

■愛情を期待しないという緊張


愛情はあきらめた。
あきらめるという緊張を自分に強いた。

そこをベースに生きる。

自分は愛情を受け取るにはふさわしくない存在だと定義してしまう。
すると、愛情を向けられると怖くなる。
一度、それを受け取ってしまったら生き方が変わってしまうからだ。


もう戻れない。
我慢をずっとしてきた自分には戻れない。


愛情が枯渇していると感じること。
それよりも、愛情を絶対に受け入れないぞ、という緊張を自分に強いていることによるダメージが大きい。

愛を伝えること、自分を伝えることの拒絶の予想。
自分の訴え、気持ちを共感してもらえないと言うあきらめ。


 





■両親側に愛する能力が無い≠愛されない存在


それは大人側(両親)の問題であって本人側の問題ではない。
本人が愛されない存在ということではない。

たしかに親は愛情を注がなかった。注げなかった。
それとイコールで愛されない存在と結語するのは正しくない。

両親側に子どもを愛する能力、
あるいは子供が欲しい形の愛情を与える能力がなかった

ただそれだけなのだ。

それを「自分が駄目な人間だから愛情を与えてもらえないんだ」と子どもは思ってしまう。
「自分が悪い」と思っている間は、自分の努力によって両親の愛情を引き出せる可能性が数%でも残るからだ。
それは、大きな間違いだ。







■心理的虐待の意味


愛情を向けられることが恐いままに自分が親になってしまった場合、連鎖が起こってしまう。
親になったときに赤ちゃんを恐怖に感じてしまうのだ。
最悪虐待に。
どういうことか。
赤ちゃんは愛情そのものだ。
動く愛情。

赤ちゃんは完璧に愛情を求め、愛情を与える。
その圧倒的に完璧な愛情を与えられることに恐怖を感じて赤ちゃんを遠ざけてしまう。
脅威を追い払うようになりふりかまわない行動に出てしまう場合もある。



 




■衣食住だけでは子どもの心は満たされない


療育には二つの側面がある。
物質と精神だ。
物質は物資。衣食住、教育。
精神は気持のコミュニケーション。

子どもが両親から最も望んでいるものは無条件の肯定的関心


わかって欲しい気持ち、してほしかったリアクションがことごとく得られない。
そのことが、やがて「私の話、私の感情など大事にされるものではないんだ」と自分を大切にしようとする心持ちが育たないまま、大人へと向かってしまう。



 



 

■心理的交流が無い≒心理的虐待


心理的交流の皆無。
これが決定的に心の成長を阻害する要因になる。


気持に共感してもらえなかった。
話を聴いてくれない。
忙しそうにしていて、自分に時間を遣ってもらえなった…

そういう経験をすると人は、
「私は大切にされない人間なんだ。私は大切にされるべき価値が無い人間なんだ」
親からの理解、共感、愛情をあきらめるようになる。
そのあきらめが、緊張を生む。


 

■愛情の大きさに恐怖は比例していく


向けられる愛情が大きくなること。
それは脅威。

愛情が怖い。

もう一生、愛情を受け取らないと自分を律して生きてきた。
両親からの愛情を期待しないことで自分を保ってきた。
その生き方を、他の人からの愛情が揺るがす。
愛情を締め出すことを人生の大前提に据え自分を律し、
常に愛情の受け取り口を硬く硬く閉じようと努力してきた。
長年、採用してきた、そういう生き方を壊そうとする人がいる。

愛情を与えようとする人の存在だ。

我慢を必死に採用してきた生き方にタガが外れてしまったら、
どうやって生きていけば良いのか分からなくなる。

本当は、欲しくて欲しくて溜まらないもの。
必死で抑圧してきた。
自分の中にあるそういう欲望が浮き上がらないよう、常に押し返してきた。
けれど、感覚は本当は知っている。
脳はそれを拒絶しようとするが、感覚はそれを求める。









■無いことよりも締め出そうとする緊張が辛くする


愛情が枯渇していること。
愛情で満たされていない自分。
たしかに辛いことだ。
幸せをもっている人たちが羨ましくて憎い。

けれど、ね。

本当に自分にダメージを与えているのは愛情が枯渇していることではない。
愛情を締め出そうと自分を徹底的に緊張させ1秒1秒生きていること。

愛情を締め出そうとするエネルギーが身体を疲弊させ、心をボロボロにしていく。
両親は愛情を与えてくれなかったかもしれない。
だけど、だからといって、愛情を諦め続ける必要はない。
なぜなら、他の誰かは貴方を愛してくれるのだから。

愛する能力がある人は、あなたを愛したいんだ。

そして、愛情を受け取ることは、愛情を与えることにもなる。
もう、愛情を諦めなくていいんだよ。













--------------------------------------------------------



以下、「消えたい: 虐待された人の生き方から知る心の幸せ 高橋 和巳 (著) 筑摩書房」より一部抜粋。





■子の気持が見えなかった母親



心理的虐待は子どもの心の中に奇妙な、矛盾した母親像を作り出す。
彼女は、いつも怖い母親だったと振り返る一方で、
「食事もお弁当も作ってくれた」「叱られたことはなかった」、
だから母親は優しい人だった、と言う。
母親は怖いという冷たい距離感と、母親は優しいという思いとが同居する。
心理的虐待を続ける母親が、子どもに優しいはずはない。
叱らなかったのは、子供に無関心だっただけだろう。
しかし、放っておかれたことを「優しかった」と被虐待児は翻訳して理解する。
食事を作ってくれたのは、家族の食事と一緒だったという理由だけだろう。
しかし、彼女はそこに子への愛情を読み込む。






「先日、久しぶりに実家に帰りました。 
 母の行動を見ていました。
 私が持っていたイメージの母親像と『私の母親をしていたあの人』とか、はっきり区別できるようになりました。」









(v)心理的ネグレクト
心理的ネグレクトとは、親が子どもとの間に愛着感形を作れず、その結果、子の心理的発達が阻害されることである。
つまり、愛着関係の不成立=心理的ネグレクトである。



心理的ネグレクトだけを見ると、具体的には、子どもに声をかけない、子供が甘える気持ちに気づかない、
子供が落ち込んでいたり喜んでいたりしていても無関心である、
子供が悩みを相談しても内容をくみとれない、子供が泣いていてもいたわる言葉をかけられない、
子供が喜んでいても一緒に喜べない、などである。

十分な食事を与えないのがネグレクト。
一方、食事を与えても「美味しいかい?」とか「お腹いっぱいになったかい?」とか聞こうともせず、餌を与えるかのように食事を出して、
子どもの気持ちに無関心なのが心理的ネグレクトである。






「小さい頃、学校で嫌なことがあって報告したことがある。
 でも、母からは一度も『大変だったね』と言われたことがない。
 『あら、そうだったの』と、いつも見放された言い方だった。
 無関心だったのだ。
 それが怖くて何も言わなかったし、学校で嫌なことが起こるのは私が悪いからだと思うようになった。
 私はどんどんダメな子になっていた。」
「期待してきた母親像と『あの人』との違い、その混乱がはっきり区別できた。
 整理できたので、もう求めるものがない。 
 執着していたもの、いつか手に入るかもしれないと思っていたものを、もう求めなくていいと思ったら、力が抜けてしまいました。」


実は、その激しい拒絶は、自分のがまんが途切れてしまう恐怖から発する。
虐待を受けてきた子どもは、愛情と優しさを期待しても、いつも親に裏切られてきた。
それでも、子どもは期待し続ける。
「親が自分に優しくないのは、何か理由があるはずだ」、
「暴力を振るうのにも訳があるはずだ」
「自分がもっといい子になれば、きっと親は優しくしてくれる」
「ちゃんという事を聞けば、暴力は無くなる」
子どもはそう自分に言い聞かせ、期待をつなぎ、今度こそはと思ってがんばる。
しかし、結局はいつも裏切られた。
その厳しい経験の中から、やがて、子は自分には温かい愛情を受ける権利なんてない、そんな期待をする自分の方がおかしいと思うようになり、
愛情を期待しないで生きて行こうと決心する。
その決心は何度も揺らぐが、そのたびに彼らは自分に言い聞かせる。
「期待する自分がだらしない、そんな自分は馬鹿だ」
そうして彼は、ぎりぎり自分の存在と尊厳を保って生きていく。
そんな彼らが、ある時、親から救い出されて養護施設に保護されたとする。
そこで支援者が、温かい愛情とごはんを与えるとしたら、彼らはどう思うだろうか?
「どうして僕にそんなことをするの?
 僕はそんなものはないと思って生きてきたんだ。
 なぜそんなことをして僕をからかうの?
 せっかくここまでがまんしてきたのに、余計なことしないで!ひどいよ!」
そうやって、差し出されたご飯を払いのける。
愛情を期待してはいけないのだ。
がまんを続けないと生きていけない。
がまんを止めるのは怖い。







「生まれてからずっとがまんだけをいてきたのに、今さら優しくされても、怒りしか沸いてこなかった…。
 あの怒りはお姉さんへの怒りだったのか。
 違う、お姉さんは大好きだった。
 そうじゃなくて、甘い誘いに乗ってしまった自分への怒りだったのだと思う。
 お姉さんには悪かった。
 あれから30年経つけど、今も同じかもしれない。
 大人だから人の好意をあからさまに拒絶するようなことはしないけど、遠慮してしまうし、
 期待すると怖くなる。
 いつもがまんしてきた。
 このがまんがなくなるまで耐えようと生きてきた。
 それが生きる理由だった。
 がまんのない世界を生きたことがないから、
 いきるとしたら自分でがまんを作らないといけない。
 がまんのない世界は怖い。
 受け入れられない。
 幸せになってもいいんだ、と自分に言い聞かせるが、何度言っても、
 底知れない怖さが襲ってくる。
 がまんが途切れたら殺されるのではないかと怖くなるし、甘えようとしたら、
 黒い雲のような罪の意識が襲ってきて自分を責める。」






しかし、普通の世界では、ほどよい緊張と我慢は、愛情によって報われる。
一方、まったくその圏外で一人で生きてきた彼は、自分で緊張を作り出して心を支えた。
もともと愛情のない世界で、愛情を期待しないという緊張である。
それは人つながっているという安心は与えてくれない。
唯一、愛情がないという恐怖を抑えてくれる。





(5)子どもから教えてもらう愛情

これから紹介するのは、虐待を受けて育った女性が子どもを産んで回復する話である。
被虐待者は人から愛されたい気持ちと、人を愛したい気持ちの両方にブレーキをかけて、人にも自分にも愛情を見せずに生きてきた。
だから、一度ブレーキを外せば、押しとどめられていた愛情は一気に流れて、新しい生き方が始まる。
そのきっかけを与えるのは人との出会いであるが、もっとも強い出会いの力を持っているのは赤ちゃんである。


■「子供がいらなくなった」と訴える母親






■子どもに「ママ」と呼ばせることができない理由



実は、自分をママと言えない被虐ママによく出会う。





彼女は、小さい頃からずっと母親の愛情を期待しながら、結局、それを与えてもらえなかった。
期待が裏切られるつづけると、次第に愛情を拒否するようになり、無意識のうちに愛情を向けられることに恐怖を感じるようになる。







■母親が子どもの愛情を受け入れる






34年間、かたくなに守っていた抑圧が壊れた瞬間である。
愛情を期待してはいけない、と厳しく自分に言い聞かせてきた戒律をゆうちゃんの笑顔が壊した。
ゆうちゃんはもちろん生まれた時から、無邪気で素直な愛情を野中さんに向けていた。
しかし、それを彼女は無意識に拒絶してきた。
愛を受け取らずに、義務を果たす、それだけが彼女の子育てだった。
おっぱいをあげる、げっぷを出してあげる、
そうするとゆうちゃんが気持よくなる。
そのゆうちゃんの反応を彼女は感じていた。
しかし、感じないようにしてきた。
泣いているゆうちゃんのおしめを交換する。
そうするとゆうちゃんが満足する。
それを彼女は、自分のことのように気持ちよく感じていただろう。
しかし、それは感じてはいけないことだった。
ゆうちゃんに対する自分の反応を、彼女はすべて棚上げにしてきた。
ゆうちゃんに愛情を感じてはいけなかった。



次第に、彼女は愛情を恐れなくなった。
素直にゆうちゃんの愛情を感じ、ゆうちゃんの愛情を受け入れ、
ゆうちゃんに愛情を与え、そして自分に愛情を与えた。




■信じようとしてきた「人とのつながり」はファンタジーだった






彼が期待してきたものは、子どもならば誰でもが母親に期待するもの、大人であっても人が一番欲しいもの、つまり、人とのつながり、安心と愛情と称賛である。
それを期待して彼は生きてきた。
父親から叩かれても、母親に分かってもらえなくても、
それは何か理由があるはずだから、あるいは自分が悪いのだから、いい子になれば、
と信じて期待をつなぎ、裏切られてもまた次の期待をつないで生きてきた。
その期待は、実現できないままにいつしかファンタジー(空想)になり、
遠い雲の上の母のイメージになった。
彼の心のファンタジーの中でかろうじて人とつながっていた。
あるいは、つながっていると信じていた。
それが彼の人生を支えていた。
ある日、ファンタジーが崩壊した。
何もなかったのだとわかった。





■再び「人とのつながり」の中へ戻る

「母とのつながり」、愛着関係を信じようとしてきたファンタジーが崩壊した。
ないものを「ある」と思って生きてきた。
でも「ない」と分かったら、同時に義務感が消え、自分を責めなくなった。
彼を縛ってきた規範がその力を失ったのだ。





■「存在そのものの悩み」は「普通の」人と共通している




「クリニックに通い始めた頃、私が初めて虐待の話をしたときに、先生に『思い込みが解ける』と言われて変化が始まった。
 しばらく前には『解決はあなたの中にある』と言われて、その言葉を繰り返していて、こうなった。」







-------------------------------抜粋終了。


















■されたことの傷、されなかったことの傷


実は私も両親に育児放棄も暴力もアルコール依存症も離婚も、そういうACに典型的な体験が無かったので、自分がACだと気づくのに苦労しましたが、
何かをされたことでACになる場合もあるけど何かをされなかったことでAC傾向が出る場合があって、私はそっちでした。



2014年8月31日日曜日

親を「あの人」と呼ぶ人たちの親子関係



松本人志認証済みアカウント
‏@matsu_bouzu   親父が死んだ。。。
オレは悲しまない。
あの人とはいろいろあったからな。
葬式で帰省。あの人と暮らした尼崎を少し歩いた。あの人と子供の頃行った太陽の塔を見に行った。
あの人と食べたチキンライスを食べたらさすがにいろんな感情が押し寄せて来やがった。。。
親父。さいなら。
13:16 - 2014年8月31日

https://twitter.com/matsu_bouzu/status/505932216543629312







 

■「両親をあの人と呼ぶ」≒親子間での虐待



親を「あの人」と呼ぶ人は、その相手から虐待を受けている。
あるいは受けていた。
はっきりと虐待と理解できるものもある。
心が全く通じ合わなかったと言うレベルでの虐待を受けきた場合もある。
いやむしろ、虐待を受けていたことに気づかないからこそ「あの人」と呼び続けているのかもしれない。


いずれにせよ、愛着形成がうまくいかなかった親子関係の非常に分かりやすいシグナル。











「今は人からお母さんをあの人って言うのを失礼だって言われてしまい、気を付けてますが、
 母とか父とか(元々そういった概念がないですが)あの人って呼んでしまう部分なんか、これ私だけじゃないんだって、何だか安堵と言うかなんとも表しがたい気持ちがぐっと心の底から出てきて、泣いてしまいました」








「心理的ネグレクトだけを見ると、具体的には、子どもに声をかけない、子供が甘える気持ちに気づかない、
 子供が落ち込んでいたり喜んでいたりしていても無関心である、
 子供が悩みを相談しても内容をくみとれない、子供が泣いていてもいたわる言葉をかけられない、
 子供が喜んでいても一緒に喜べない、などである。
 …
 十分な食事を与えないのがネグレクト。
 一方、食事を与えても「美味しいかい?」とか「お腹いっぱいになったかい?」とか聞こうともせず、
   餌を与えるかのように食事を出して、
 子どもの気持ちに無関心なのが心理的ネグレクトである。」






 「この間、お葬式が滞りなく終わりまして。オヤジが完全に焼き上がりましたので」とジョークを交えて語った。スタジオの何とも言えぬ雰囲気に「(共演者に)どうしていいか分からないでしょ。香典いただいていいですか」と、あえて笑いを誘った。

  父の容態が悪く、例年の北海道旅行をやめ、大阪旅行に変更。そうすると「初日がお葬式になった」という。

  「そんなにオヤジとは折り合いがよくなかったんで。最終的には僕のこと、1回も褒めてくれなかったんで。オヤジが死んでも別にいいかなと思っていたんですけど、思ったより(グッと)来やがるな」と父との別れを語った。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140831-00000079-spnannex-ent






-----------

母親をママと言えない 
不思議なことに、共通して実母を「あの人」と呼ぶ。←思わず苦笑しました
何故そうなったか

社会的に使われている「ママ」との差異、
被虐児は意味のちがいに混乱するから。

幼稚園で転んで泣いてしまった。
そんな時に先生が慰める。
 「大丈夫よ、もうすぐ、ほら、ママが迎えに来るよ」

それはあなたが一番大好きで、
一番安心できるままが来るから痛くないよ、怖くないよ、という合意

それが、社会で共通に使う日本語の「ママ」と言う意味である

 そんな言葉で慰められた時には、被虐児は安心でなく、恐怖を感じる

先生が「ママ」と呼ぶ「あの人に」見られたら・・・
それからは「ママ」と言う言葉は自分の家のママではないことを知り
「あの人」となる
共通認識のものである、そういう中で育てばそれが絶対で揺らがない
他にも世界があるなんて思いもよらないから
だけど・・・どうやら、異邦人たちは世間とは違うらしいと気づく

http://blogs.yahoo.co.jp/okaerinasai_umarerumaeni/12658005.html







http://honto.jp/netstore/pd-book_26097151.html



http://www.amazon.co.jp/%E6%B6%88%E3%81%88%E3%81%9F%E3%81%84-%E8%99%90%E5%BE%85%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%96%B9%E3%81%8B%E3%82%89%E7%9F%A5%E3%82%8B%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%B9%B8%E3%81%9B-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC-%E9%AB%98%E6%A9%8B-%E5%92%8C%E5%B7%B3/dp/4480864288/ref=pd_sim_b_3?ie=UTF8&refRID=0QZ0SZ6D564ASRKTK57S









 

■まとめーー共感が子どもの心を形成する。


共感力の無い両親を持った子どもは本来与えられるべきものの欠損を抱えて生き続けることになる。
(その欠損が特別な才能や努力を与えたりするのだが。)

共感≒肯定=褒める=感覚・気持ちを聞いてあげる。

褒めてもらう=自分を肯定してもらえる存在を認めてもらえる=自分が(社会で)存在していると感じられる



子どもの心に寄り添ってあげなければ子どもの心の接着剤である愛情は伝わらず
いびつな心が出来上がってしまう。

大人になったとき、心が強い人、弱い人の違い。
それは幼少期、どれだけ共感(愛情)という接着剤で心の強度を高めることが出来たか
そここが非常に重要な気がしている。




(それゆえ才能に秀でた特別な人たちは富と名声は得れるが当たり前の幸せにはついぞや辿り着けないパターンが殆ど。才能とは欠損から生まれる。
特別な人たちは何かが”ある”のではなくあるべきものが”ない”から素晴らしい才能と感性と商人欲求を持ち普通の幸せを持っている人たちが住む社会を豊かにしてくれている)







子供が共感を与えられていないと感じた
→(心理)虐待

2014年7月16日水曜日

被虐待→いじめ→職場いじめ・引きこもり・ストーカー・DV


家で虐待を受ける。
すると防御力が身につかない。


いじめは反撃し無そうな人を選んで行われる
虐待=理不尽さに反撃できない
いじめ=理不尽さに反撃できない

自分の尊厳が傷つけられることに強烈に鈍感になる



DV=防御する術がないから受け入れるしかない









■初期ダウンロードの不可侵性


母親=世界
母親からの否定=世界からの否定
世界からの否定=愛される存在ではない
否定された世界=全てがマイナスに見える
肯定された世界=人と自分を信じられる世界

意見を効いてくれない母親=世界は私の意見などきいてくれない=何も言えなくなる=ただただ従うだけ。無力



防御力
受け入れられない
愛されない存在
頑張っても手に入らない愛
褒めて欲しい
認められたい
自分はケアするに値しない存在
コミュニケーションに正解があると思っている
従順であることが正解

2014年6月20日金曜日

「他人が気になる…」についての誤解



■「他人が気になる」=そこに他人は存在していない


他人が気になる。
実は気になっているのは自分。
他人ではない。


興味がある(気にしている)のは他人ではなく自分への評価。




本当の意味で他人が気になるというのは

「あの人は、どういう食べ物が好きなのだろう?」
「あの人はどういう音楽がすきなのだろう?」
「あの人は、どんな価値観を持っているのだろう?」
などといった、相手の人間性への興味のことだ。





間違った意味合いの”他人が気になる”というのは

「自分はどう思われているのだろう?」
「あの人は私を嫌っているのかな?」
「私はあの人に嫌われないようにしなくちゃ」
などといった”自分への評価”だけなのだ。


だから、相手の事をすごく気にしているように見えて実は
相手の事など全く考えていないし無視していることに結果的になる。

なぜなら、フォーカスしているのは”自分への評価”だけで、そこに他人の人間性への興味は全く入り込む隙間がないのだから。



他人が気になりすぎて困っている人たちは、まずこの誤解を理解して受け入れるべきだ。
気になっているのは「他人の人間性」ではなく「自分への評価」だけなのだから。


他人に「自分が」どう思われているかが気になる。
フォーカスされているのはYouではなく、いつもIだ。

2014年6月19日木曜日

臨死体験は快感、というお話。





 

■死ぬってたぶん、至福の感覚だと確信している


内科的に体調が最悪の最悪になって搬送された。
その時に気を失った。
気を失った時に至福の快感を味わった。


立てないくらいの状態だったけど立ってレントゲンを撮らされた。
そのときに立ちくらみのようなことが起こったのだと思う。

その瞬間に、それまでの思い出の中の良い部分だけが頭に侵入してきて
主に首から胸のあたりに味わったことのない温かくてフワフワした感覚を覚えてすごく幸せだった。





現実の世界の時間で言えばたぶん3秒くらい。
自分の感覚では10年間くらい続いているような感覚だった。


残念ながら立ちくらみによってヨロけて地面に膝が付いた瞬間、その世界から現実の世界に戻ってきた。







死に近づくことは多分至福の快感があるのだとこのとき確信した。





身体が弱りきっていたとは言え、たかだか立ちくらみくらいで、あの体感。あの感覚。
本当に死ぬくらいになったらどんな快感が待っているのだろう…。









スポーツをしている人は、もしかしたら共感してくれるかもしれない。
ホイッスルという少年漫画にこういうシーンがある。


【サッカーで相手とぶつかって脳震盪を起こした時に、過去の良い出来事が想起された。】




脳に支配され人間は生きている。
その支配から解き離れたときに、本当の自由(快感?)のようなものが人間には舞い降りるのかもしれない。




認知症の人が時に最高に幸せそうに見えるのは、もしかすると解放されたからなのかもしれない。
「人間としての営み」みたいなものが一時停止あるいは停止したとき、素晴らしい最後のご褒美が人間には待っているのかもしれない。












天国はきっといいところだぜ。
だって行った人は誰一人として帰って来ないんだから



あなたが生まれたとき、
みなが笑って、あなたは泣いたでしょう。
だから、あなたが死んだとき、
みなが泣き、あなたは笑っているような、
そんな人生を送りなさい










現実世界でこのような発現をすると多分おかしい奴と大いに思われるので誰かに共感を求めたことはない。
だれか共通項の体験持つ人が居れば話を聞いてみたい。



まぁただ単にエンドルフィンのような快感物質が分泌されているだけということで
説明できてしまう現象なのかもしれないけれども。






2014年2月21日金曜日

メンヘラちゃんの心の器




 交際女性にLINEで「死ねよ」→本当に自殺 自殺教唆で慶大生逮捕


■感情を溜めておくべき心が育っていない 


メンヘラちゃんは心が小さい。
だから一度、感情が溢れ出したら止められずに感情の通りに行動してしまう。

理性がないわけではない。
ただ、感情を溜めておける器(=心)が色々な理由によって育たなかった。
それゆえにたとえ、普通の人と同等の感情をせき止めてくれる武器(=理性)を持っていたとしても、器自体が小さいので、理性という防波堤を軽々と突破してしまう。

対処法としては時間にませる。
つまり、本人のダメージ処理能力があがるのをただただ待つしかない。

なぜなら、心という器は、10歳を過ぎたらもう大きくならないから。


感情を溜めおく場所(=心)が大きくならないのならば、感情がわきあがるのを穏やかにしてもらうしかない。つまり、ダメージ処理能力の向上によって負の感情が生まれてくるのを軽減してもらう。

そういう意味でも、身近なメンヘラちゃんと付き合っていくには忍耐力が必要。






心は感情を溜めておく器のようなもの。
メンヘラちゃんは心の器が育っていない。
だから、心に溜めて置ける感情分が少ないから、あふれ出すのが常人より早いし、早いから衝動的に行動してしまう。


理性は溢れ出しそうになる感情を制御してくれるかもしれないけれど、
溢れ出したものを戻してはくれない、と思います。

2014年2月15日土曜日

優しさで満たされた時、子どもから大人へ


 


■「両親から受け損ねた優しさ」が”重たさ”を産む



「優しくされたい」って、なんなんだろうねー。


そんなものが与えられるのを、いつまで待つんですか、と。
来ないバスを待っていませんか、と思ってしまう。



そもそも、20歳を越えて、大切に思う人に「優しくしてあげたい」という能動的な方向に気持ちが動かないのが理解できない。
いつまで両親に与えて欲しかったものを、両親じゃない人に求めるんですかと。





いつから優しく「されたい」と思っていたんですか。
小さい頃じゃないですか?


それがずっと満たされてこなかったから、他の人より優しく扱われたい願望が強烈で他人である恋人に非現実的な優しさ(まるで親が子どもを愛でるときの無償の優しさのようなもの)を求めてしまった、二人とも幸せになれていないんじゃないですか。










人間は心が満たされれば、能動的に人と関わって行こうと思える。能動的とは何かを与えるってこと。
何かを人に与えたいと思った時に大人の仲間入りが出来る。

子供のとき人間は極めて受動的だ。子供の時はただただ愛して欲しいと願う。自然なことだ。

じゃあ、子どもはいつ大人になるのか。
いつ、受動的に愛を受け取る側から愛を与える側にいけるのか。

それは愛で心が見たされれた時。
優しさをたくさん受け取ったとき。抽象的な言い方で言えば愛と優しさが心を満たし、育てる。

愛で満たされた段階で人は誰かに愛と優しさを与えたくなる。
愛をねだる子どもから、愛を与える大人へと成長する。

逆に言えば、人の心はやさしさで満たされない限り、大人に成長できない。
優しさで満たされなければ、いつまでも子どものままで、優しさや愛を求め続ける。
しかしながら、両親以外の人間は他人なので貴方に無償の愛を注ぎ続けることは出来ない。
結果、いつまでも誰かからの非現実的な優しさを求め続ける。
受け取る喜びも与える喜びも分からない、子どもでもない大人でもない何かになってしまう。








子どもと親で言えば、子どもは愛を受け取る存在で親は愛を与えるだけ関係は成り立つ。
しかし他人同士ではどちらかが受け取るだけ、どちらかが与えるだけの関係なんて成り立たない。



もしも、20を過ぎて、ただただ愛して欲しいと渇望する側の子どもだった場合、その人は虐待やイジメ、あるいは愛を与えられない子どもに育てられた人なのかもしれない。




そうであるならば、あなたに必要なのは誰かに優しさを注がれるのを待つのではなく過去を見つめなす作業、たとえばカウンセリングに通うなどをするしかない。
過去を整理しなければ、易しさで心が満たされる快感を味わうことは永遠に出来なくなってしまうから。

2014年2月12日水曜日

「メダル獲得は日本人として誇らしい」への違和感




他人の功績で自分が高まった気分になれないのは悲しい性分なのかもしれない。





■あなたは何も成し遂げていない!


なぜ、他人の実績で自分が高まったように喜べるのか。
国際的なスポーツ大会やワールドカップ、あるいは甲子園なんかの時期に、いつも思ってしまうこと。



誰かを応援したくなる気持ちは分かる。
その人が活躍すればこちらも嬉しくなる気持ちも分かる。

ただ、その人が活躍したからって応援している側の人間は何も成し遂げていないはず。
それなのに、なにか、自分自身さえ何か実績を残しているかのように騒げる人たちが羨ましくもあり蔑んでみたしまう部分もある。


もっと、自分自身に帰属した事柄で充足感を感じればいいのにと思ってしまう。



日本人だから、出身校が一緒だから、地元が一緒だから、移籍する前に地元チームに在籍していたから…
そういう人たちが実績を上げれば、なんとなく親近感を持って応援したくなる気持ちまでは理解できるが、
その人たちの実績に応援する側の人たちがプライドみたいなものを預けてみても、応援する側の人間は何も成し遂げていない。

そういう偽物の達成感に自分自身を預けている限り、永遠に誰かの実績に乗っかってしか自分を満たすことが出来なくなってしまっていて、
そういう意味でスポーツが生活に欠かせないものになっているとしたら、何て悲しいことなのだろうと思ってしまう。

2014年2月6日木曜日

なぜ薄毛の男性老人は週2で床屋に行くのか



○要諦

ずっと前から疑問だったこと。
開店前の床屋に髪の無い男性老人が列を成している風景。

このことについて漠然と考察していて、昨日、合点がいった。


要するに老人達は触れ合いを求めているのだと



 




■寂しさを悟られない方法で人肌を求める孤独老人




床屋は…

自分は寂しいのだという事を相手に悟られずに、
コミュニケーション能力がなくても、
夜のお店なんかよりも格段に安価で、

触れ合いを得られる場所なのだと思った。







ある病院の医師から「おじいちゃん、おばあちゃんは触れられに来るんだよ」
という話を聞いた。
高齢になると人に触れられるという経験が減るのだそうだ。
(収監~僕が変えたかった近未来~ 堀江貴文 朝日新聞出版)







 癒されたかったら美容師ごっこがオススメ!? (印象・重田)
  自分が構われている姿を鏡で見ると癒される!?
   女性が男性にされたい行為⇒頭をポンポン
   鏡越しに自分は構われてる⇒凄く癒される
   男性は女性の髪を触るだけで好意を持ちやすくなる

http://shinzui.blog75.fc2.com/blog-entry-642.html











男性老人が床屋に行く理由、女性老人が病院に行く理由の共通点は「触れ合い」。
金銭的なコストパフォーマンスは悪くないし触れ合いを得られる。


そして健康な女性老人がこぞって病院に通っていることも保険診察と言う触れ合いを求めているのだろうとも思った。
(待合室という井戸端会議という意味もかなり含まれていると思うが)





もう少し、老人達が心のケアをし合えるような関係になったり場所を提供したりしないと床屋は売り上げがあがるからいいけど病院は税金が投入されているのだから、
老人の心の貧しさをケアするために税金を投入し続けるのは馬鹿馬鹿しすぎる。




床屋は週2で3000円。
診察は週2で1500円(再診料だけで済む場合もあるし高齢者なら1割だから500円で済むかもね)