2013年3月25日月曜日

背負わされた罪悪感を捨て去る考え方



ある日お母さんの機嫌が悪かった。

お母さんが機嫌が悪いのは子どもが悪い子なのでも悪さをしたのでもない。

旦那とケンカしたとか生理中とか仕事がうまく行かなかったとか、
お母さん側の原因でお母さんは不機嫌なのだ。


だけど、境界線問題がある家庭では、
お母さんの不機嫌さを全て子どもの責任として背負わされてしまうのだ。















◇境界線問題を乗り越える


たとえば、虐待。たとえば、父親がアルコール依存症。

こういう家庭で育った場合、ある意味で、大人になって一般的な家庭の話を聞いたりみたいすれば自分の育った家庭の異常さに気づくことが出来る。あるいは、子ども時代でも友達の家に遊びに行ったときに「自分のうちとはぜんぜん違う。これが”家族”か」というように、自分の育った家庭への違和感を持つことができる。




ただ、問題は、何をされた(暴力とか暴言)か?ではなく、
”与えられるべきものが与えられなかった”場合である。


本来、親が子どもに与えるべきものが与えられない場合、その”失われた幼少期”を自覚するにはかなりの時間を要することになる。
(異常な家庭というのは虐待や暴力など、何か危害を加えられたことを言うのだと認知されているからだ)



しかし、たとえば、安心や共感、温かい雰囲気の家庭で安心して子どもとして過ごせる、などの”子どもとして与えられるべきもの”が与えられていないと、大人に近づくにつれ、なぜか人生が猛烈に辛いと感じるようになってしまう。






その最たるものが、境界線問題だと思っている。



境界線問題で受けるダメージとは、一言で言えば
「背負うべきでない罪悪感を植えつけられてしまう」ということだ。


育った家庭で背負うべきでない無力感や罪悪感を感じるように育てられてしまうのだ。



わかりやすい例としては、ある日お母さんが機嫌が悪かった。
お母さんが機嫌が悪いのはあなたが悪い子なのではなく、旦那とケンカしたとか生理中とか仕事がうまく行かなかったとか、お母さん側の原因でお母さんは不機嫌なのだ。


だけど、境界線問題がある家庭では、お母さんの不機嫌さを全て子どもの責任として背負わされてしまうのだ。
それこそが”間違った罪悪感”の根源なのだ。











 

■境界の混乱



境界とは、自分が他の人とは別の独立した存在であることを保証するものです。
機能不全家庭では、多くの場合、境界のゆがみや混乱が起こっていたり、はっきりした境界が存在しません。

それは見捨てられ体験を引き起こす元にもなります。




境界の混乱はたとえば、次のような形で現われます。






・親が子どもを仲間として扱う


親が子どもと、まるで友人や仲間であるかのような関係をつくることがよくあります。
そして、その危険性は、子どもの年齢にふさわしくないことまで知らせてしまうのです。


不適切な情報を与えられた子どもは重荷に感じ、罪悪感さえ味わうこともあります。
これはフェアではありません。


10歳の娘に「あなたのお父さんは浮気をしたのよ」と話すことは、子どもの安全を損ないます。

母親はそのことを誰かに話す必要があるかもしれませんが、
その相手はおとなとしての能力があって適切なサポートや助言が出来る人であるべきです。

8歳の息子に職場でのポストを失う不安について話すことは、
親は弱すぎて子どもの自分を守れないと思われるだけです。











・親が子どもに責任を負わせようとする


親が自分の感情や考えや行動に責任を持たず、子どもにその責任を負わせようとすることがあります。

これは親子の境界がねじれた状態です。

たとえば、結婚がダメになったのは子どもが悪い子だったせいだと言ったり、子どものせいでストレスがたまるから酒やドラッグが必要なんだと言うのは、
子どもの責任ではないことを子どもに背負わせ、不可能な事をやらせようとすることです


実際、こうした親は、子どもが実際に持っている以上の力を持っているかのように言い聞かせ、子どもを無謀な努力と、力不足にうちのめされる体験へと駆り立てるのです。










・親が子どもに自分と同じで居るよう求める

親が子どもを自分とは別の独立した存在としてみることができないというのは、
つまり子どもの境界を認めないということになります。

親と同じものを好み、同じような服装をし、同じように感じろと言うわけです。


これは特に十代の子どもにとってはつらいことです。
その年代は自分自身を見つけるための手段として、親とは別のこうどうをとろうとするものですから。
けれどこれを思春期には良くあることだと理解できずに、親の生き方や価値観への面と向かっての侮辱や挑戦と受け取る親がいるのです。

そんなとき、子どもがどんな形であれ親と違った考え方や行動を取ると、
あえて親に拒絶される危険を冒すことになるのです。














■境界があるかどうかで体験の意味が違う


親が子どもの境界線を尊重せず、境界に侵入するとき、
子どもには一人の人間としての価値がないというメッセージを与えている事になります。

親が子どもの境界を認めないということは
「あなたは親である私のニーズを満たすためにここにいる」
「あなたより親の私が優先だ」あるいは「あなたが自分なりの感情やニーズを感じるのはよくないこと」
というメッセージを与えているのと同じです。

そしてそこには、他人の求めに応じて自分を放棄せよという意味も含まれているのです。

すると子どもの中でこんな信念が形作られます。



「人とは別のニーズや感情を抱いてしまう私はいけないんだ」「ありのままの私には価値がない」。

同じような場面を体験しても、子どもの中にしっかりした境界がつくられていれば、体験の意味はまったく違ってきます。つまり、誰が何に責任を負うのかが区別できれば、自分を傷つけるメッセージを信じ込む代わりに、拒否することができるのです。





・境界が無いと見捨てられ体験は決定的な痛みを産む


リンダは、彼女がうまれたときにはすでに家族はめちゃくちゃで、不安な毎日を送っていました。
彼女の最初の記憶は、両親が言い争いをしているのを聴きながら台所のテーブルの陰に隠れて「どうか見つかりませんように」と心の中でつぶやいていたことです。

彼女はいつも、自分の気配を消そうとしていました。

「私の家族には争いの種があふれていて、不幸ばかりで、それに何度もあちこちに引っ越していました。
 私は4人きょうだいの末っ子で、間違って妊娠して生まれた子だったんです。
 私がとても小さな頃から、母は私に、子どもは3にんでたくさんだった、4人も要らなかったのにと
 話して聞かせました。私は自分を傷つける言葉と視線を浴び続けて、身を守るための盾が必要な気分でした」


リンダのように子ども時代を生き延びるだけで必死だったとしたら、自主性や、他人とは別の自分と言う感覚を育てる余力はほとんど残されていません。

リンダはいつも見捨てられていて、感情の境界の侵害にさらされ、その結果「私はいてはいけない存在だ」という恥に満ちた自己否定感を体験し、それを心に焼き付けたのです。





子どもは、もともと、親が間違っているとか、親の行動は正しくないといったように考えないのです。
子どもは、自分にとってどうしても必要な存在である親を拒否することはできないのです。

その代わり子どもは、自分が間違っていて、悪いんだと言う重荷を背負いこみます。
そうすることで、親の誤った行動をなかったことにし、少しでも安全を感じようとするのです。



その奥で本当は何が起こっているのかと言えば、外側の安全と引き換えに、心を危険にさらしているのです。



自分の価値を育てていくはずの時期に、見捨てられ体験にさらされ、しかもその子が自分の中に境界を確立するチャンスがなければ、見捨てられたことがすなわち、「自分に価値がない」と言い聞かせることと同じになるのです。


それは自己否定感と、恐れを作り出します。
この事実は、何度も確認しておく必要があります。
なぜなら、それが私達の痛みの根っことなっているからです。


私達が今、知っておかなければならないのは、見捨てられ体験も境界の侵害も、決して私達の欠点が原因ではないし、
私達が無価値だからでもないということです。
そうではなく、私達を傷つけた人の間違った考え方や、誤った信念、不健康な行動がそこに現われているのです。
それでも、その傷は子どもの心と思考に深く刻まれて、私達は今もその痛みを感じています。
癒されるためには、心が傷ついた原因を理解し、受け入れることが必要です。
それをしない限り、痛みは去らず、おとなになってからの人生を引きずり回すものとなるのです。












 

■子ども時代に大人のスキルを学んでしまう



問題を抱えた家庭に育つ子どもは、実際のところ、かなりのスキルを身に付けます。
彼らはしばしば、他の子供が学ばないようなスキルを学ぶのです。

ほんの小さい頃から料理ができるようになる子どももいます。
感情をコントロールするのが非常に得意な子どもも居ます。
周囲の様子にとても敏感になり、人の心配ごとや嘆きを聴いてあげるのが取り分け上手になる子どもも居ます。


どうにか工夫して問題を解決し、何でも人に頼らず自力でやったりもします。
まるで大人のスキルを持っているのかのように数々の状況に対応してきたわけですが、
それでも私達は、子どもだったのです。


あいにく、家族の問題状況の中で学んだスキルや行動は、年齢からすると早すぎたし、怖れや自己否定感を土台にして身に付けたものです。

こんな場合、自分がニセモノを演じているかのように感じるでしょう。
それに、こうしたスキルは自分からすすんで学んだものではなく、目の前の必要に迫られて選択の余地なく身に付けたもの。


そんなわけで、そういったスキルがあっても柔軟性はないのです。

何をやるにしても、切迫した感じになります。
「このことを片付けてしまわなければ、きちんと正確にやっておかないといけない。間違いはおかせない。ミスをしてしまったら、何かまずいことが起こるだろうから」というように、せき立てられてしまうのです。















○回復策

 

■コースを変える

私達は大人になっても、かつてのルールを自分に課しています。
自分の感覚を信じず、裏切られないようにと身構え、口を閉ざしてこらえているのです。

古いルールに従うだけの生き方を、自由に語り、信じ、感じる生き方へと帰るには、どうしたらいいのでしょう?
世代を超えて引き継がれてきたルールのもとをたどり、それを問い直し、あなた自身の新しいルールをつくればいいのです。

そして、同時に、過去の出来事なのに今もあなたを傷つけているものに向き合って、悲しみを癒す作業が必要です。



子どものあなたがその体験から「自分には価値がない」「私が悪いんだ」と信じ込んだとしても、
それは真実ではありません。
あなたは決して、悪くなかったし、無価値でもなかった、そして今だってそうです。
私は、いつかあなたが心からいえることを願っています
「私は素晴らしい。私はこれでいい。私には価値がある」と。






■過去の喪失を探る


回復を始めるにあたっては、過去について語ることが重要です。
多くの人は、話すことにわくわくすると同時に怖さも感じますが、
中にはなぜ過去を語る必要があるのだろうと訝しむ人も居ます。

過去を思い出すことが「嫌な話を蒸し返す」ように感じられるとしたら、その体験にはまず間違いなく未解決の痛みがともなっていて、今も貴方に影響を及ぼしているのです。


はっきりさせておきますが、過去について語るも目的は、それをきちんと過去のものにするためです。
それは、親を責めるという意味ではありません。

実際、過去に立ち戻って調べてみてわかったことを親とは共有しないと言う選択も出来るのです。

人が過去を探るのは、それを誰かのせいにするためではなく、真実を発見し、認めるためです。


非常に多くの人が大人になってもまだ、子ども時代に形作られた信念によって動いています。


過去に起きた特定の出来事を振り返ることは、物事の見方を大きく転換させるきっかけになります。
たとえば、もし親が怒って私達を叩いたとしたら、子どもの見方からすれば「自分が何か悪いことをやったか」あるいは、「どこか至らなかったために、親を怒らせたんだ」と思うでしょう。


おとなの目で見直してみれば、親は自分自身に腹を立てていたのかも知れないし、生活上の何か、たとえば失業したことで頭にきていたのかもしれないと考えることができます。

子どもはか弱く矛先を向けやすいからぶたれてしまっただけで、ぶたれた理由は私達が思いこんでいたものとはまったく違うかもしれないんの出酢。





こうやって得ていく新しい気づきというのは、自分について前向きな考え方を育てていく決め手となります。

過去に戻り過去を語ることの目的は、否認を破って真実を話せるようにすることです。








 

■古い間違った信念→新しく置き換えた信念



「イエス」と言わないと弱いと思われる→「ノー」と言っても強い人間で居られる

遊んでいる時間はない→遊ぶ時間は大切だ

間違うのは私ができそこないだからだ→間違うのは、私が人間だからだ

他人の要求に応じなければならない→いつでも要求に応じる必要はない

他人の意見に従わなければならない→自分で判断して意見を言える

他人が察してくれるのを待つ→自分の望みを言葉に出来る

近づいてくる人とすぐに恋に落ちる→どれだけ親密になるか自分で決められる

間違うことを許されない→間違いから学ぶことができる

親の夢をかなえるよう奨励される→自分の価値観を育てられる

嫌なのにさわられる→望まないときはさわられるのを拒否できる




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