2014年9月20日土曜日

愛情を恐れてしまう理由




◇「愛情をあきらめる」という我慢が緊張を生む




愛情を向けられることに嫌悪感を感じる。
そこには悲しい過去がある。
両親との関係だ。
両親からの愛情をあきらめ、愛情を諦めて生きて行こうと決心したときから、ずっと愛情が怖くなる。

そして、愛情を締め出そうとする規範、努力が強烈な緊張を生み出す。
その緊張は24時間365日、解ける事は無い。

「二度と愛情を受け取るまい」と自分の心の鍵を頑なに閉め続けようとする我慢がある。










 

■愛情を期待しないという緊張


愛情はあきらめた。
あきらめるという緊張を自分に強いた。

そこをベースに生きる。

自分は愛情を受け取るにはふさわしくない存在だと定義してしまう。
すると、愛情を向けられると怖くなる。
一度、それを受け取ってしまったら生き方が変わってしまうからだ。


もう戻れない。
我慢をずっとしてきた自分には戻れない。


愛情が枯渇していると感じること。
それよりも、愛情を絶対に受け入れないぞ、という緊張を自分に強いていることによるダメージが大きい。

愛を伝えること、自分を伝えることの拒絶の予想。
自分の訴え、気持ちを共感してもらえないと言うあきらめ。


 





■両親側に愛する能力が無い≠愛されない存在


それは大人側(両親)の問題であって本人側の問題ではない。
本人が愛されない存在ということではない。

たしかに親は愛情を注がなかった。注げなかった。
それとイコールで愛されない存在と結語するのは正しくない。

両親側に子どもを愛する能力、
あるいは子供が欲しい形の愛情を与える能力がなかった

ただそれだけなのだ。

それを「自分が駄目な人間だから愛情を与えてもらえないんだ」と子どもは思ってしまう。
「自分が悪い」と思っている間は、自分の努力によって両親の愛情を引き出せる可能性が数%でも残るからだ。
それは、大きな間違いだ。







■心理的虐待の意味


愛情を向けられることが恐いままに自分が親になってしまった場合、連鎖が起こってしまう。
親になったときに赤ちゃんを恐怖に感じてしまうのだ。
最悪虐待に。
どういうことか。
赤ちゃんは愛情そのものだ。
動く愛情。

赤ちゃんは完璧に愛情を求め、愛情を与える。
その圧倒的に完璧な愛情を与えられることに恐怖を感じて赤ちゃんを遠ざけてしまう。
脅威を追い払うようになりふりかまわない行動に出てしまう場合もある。



 




■衣食住だけでは子どもの心は満たされない


療育には二つの側面がある。
物質と精神だ。
物質は物資。衣食住、教育。
精神は気持のコミュニケーション。

子どもが両親から最も望んでいるものは無条件の肯定的関心


わかって欲しい気持ち、してほしかったリアクションがことごとく得られない。
そのことが、やがて「私の話、私の感情など大事にされるものではないんだ」と自分を大切にしようとする心持ちが育たないまま、大人へと向かってしまう。



 



 

■心理的交流が無い≒心理的虐待


心理的交流の皆無。
これが決定的に心の成長を阻害する要因になる。


気持に共感してもらえなかった。
話を聴いてくれない。
忙しそうにしていて、自分に時間を遣ってもらえなった…

そういう経験をすると人は、
「私は大切にされない人間なんだ。私は大切にされるべき価値が無い人間なんだ」
親からの理解、共感、愛情をあきらめるようになる。
そのあきらめが、緊張を生む。


 

■愛情の大きさに恐怖は比例していく


向けられる愛情が大きくなること。
それは脅威。

愛情が怖い。

もう一生、愛情を受け取らないと自分を律して生きてきた。
両親からの愛情を期待しないことで自分を保ってきた。
その生き方を、他の人からの愛情が揺るがす。
愛情を締め出すことを人生の大前提に据え自分を律し、
常に愛情の受け取り口を硬く硬く閉じようと努力してきた。
長年、採用してきた、そういう生き方を壊そうとする人がいる。

愛情を与えようとする人の存在だ。

我慢を必死に採用してきた生き方にタガが外れてしまったら、
どうやって生きていけば良いのか分からなくなる。

本当は、欲しくて欲しくて溜まらないもの。
必死で抑圧してきた。
自分の中にあるそういう欲望が浮き上がらないよう、常に押し返してきた。
けれど、感覚は本当は知っている。
脳はそれを拒絶しようとするが、感覚はそれを求める。









■無いことよりも締め出そうとする緊張が辛くする


愛情が枯渇していること。
愛情で満たされていない自分。
たしかに辛いことだ。
幸せをもっている人たちが羨ましくて憎い。

けれど、ね。

本当に自分にダメージを与えているのは愛情が枯渇していることではない。
愛情を締め出そうと自分を徹底的に緊張させ1秒1秒生きていること。

愛情を締め出そうとするエネルギーが身体を疲弊させ、心をボロボロにしていく。
両親は愛情を与えてくれなかったかもしれない。
だけど、だからといって、愛情を諦め続ける必要はない。
なぜなら、他の誰かは貴方を愛してくれるのだから。

愛する能力がある人は、あなたを愛したいんだ。

そして、愛情を受け取ることは、愛情を与えることにもなる。
もう、愛情を諦めなくていいんだよ。













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以下、「消えたい: 虐待された人の生き方から知る心の幸せ 高橋 和巳 (著) 筑摩書房」より一部抜粋。





■子の気持が見えなかった母親



心理的虐待は子どもの心の中に奇妙な、矛盾した母親像を作り出す。
彼女は、いつも怖い母親だったと振り返る一方で、
「食事もお弁当も作ってくれた」「叱られたことはなかった」、
だから母親は優しい人だった、と言う。
母親は怖いという冷たい距離感と、母親は優しいという思いとが同居する。
心理的虐待を続ける母親が、子どもに優しいはずはない。
叱らなかったのは、子供に無関心だっただけだろう。
しかし、放っておかれたことを「優しかった」と被虐待児は翻訳して理解する。
食事を作ってくれたのは、家族の食事と一緒だったという理由だけだろう。
しかし、彼女はそこに子への愛情を読み込む。






「先日、久しぶりに実家に帰りました。 
 母の行動を見ていました。
 私が持っていたイメージの母親像と『私の母親をしていたあの人』とか、はっきり区別できるようになりました。」









(v)心理的ネグレクト
心理的ネグレクトとは、親が子どもとの間に愛着感形を作れず、その結果、子の心理的発達が阻害されることである。
つまり、愛着関係の不成立=心理的ネグレクトである。



心理的ネグレクトだけを見ると、具体的には、子どもに声をかけない、子供が甘える気持ちに気づかない、
子供が落ち込んでいたり喜んでいたりしていても無関心である、
子供が悩みを相談しても内容をくみとれない、子供が泣いていてもいたわる言葉をかけられない、
子供が喜んでいても一緒に喜べない、などである。

十分な食事を与えないのがネグレクト。
一方、食事を与えても「美味しいかい?」とか「お腹いっぱいになったかい?」とか聞こうともせず、餌を与えるかのように食事を出して、
子どもの気持ちに無関心なのが心理的ネグレクトである。






「小さい頃、学校で嫌なことがあって報告したことがある。
 でも、母からは一度も『大変だったね』と言われたことがない。
 『あら、そうだったの』と、いつも見放された言い方だった。
 無関心だったのだ。
 それが怖くて何も言わなかったし、学校で嫌なことが起こるのは私が悪いからだと思うようになった。
 私はどんどんダメな子になっていた。」
「期待してきた母親像と『あの人』との違い、その混乱がはっきり区別できた。
 整理できたので、もう求めるものがない。 
 執着していたもの、いつか手に入るかもしれないと思っていたものを、もう求めなくていいと思ったら、力が抜けてしまいました。」


実は、その激しい拒絶は、自分のがまんが途切れてしまう恐怖から発する。
虐待を受けてきた子どもは、愛情と優しさを期待しても、いつも親に裏切られてきた。
それでも、子どもは期待し続ける。
「親が自分に優しくないのは、何か理由があるはずだ」、
「暴力を振るうのにも訳があるはずだ」
「自分がもっといい子になれば、きっと親は優しくしてくれる」
「ちゃんという事を聞けば、暴力は無くなる」
子どもはそう自分に言い聞かせ、期待をつなぎ、今度こそはと思ってがんばる。
しかし、結局はいつも裏切られた。
その厳しい経験の中から、やがて、子は自分には温かい愛情を受ける権利なんてない、そんな期待をする自分の方がおかしいと思うようになり、
愛情を期待しないで生きて行こうと決心する。
その決心は何度も揺らぐが、そのたびに彼らは自分に言い聞かせる。
「期待する自分がだらしない、そんな自分は馬鹿だ」
そうして彼は、ぎりぎり自分の存在と尊厳を保って生きていく。
そんな彼らが、ある時、親から救い出されて養護施設に保護されたとする。
そこで支援者が、温かい愛情とごはんを与えるとしたら、彼らはどう思うだろうか?
「どうして僕にそんなことをするの?
 僕はそんなものはないと思って生きてきたんだ。
 なぜそんなことをして僕をからかうの?
 せっかくここまでがまんしてきたのに、余計なことしないで!ひどいよ!」
そうやって、差し出されたご飯を払いのける。
愛情を期待してはいけないのだ。
がまんを続けないと生きていけない。
がまんを止めるのは怖い。







「生まれてからずっとがまんだけをいてきたのに、今さら優しくされても、怒りしか沸いてこなかった…。
 あの怒りはお姉さんへの怒りだったのか。
 違う、お姉さんは大好きだった。
 そうじゃなくて、甘い誘いに乗ってしまった自分への怒りだったのだと思う。
 お姉さんには悪かった。
 あれから30年経つけど、今も同じかもしれない。
 大人だから人の好意をあからさまに拒絶するようなことはしないけど、遠慮してしまうし、
 期待すると怖くなる。
 いつもがまんしてきた。
 このがまんがなくなるまで耐えようと生きてきた。
 それが生きる理由だった。
 がまんのない世界を生きたことがないから、
 いきるとしたら自分でがまんを作らないといけない。
 がまんのない世界は怖い。
 受け入れられない。
 幸せになってもいいんだ、と自分に言い聞かせるが、何度言っても、
 底知れない怖さが襲ってくる。
 がまんが途切れたら殺されるのではないかと怖くなるし、甘えようとしたら、
 黒い雲のような罪の意識が襲ってきて自分を責める。」






しかし、普通の世界では、ほどよい緊張と我慢は、愛情によって報われる。
一方、まったくその圏外で一人で生きてきた彼は、自分で緊張を作り出して心を支えた。
もともと愛情のない世界で、愛情を期待しないという緊張である。
それは人つながっているという安心は与えてくれない。
唯一、愛情がないという恐怖を抑えてくれる。





(5)子どもから教えてもらう愛情

これから紹介するのは、虐待を受けて育った女性が子どもを産んで回復する話である。
被虐待者は人から愛されたい気持ちと、人を愛したい気持ちの両方にブレーキをかけて、人にも自分にも愛情を見せずに生きてきた。
だから、一度ブレーキを外せば、押しとどめられていた愛情は一気に流れて、新しい生き方が始まる。
そのきっかけを与えるのは人との出会いであるが、もっとも強い出会いの力を持っているのは赤ちゃんである。


■「子供がいらなくなった」と訴える母親






■子どもに「ママ」と呼ばせることができない理由



実は、自分をママと言えない被虐ママによく出会う。





彼女は、小さい頃からずっと母親の愛情を期待しながら、結局、それを与えてもらえなかった。
期待が裏切られるつづけると、次第に愛情を拒否するようになり、無意識のうちに愛情を向けられることに恐怖を感じるようになる。







■母親が子どもの愛情を受け入れる






34年間、かたくなに守っていた抑圧が壊れた瞬間である。
愛情を期待してはいけない、と厳しく自分に言い聞かせてきた戒律をゆうちゃんの笑顔が壊した。
ゆうちゃんはもちろん生まれた時から、無邪気で素直な愛情を野中さんに向けていた。
しかし、それを彼女は無意識に拒絶してきた。
愛を受け取らずに、義務を果たす、それだけが彼女の子育てだった。
おっぱいをあげる、げっぷを出してあげる、
そうするとゆうちゃんが気持よくなる。
そのゆうちゃんの反応を彼女は感じていた。
しかし、感じないようにしてきた。
泣いているゆうちゃんのおしめを交換する。
そうするとゆうちゃんが満足する。
それを彼女は、自分のことのように気持ちよく感じていただろう。
しかし、それは感じてはいけないことだった。
ゆうちゃんに対する自分の反応を、彼女はすべて棚上げにしてきた。
ゆうちゃんに愛情を感じてはいけなかった。



次第に、彼女は愛情を恐れなくなった。
素直にゆうちゃんの愛情を感じ、ゆうちゃんの愛情を受け入れ、
ゆうちゃんに愛情を与え、そして自分に愛情を与えた。




■信じようとしてきた「人とのつながり」はファンタジーだった






彼が期待してきたものは、子どもならば誰でもが母親に期待するもの、大人であっても人が一番欲しいもの、つまり、人とのつながり、安心と愛情と称賛である。
それを期待して彼は生きてきた。
父親から叩かれても、母親に分かってもらえなくても、
それは何か理由があるはずだから、あるいは自分が悪いのだから、いい子になれば、
と信じて期待をつなぎ、裏切られてもまた次の期待をつないで生きてきた。
その期待は、実現できないままにいつしかファンタジー(空想)になり、
遠い雲の上の母のイメージになった。
彼の心のファンタジーの中でかろうじて人とつながっていた。
あるいは、つながっていると信じていた。
それが彼の人生を支えていた。
ある日、ファンタジーが崩壊した。
何もなかったのだとわかった。





■再び「人とのつながり」の中へ戻る

「母とのつながり」、愛着関係を信じようとしてきたファンタジーが崩壊した。
ないものを「ある」と思って生きてきた。
でも「ない」と分かったら、同時に義務感が消え、自分を責めなくなった。
彼を縛ってきた規範がその力を失ったのだ。





■「存在そのものの悩み」は「普通の」人と共通している




「クリニックに通い始めた頃、私が初めて虐待の話をしたときに、先生に『思い込みが解ける』と言われて変化が始まった。
 しばらく前には『解決はあなたの中にある』と言われて、その言葉を繰り返していて、こうなった。」







-------------------------------抜粋終了。


















■されたことの傷、されなかったことの傷


実は私も両親に育児放棄も暴力もアルコール依存症も離婚も、そういうACに典型的な体験が無かったので、自分がACだと気づくのに苦労しましたが、
何かをされたことでACになる場合もあるけど何かをされなかったことでAC傾向が出る場合があって、私はそっちでした。



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