2014年9月21日日曜日

パニック障害の緊張に向き合う







パニック障害の原因、根本には生来の生き方が大きく関連している。
パニック障害を患う人の多くは大いなる緊張感を常に持ちながら生きる生き方がある






◇持続する緊張がパニック障害の原因




緊張は、誰でもする。
大事な場面の前の日あるいは直前、
パニック発作を起こす人も少なくは無い。

ただ、パニック障害と呼ばれるような状態すなわちパニック発作の頻度が高くなってしまう。
そういう特別に緊張するイベントが無くとも発作がおきてしまうケースには共通点がある。


それは抑圧である。



 大いなる緊張は抑圧によって生まれる。

理性で感情(感覚)にフタをする。
そこにあるものをないものとして扱う。

不安
寂しさ
恐れ
緊張…

こういった、あるもの(感情)をないもの(理性)として扱う。
理性でもって(自分のルールの中で)感じてはいけない感情を無かったことにしてしまう。
それが抑圧だ。

湧き上がってくる感情を理性で必死に押さえ込もうとすることの緊張。
その緊張がパニック発作を起こさせている。









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以下、「心をはなれて、人はよみがえる―カウンセリングの深遠 筑摩書房 高橋 和巳」を一部抜粋



5 パニック障害のパラドックス


■暗いトンネルの発作

「不安」という感情は人が危険を察知するために発達させた、もっとも感度の高い認識である。
これを理性で制限し続けると、パニック障害という病気を引き起こす。



パニック障害という病気は、生活の中の小さな「不安」情報を感じる事を制限、棚上げしてきた結果生じるものである。
たとえて言えば、この世に不安などあろうはずがない、頑張っていれば大丈夫なんだ、人生に心配なんてないんだ、と
自分に言い聞かせて生きてくると、ある日、突然、
「あーっどうしよう、このまま死んでしまったら…」と、それまでたまっていた不安が一気に流れ出してきてパニック発作になるのだ。




■パニック障害の治療の仕方

上野沙苗さんは、二十四歳の大学院生
ある日、通学の電車に乗っている時に、パニック発作を起こした。
その後、しばらくは電車に乗れなかった。




抗不安薬の効果は確実で、多くの場合、発作の頻度は下がり、症状は軽くなる。
薬を飲んで電車に乗る、ということを繰り返していると、
次第に慣れてきて、そのまま発作を忘れていくことも多い。
また、小さな発作がくすぶって長く続くときもある。
いずれにせよ、患者さんにとって抗不安薬は「お守り」である。



認識の拡大という心の治療から考えると、不安は押し殺してはいけないのだ。
制限を続けるのではなく、逆に「不安だ!」と感じること、
「いろいろな不安なことってあるよね。そういうときは嫌だな」と思えることが治療である。
だから、薬で発作を止めるだけではなく、並行して「不安をちゃんと感じる」、「不安について語る」ことが不可欠だ。
その精神療法を行っていくのが根本的な治療である。





■「怖いよ!」と言えなかった頃

沙苗さんは、小さいときからずっと真面目な優等生であった。
大学生の時、初めてパニック発作をおこした。

一時は通学も難しいほどだったが、薬で発作はだいぶ軽くなった。
今は薬を飲みながら通学している。

しかし、発作が完全に消えたわけではない。





「そうですね。
 ところで上田さんはどうしてパニック障害になったのか考えたことがありますか?」

「えっ、…原因があるんですか?」

「…」

「普通はね、ずっと緊張して生きてきて、小さい子どもの頃に「怖いよ!とか、「助けて!」とか言ったことの無い子が、
 大きくなってパニック障害になるんですよ。パニック障害になったのか考えたことがありますか?
 ずっと不安を我慢して緊張していたのが原因といえば、原因ですね。」


沙苗さんの家庭環境について簡単に述べておこう。

家庭は裕福だった。
両親ともに穏やかで、何事についてもきちんとしている家庭だった。

しかし、少しその度が過ぎていたようだ。

家庭の中の緊張はいつも強かった。
母親はどこかいつもピリピリしていた。
その緊張は忙しい夫の仕事のせいであろうか。
祖父母との二世帯住宅が影響していたのか。

両親とも、目立って仲が悪いと言うことはなかったが、
母は父を遠ざけていたようだった。



「ずいぶん前に先生は、私は緊張の強い家庭で育ったようだとおっしゃっていましたね。
 最初は言われて、ぜんぜん意味が分からなかったのですが、いろいろ思い出してきて、そうかなと思えてきました。
 私って誰かに『こわいよー、たすけてー』って言ったこと、多分ないんですよね。」

「そうですね。誰かに、って言うか、小さいときは、普通は一番近くにいるお母さんにでしょうね。
 あなたは言わなかったのかな?たぶん、真面目すぎたのかな? そういう子は言わないからね」

「そう、真面目すぎたんです」と沙苗さんは笑った。

「この間、母と父が、祖母の介護のことで話し合っていたんです。
 けんかしているわけじゃないんですけど、母はすごくピリピリしていて、父は不機嫌そうでした。
 私はそれを聞いていて、フーッとめまいがして不安定な感覚になってしまいました。
 すごく嫌な気持ちになって『ああ、この感覚って小さいときからあったな』と思ったんです。
 私の我慢してきたことってこれだったのかと…、
 家の中の緊張がわかりました」




家の中が緊張していれば子どもは遠慮して不安を口にしないものだ。

両親の不仲を子どもは敏感に感じ取り不安に陥る。
しかし、それは口にはしない。

人が「怖いよ!」と言えるのはじつは安心したときである。

怖い目に遭ったときは、夢中で逃げる、緊張する、対処する。
そこから逃れて後、ほっとして「ああ、怖かった!」と言える。

家庭の中がずっと緊張していれば、子どもはずっと「怖いよ!」とはいえない。

成長して、少し緊張が緩んだ頃に「怖かった」と言えるのだが、
その言葉を知らない、言い方を知らないので、いきなりパニック発作が出る。
そして、「怖いよー」と言えると治っていく。

治療の中で恐怖を味わい、それが消えていくことを体験する。
不安とその消失の経過を何度か繰り返して体験すると、不安なことってあるな、
でも、そんなに長くは続かないかなと思えて、
不安情報の制限は解除される。




■不安を認めると不安が消える

不安という感情は
危険に対する敏感な予知情報である。
その人の人生でパニック障害た起こる時期にもまた意味がある。

不安発作は
「もう、いままでの生き方のままで緊張し続けてはいきていけない。
 そろそろ緊張を和らげようよ。生き方を変えようよ」と言うサインである

このサインが出たということは
危機が少し去り、ちょっと安堵したときである。
発作発現の意味を考えずに
ただその症状を消そうとするだけでは
制限を続ける逆向きの治療になってしまう。

不安を抑えるのではなく「不安はあるんだ」と認識できると不安は小さくなる。
正確に認識できると、認識の制限が解除される。
認識の拡大が心を楽にする。
そして、不安を制限する小さい心からはなれる。





ある時、彼女はこういった。
「ちょっと後ろめたいけど、もう両親のことに首をつっこむのをやめた。
 楽になりました。」
小さい頃から両親の間に入って夫婦仲をとりなしてきた自分の役割を終わりにしたのである。

心、身体を問わず「症状」の発現には意味がある。
お腹が痛いときに原因を調べずに
鎮痛剤を飲んでしまったら危険だ。
痛みの原因はガンなのか、胃炎なのか、必ず理由があるはずだからだ。

痛みは身体が発する、とても鋭敏で大切な情報である。
抑圧したり、制限してはならない。

同じように精神科の心の症状にも意味がある。

不安には不安の意味があり、
鬱症状にはその原因がある。

身体の症状はどこかで機能不全が起こっているという
警告信号であり、心の症状は制限された認識が限界を知らせている警告信号である。
その意味を正確に読み取り、対処できると
身体の機能は正常に戻り心は広がる。



---------------------------抜粋修了。






 

■感情を出しても良い雰囲気があったか



家の雰囲気が悪いのは子供せいじゃない。


両親の仲が不安定なことは子どもの心に強烈なダメージを負わせる。
ケンカなどの表立った仲の悪さだけではなく、
ビジネスライクな間柄が見え隠れすると、それだけで混乱し動揺してしまう。

テレビで見る、周りにいる家族にある温かさのようなものが家庭に無い。
けんかはしないがお互いがお互いの人生に干渉しないような関係。
夫婦は所詮他人であるが、まさに他人同士が子どもには判らない共通の目的を持って同じ家に同居している感じ。

そのことを子供がどうこうできるわけもないし責任も無い。


父親が母親を愛せないのは子供が悪い子だからではない。
母親が父親を愛せないのは子供が悪い子宝ではない。
子供が良い子になったからといって、両親がお互いを愛し合える能力が上がるということは、
残念ながら、無い。
もちろん、そういうファンタジーが子どもの心を守れる時期もある。
しかしそれはやがては害になっていく。



両親が子どもに愛情を注げないのは
子供が愛するに値しないから、ではない。
ダメな子だから愛されない、のではない。

ただ単に、親側に愛する能力が無かったのだ。
しかし、そのことを子どもはわからない。
大人はそれぞれに事情を抱えて生きている、など、子どもにはわからない。
周りの人と同じように、両親は子どもを愛すものだと思ってしまう。
しかしそれが自分だけには与えられない。
なぜなのか。

そういうことも緊張を生む。

両親あるいは家族全体を取り持てない無力感。
緊張状態をどうにか解消しようとする緊張。
安らげる場所であるはずの家は不安の種。


広い意味で両親側に子どもを育てる能力が無いだけなのに、子ども側い欠陥があると思い込まされてしまう事例は無数に隠されているのではないだろうか。



そして、家の中が緊張していれば、子どもは自分の訴えを行わない。

寂しさ
不安
今日、嫌だったこと
褒めてほしいこと
悔しかったこと…

これらを言い出せる雰囲気かどうかは、子どもにも十分に分かる。
そしていつしか、大人側の技量が無いだけの話なのに、子どもは自分の責任にしてしまう。

「私の訴え(感情)など取るに足らないことだ。
 私の訴えなど誰も聴いてくれない。」

感情、とくにマイナスの感情は誰かに聞いてもらい共感してもらってはじめて消化できる。
大人でも誰かに聞いて貰わなければラクになれないときがある。
それくらいに不の感情はダメージ力が高い。

それを子どもの心で、子ども達は消化不良のまま抱えていくことになる。
そして、両親との関係の中で、自分の事を伝えること、あるいは伝えたことで、良いことが起こったためしがないと、何も言わなくなる。
どういう風に伝えれば良いのかわからなくなる。

そうしている内に頭(理性)が心を守ろうとする。
マイナス感情などないことにしてあげよう、と理性が助け舟を出す。
溜まっていくマイナス感情に対応するために。

マイナス感情が存在してしまったら、それは消化不良でドンドン溜まってしまう。
溜まっていくことを防げないのであれば、もう入り口で止めちゃえ、と。

マイナス感情などどこにも存在しない。
あるいは、奥底に眠らせておこう、と。

この助け舟は抜群の効果を発揮する。
ただその理性の副作用が大いなる緊張。
ちょっとでもマイナス感情を感じてしまいそうになったら真っ先に常に出動しなければならない。

そうした常に緊張をすることを生き方のベースに据えることで自分を守ってきた。
その限界が近づいていることを教えてくれるのがパニック障害、なのかもしれない。






 

 

■感じないようにする努力が緊張の大元だった


誰でも緊張するときはあるだろう。
大事なプレゼン、試合、挨拶、あるいはその前日のベッド。

ただ、パニック発作につながる緊張は24時間続いている。
その持続する緊張はその人の行き方の根底をなす。


根底を無し、あるときは、その緊張が自分を支え守ってきた。
必要な緊張だった。
自分の感情にフタをする。
自分の感情を無視して必死に理性を働かせ、平気なフリをする。

そういう生き方が必要な時期もあった。
何も間違っていなかった。


パニック発作、パニック障害は、その緊張を自分の生きるルールにしてきたことを
ストップする時期なのだと教えてくれるサイン。

そこにある感情。
底に沈めてきた感覚。

それをあるものとして扱っていくことが、治療になる。

緊張をしないことがゴールじゃない。
不安を無くすことがゴールじゃない。

それらが、自分の中に存在しているのだと認める。
それらを感じても良いのだと自分を許す。

そのことがパニック障害の心理的治療の重要な柱。

そして、感情を大事にすること。
それは自分を大事にするということ。

感情的になれということではない。
わがままに感情をぶちまけろということではない。

表に出さずとも、内側にわいてくる感情はしっかり湧き出させてあげること。
そこにある感情の存在を否定せず認めてあげる。


それが感情を大事にするということ。
自分を大事にするということ。















 

■パニック障害と副腎疲労


パニック障害を身体面から説明しようとすれば「ホルモン」と「血糖値」というワードがあがる。
緊張や不安、恐れはアドレナリンとノルアドレナリンの分泌を促す。



そして、アドレナリンとノルアドレナリンの過剰分泌は副腎疲労という病態を生み出す可能性もある。


甘いものが常に手放せない
アルコールが必要
便秘
月経前症候群
起床時に強烈な疲労感
不眠

このような症状がある場合には、パニック障害がもっと進んだ副腎疲労という病態の治療も必要になってくるかもしれない。





















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以下、「対人関係療法で治す 社交不安障害 自分の中の「社会恐怖」とどう向き合うか 水島広子 創元社」より一部抜粋



■不安反応



恐怖する状況に直面すると
社交不安障害の人には「不安反応」と呼ばれる反応が起こります。

まず、主観的な不安を感じます。
その焦点は…

①他人にじろじろみられるのではないか(観察されたり、さらしものになったりするのではないか)
②恥をかいたり侮辱されたりする結果になるのではないか
ということです。

自分が何か馬鹿なことを行ったり、うまく離せなくなってしまったり、固まってしまったり
大失敗をして評判を損ねたりするのではないかと想像することもあります。

つまり、社交不安障害の人の不安の本質を簡単に言うと
”人からのネガティブな評価を恐れる”ということになります。

「人から批判されるのではないか」と明確に自覚していることもあれば
単にあいまいな不安として感じていることも少なくありません。

社交不安障害の人は一般に「自意識過剰」などと言われるものですが
ネガティブな評価という面でのみ敏感な「自意識」を持っていると言えます。

そして「自意識過剰」と言われることもひとつのネガティブな評価ですから、
「自意識過剰」と言われないように、と自意識過剰になる…という悪循環に陥っていきます。

主観的な不安のほかに、身体症状が起こることも多いです。
たとえば、発汗、ふるえ、胃腸の不快感、下痢、筋肉の緊張、赤面、
ほてり、足の冷感などです。

身体症状の著しい例としては、先述したパニック発作
(動悸や生き苦しさなどが起こり、このまま頭がおかしくなるのではないか、
 本当に死ぬのではないかと思うような発作)が起こる人もいます。

パニック発作だけではなく、
身体症状は全般に、その状況における不安を増すことが多いです。

「相手とのやり取りのなかで自分が恥ずかしいことをしてしまうのではないか。
 その結果とてい相手からネガティブな評価を受けるのではないか」という「本来の」不安以上に
「不安反応としての身体症状が他人に気づかれるのではないか。

その結果として相手からネガティブな評価を受けるのではないか」という不安に焦点が当たることになります。

何と言っても、身体症状は目に見えるものですし
基本的には自分でコントロールすることではありません。

ですから、社交不安障害の人が身体症状をとても気にするのも当然の事であると言えます。
そして、一般に、不安反応を気にすればするほど、
不安が強まり、不安反応そのものもひどくなる、という悪循環が成立します。

身体症状は、不安によって自律神経系のバランスが変わることで起こります。
簡単に言えば、その状況を「危険」と認識したときに生物としての人間に起こる反応に過ぎず
本来はその「危険」から逃れるために身体の機能を集中させるシフトなのです。

身体症状そのものに病的な意味があるわけではありません。
ポイントは、その状況を「危険」と認識した、というところにあります。

わかりやすくいうと
「危険」に対する不安反応そのものは適切だけれども、
「危険」のセンサー(感知器)が少しずれてしまっている、という感じなのです。
本当は危険ではない状況なのに「危険」というセンサーが働いてしまって、
身体が「危険対応モード」になってしまうのです。

例えて言えば、キッチンの火災報知機の調整がずれてしまって、ちょっと魚を焼いただけなのに
サイレンが鳴るというような状況です。

このときの修理方法としては
サイレンがならないようにするのではなく、
センサーを調整するはずです。
本当の火事の時にサイレンがならないと困るからです。

社交不安障害も同じことであり、
対人状況を「危険」と感じるセンサーを調整することが適切な対応になります。
つまり、本当は危険ではない状況に危険を感じなくなるにつれて
だんたんとおさまってくるのです。

サイレン(不安反応)が修理を必要としているわけではない
と考えると分かりやすいと思います。
なお、不安反応、特に身体症状はその状況を寄り危険なものに感じさせることが知られてます。

たとえば、人前で話そうとすると頭が真っ白になる、というような症状を持つ人は
「だから人前で話すことは恐ろしい」と思うのです。
でも、キッチンの火災報知機にたとえてみれば
魚を焼いたらサイレンが鳴った、「だから今起こっていることは火事なのだ」
と思っているのと同じ事になります。
繰り返しになりますが調整するべきはセンサーの方なのです。
人前で話すことの「危険度」を実際に試してみながら検討していけばよいのです。

ちなみに、なぜ頭がまっしるになるのかと言えば、恐らく、
強すぎる不安の感情から心身を守るためではないかと思います。
その状況に踏みとどまっているとストレスが強すぎるようなときに
よく頭は「真っ白になります」





■不安を感じなくなること、が目標ではない



社会不安障害の人は
「不安さえ感じなくなれば、何でも出来るのに」
と思っていることがあり、治療においても
「とにかく不安をなくして欲しい」と求めることがあります。

対人関係療法においては少なくとも
「不安させ感じなければ何でも出来るのに」ではなく
「ある程度の不安を感じながらも」何かをすれば、
それが結果として不安を軽くすることになる、ということです。
そうは言っても不安が強くなりすぎて自分が壊れてしまうのではないか
と心配かもしれません。

不安反応、なかでも強い身体症状は大変厄介なものですが
短期的にどれほど強い不安を感じようと、
そしてどれほど著しい不安反応が起ころうと、
それは深刻な結果に繋がるわけではない、ということを知っておくのは重要です。

たとえば、パニック発作で実際に命を失った人はいません。
また、目まいを感じ、気を失うのではないか、と思っても、実際に気を失ってしまう人は
めったに居ないのです。

万が一、気を失ったとしても、その後に起こることは想像していたこと
(こんなところで気を失ってしまうなんて、なんて恥ずかしい、気の小さいヤツなのだと思われる、など)
とは全く異なり、必ずしも破滅的な結果に繋がるわけではないのです。

(不安が強まって気を失ったと解釈する人はあまりおらず、体調が悪かったのだろうと気遣ってもらう程度でしょう)


身体症状そのものは危機にひんしたときの自律神経の反応と言うふうに考えると理解しやすいです。

「この状況は危険だ」というセンサーが作動すると自動的に出てくる反応なのです。
治療を通して調整していくべきものはセンサーのほうです。
そして、危険を感知したときに自動的に出てくる反応のほうは
本来は自分を守るために備わっているものであり
自分に害を与えるためのものではない、ということを
常に頭に置いておくことも安心に繋がるでしょう。


----------------抜粋終了

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