2014年2月15日土曜日

優しさで満たされた時、子どもから大人へ


 


■「両親から受け損ねた優しさ」が”重たさ”を産む



「優しくされたい」って、なんなんだろうねー。


そんなものが与えられるのを、いつまで待つんですか、と。
来ないバスを待っていませんか、と思ってしまう。



そもそも、20歳を越えて、大切に思う人に「優しくしてあげたい」という能動的な方向に気持ちが動かないのが理解できない。
いつまで両親に与えて欲しかったものを、両親じゃない人に求めるんですかと。





いつから優しく「されたい」と思っていたんですか。
小さい頃じゃないですか?


それがずっと満たされてこなかったから、他の人より優しく扱われたい願望が強烈で他人である恋人に非現実的な優しさ(まるで親が子どもを愛でるときの無償の優しさのようなもの)を求めてしまった、二人とも幸せになれていないんじゃないですか。










人間は心が満たされれば、能動的に人と関わって行こうと思える。能動的とは何かを与えるってこと。
何かを人に与えたいと思った時に大人の仲間入りが出来る。

子供のとき人間は極めて受動的だ。子供の時はただただ愛して欲しいと願う。自然なことだ。

じゃあ、子どもはいつ大人になるのか。
いつ、受動的に愛を受け取る側から愛を与える側にいけるのか。

それは愛で心が見たされれた時。
優しさをたくさん受け取ったとき。抽象的な言い方で言えば愛と優しさが心を満たし、育てる。

愛で満たされた段階で人は誰かに愛と優しさを与えたくなる。
愛をねだる子どもから、愛を与える大人へと成長する。

逆に言えば、人の心はやさしさで満たされない限り、大人に成長できない。
優しさで満たされなければ、いつまでも子どものままで、優しさや愛を求め続ける。
しかしながら、両親以外の人間は他人なので貴方に無償の愛を注ぎ続けることは出来ない。
結果、いつまでも誰かからの非現実的な優しさを求め続ける。
受け取る喜びも与える喜びも分からない、子どもでもない大人でもない何かになってしまう。








子どもと親で言えば、子どもは愛を受け取る存在で親は愛を与えるだけ関係は成り立つ。
しかし他人同士ではどちらかが受け取るだけ、どちらかが与えるだけの関係なんて成り立たない。



もしも、20を過ぎて、ただただ愛して欲しいと渇望する側の子どもだった場合、その人は虐待やイジメ、あるいは愛を与えられない子どもに育てられた人なのかもしれない。




そうであるならば、あなたに必要なのは誰かに優しさを注がれるのを待つのではなく過去を見つめなす作業、たとえばカウンセリングに通うなどをするしかない。
過去を整理しなければ、易しさで心が満たされる快感を味わうことは永遠に出来なくなってしまうから。

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