2014年10月26日日曜日

心は成長しない。



人間の心は、大人になっても成長しない。
心は10歳前後で成長が止まる。

10歳前後までに、どうやって心を”育てて”もらえるか。

自分で心を育てることは残念ながら、出来ない。
悩みや葛藤を溢れ出さずに注ぎ込める容量を持てるかどうかは、
心を育ててもらえるかどうかに掛かっている。








器(心)の中で処理しきれなくなったものが身体の症状(痛み)として出てくる。


症状がでるということは、【人生の苦しみ】を症状、という形に変えている。カウンセリングをすることは、症状の苦しみを【人生の苦しみ】に戻すことになる。よく誤解されがちだが、カウンセリングを受ければ幸せになれるというものではなく、【カウンセリングは人生の苦しみを突きつけるものである】。
カウンセリングとは悩みを消し去る手段ではない。カウンセリングを通して自分の心の声を聞き、それによって解決へとつながっていくのである




では、心の器はどのようにして個人差が出来上がるのか。
悩みや葛藤は誰もが抱き、誰もがもがき苦しむ。
「人間は生という病気にかかっているのだから、生きていることは辛いに決まっている」みたいなことを昔の人は言っていたが、心の器の中で対処出来てしまう人と、器から漏れ出して身体にも処理を頼むことになる人の差はどこにあるのだろか。




器は10歳くらいまでに完成する。
自己肯定感、共感で構築される。
何もできない自分でも認められる年齢を過ぎてから、器の大きさのプラスになる自己肯定感が育つことは無い。

大人になってからできることは器に入る痛みを和らげること。(NLP、リフレーミング、物事の受け止め方を改善、対人関係療法など)
痛みを解放してあげる(趣味、カウンセリング、良い人間関係)


人間は成長していくにつれて技術を身につけることは出来る。
つまり、入ってくる痛みを技術によって軽減すると言う対処法を身に付けることは可能である。
しかしながら、心の器の大きさ≒自己肯定感は、成長することは無い。
10歳前後で確実にとまる。(自己肯定感については諸説あって2歳まで3歳までとか6歳までとか、いろいろ読んだ。個人的には小学校4年生くらいまでは社会的成功を意識せずに生きていけると思っているので10歳前後まで可能だと結論付けた。テストの点数がいいとかカケッコが早いとかいうことを自己肯定感のプラスに出来るのはこのあたりまででは)
10歳前後からの社会的な成功によって得られた自己肯定感は心の器には寄与することはない。


「私は愛される存在なんだ」「私は愛されない存在なんだ」という前提条件の持ちようで世界は大きく変わっていき、人間関係も大きく変わっていく
そして、そのどちらに進むかは、10歳前後までに決まる。
このときまでに染み付いた「私は愛される存在なんだ」という感覚は死ぬまで続いていく。
「愛される存在」として他人とあるいは自分自身と接することになる。
もちろん、染み付いた「愛されない存在」という感覚も死ぬまで続いていく
この「愛されない存在としての自分」は社会的な成功によって、富や名声を得て、周りに人が溢れるようになって友達や恋人ができたところで、「愛されない存在としての自分」という感覚は「今の自分は愛される存在だからこそ回りにたくさんの人がいるんだ」とはならない。
10歳を過ぎた後にどれだけプラス材料を整えようとも、「根本的な自己肯定感=愛される存在か否か」には寄与しない。










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幼少期からの自己と他者とのずれ、その個人の生来の主張とも言うべきものと他者のそれとの
ズレであり、それはどんな個人においても他者との間に存在しているものである。
むしろ、そのようなズレをも含んだ両者の作り出す関係性から、自己感覚と他者感覚が織り成され、
その個人の生きる能動性が生み出されていくものと筆者は考える。
しかし、そのズレが大きすぎる場合、
あるいは一方もしくは双方がそのズレから生じる情緒(空虚感・無力感や怒り)に
耐えられない場合に混乱を来たし、時にはどちらかを抹消せざるをえないことにもなる。
つまり、自己と他者のズレは無力感・空虚感や怒りの情緒を生むが、
それらの情緒が双方の間に共有され抱え込まれるのならば
両者の関係性は生産的なものとなり、自己感覚や他者感覚を織り成し、能動的に生きていくエネルギー源になる。
しかし、情緒が双方を圧倒するのならば、
関係性は破滅的なものとなってしまい、お互いのズレを認知しながらも
自己感覚や他者感覚を育み、生きていく培地とはならないのである。
その結果、その個人が持っているであろう情緒を実感し言葉に表現することができず、
自己ならびに他者を見失ったまま、あるいは殺したまま受動的に生きていかねばならなくなる。
このように、自己と他者とのズレを認知し、それをめぐる情緒が個人の内のものとして
実感し言葉にできるかどうか、つまり、情緒を抱える”器”(capacity)としての
自我機能が自己と他者との関係性(情緒的コミュニケーション)の中で
その個人に育まれており、自己感覚や他者感覚が形成され、
自己の能動性が持てているかどうかによって、
精神病ーパーソナリティ障害ー神経症(健常)のスペクトラムを見、
パーソナリティ障害を捉えることができるのではないかと筆者は考えるのである。
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(パーソナリティ障害の精神分析的アプローチ 松木邦裕・福井敏  金剛出版)

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