2013年3月4日月曜日

本音を話せないと病んでいく理由



「本音を話せない人はカルト宗教や自己啓発セミナーを受けているのと同じ衝動を毎日、
  自分で知らないうちに自分自身に与えているのでは無いだろうか?」
という疑問から考察を始めてみる。





◇苦しい対人関係パターンと宗教のやり方

自分が不快に思ったこと、嫌な感情を持ったこと、不信感を抱いた人間についての印象、
こういった人間が人間に対して抱くネガティブな感覚を、誰とも話せずに自分の中で処理ようとする…こういうことはどうやら、
人間を孤独と孤立に追い込み、精神的に追い詰めることになるらしい。





まずは次の引用を読んでみたい


・「行動」を強制されることになる。
合宿形式の自己啓発セミナーでは、
セミナーの参加者は原則として、お互いにその日の感想を交換することを禁じられる。
「それをやるとセミナーの効果が落ちる」という説明がされることもあるし、
宿泊所までセミナーを主催する側の人がついてきて、お互いの意見交換をそれとなく注意したりする。

合宿の期間を通じて、セミナーの参加者はそれぞれ個別に呼び出され、リーダーから「注意」を受ける。
お互いの口数はだんだんと少なくなり、表情が変わる人が増えてくる。




同じ構造はいろんな場所にある
こうした場をコントロールする技術は、宗教家や自己啓発セミナーの人たちが得意だけれど、企業や学校みたいな場所でも、似たような側面はあるのだろうと思う。




・心理的な隔離の効果
上司に当たる人が、組織から誰かをつかまえて、「君、なんだか評判悪いみたいだね。でも僕は君の味方だから」といい含め、
組織に戻すと、呼び出されたその人は、他の人を信じられなくなる。
メンバーに自分の評判を確認すれば、もちろん「そんなことはない」という返事が返ってくるのだろうけれど、それが嘘である可能性もあって、
「君、評判悪いみたいだね」という言葉をかけられた人は、それを否定するのが難しい状況に追い込まれてしまう。

・横のつながりは大切
「君、評判悪いみたいだね。でも僕は味方」の文言は、そう吹きこまれたチームのメンバーが一同に会して、「自分は上司からこう言われた」と誰かが発言すると、矛盾が生じて効果が失わる。とくにその場に上司その人が同席していると、今度は上司が排除の対象になってしまう。
心理的な隔離は、組織に横のつながりが復活すると意味を失ってしまう。

引用元http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/1342








『セミナーの参加者は原則として、お互いにその日の感想を交換することを禁じられる。』という部分は、まさに、「自分と同じような感情を持った人と感情を共有させない」ことで
孤独と孤立に追い込んで”人格改造”を行おうとしているのである




人間は、自分の感じ方に100%の自信を持っているわけではない。
どれだけ理不尽な扱い方をされても「もしかして、こんな感情になるのは自分だけ?」という不安を抱くものである。

その不安を解消するために「誰かと感情を共有」したり「誰かに感情を話す」ことで、「自分は間違ってないんだな」と確認することが出来るのである。


自己啓発セミナーやカルト宗教は、それをさせないことで「自分は間違っている人間だ」という思いを強めさせ、操りやすい人間を作り出しているのである。

そう考えていくと、セミナーに参加していない人のなかでも、実は、同じように、「自分は間違っているかもしれない…」という不安を
自分の中だけで処理しようとして孤独感を感じている人たちがいる。


それが「本音を話せない人たち」なのだと思う。



自分以外の誰かに肯定してもらう機会を逸している状態は、まさに、
毎日、自分で自分を否定し、自己改革を迫れている状態と言えるのかもしれない。

そして、自己否定が強まれば強まるほどに「自分は間違っている→間違っている自分の本音など隠しておくしかない→感情間隔を誰にも離せなくなって孤独感が増す」というループにはまってしまうのだ。











 


■本音を話す事が怖い人の対人関係


本音を話せない人たちは、
いくつかの特徴的な対人関係パターンを持っています。

まず、自分自身については、自分の気持ちを表現したり、
適切な自己表現をしたりすることができません。

自分の「欠陥」が露呈してしまうことにつながるような気持ちを
表現することなど考えられませんし、
自分は何かを主張する権利があるとも思っていません。

全般に、何かを希望したり主張したりすることはわがままだと
感じるので、極度に抑制しています。


また、人から拒絶されることにも敏感な人が多く、
少しでもノーと言われる可能性のあることは言わない、というケースが多いものです。


ですから、自分自身が不利な立場に立たされることも多いですし、
なんと言っても、人と本当の意味で親しくなることができません。
人と親しくなるには
自分の気持ちを打ち明けることが必要だからです。



ところが
「本音を打ち明けたり、違いを認め合って本当に友達になれる」などという人間関係を
ほとんど経験していないことが多いのです。


相手の言い分と少しでも違うことを言うと人間関係の断絶につながる(少なくとも、自分は嫌われている)と
信じている人が人が殆どです。

相手の言い分と少しでも違うことを言えない人は
相手に迎合的で曖昧なコミュニケーションしかできず、結果としては
対人関係のずれを作り出すことになってしまいます。



そもそも、表面的に相手に合わせるような関わり方では
本当に親しい関係性は作れませんから常に孤独感を抱えていくことになります。


他人の権利や痛みには敏感だけれども、
自分の権利や痛みには鈍感なのです。


自分が感じる不満については「未熟な証拠」として押し殺し
他人が感じる不満については、ほとんど「絶対にあってはならないこと」
というレベルで対処します。


少しでもネガティブな要素のある雰囲気に敏感だと言うことと
相手の反応を全て自分のせいだととらえてしまうことがその要因だと思います。






 

■人に気持ちを話せなくなる理由


第一は
自分の気持ちが他人からどう思われるかと言う不安。
嫌われるのではないか、だめな人間だと思われるのではないか、などと考える
なかなか自分の気持ちを打ち明けにくいものです。


第二は
自分の気持ちを話すことによって起こるトラブルを恐れる気持ち。

「いい人と思われたい人」はとかく
”他人からどう思われるか”という不安を持っているのと同時に
人間関係での対立が怖い、
ということもあります。
人と意見を闘わせることによって問題を乗り越えたり
深い関係をつくったりした経験がないので
「意見の対立=関係の崩壊」と考えてしまうのです。

自分の意見を言うことが生産的な意味を持つというイメージがうまくわきません。
身近な人からそのようなプラス例を学んだことがないという人が殆どです。
たとえば
父親が決めたことは誰かがおかしいと思っても
反論が許されなかった、というような家庭環境もありますし、
両親のどちらかが何かを言うと必ずひどいケンカになり、
人格攻撃へとつながって
何もプラスの結果をうまなかった、などというケースもあります。



第三には
自分の気持ちを打ち明けることで人との距離が近くなることが怖い、
というものもあります。

人との距離が近くなって「本当の自分」を知られてしまうと
嫌われるのではないか、というのは第一の不安に近いものです。

また、本音を言えない人は基本的に「ノー」といえないタイプなので
人に振り回されやすいという特徴があります。
人との距離が近くなることの不安は
相手のペースに振りまわれるのではないかということも
含まれます。
自分が不安にならないペースと範囲で親しくなれば良いのですが
「ノー」といえないと相手のペースで相手の好きなところまで踏み込まれてしまうということになります。これは確かに怖いことです。






 

■人に話を聞いてもらうことの重要性

感情は安全な人に話して受け入れてもらうと
自分でも受け入れが進むものです。
「それは頭に来た当然だよね」
「誰でも心配になるよね」
などと聴いてもらうと
自分の感じ方が変ではないということが
納得できますし、自分の現在位置の確認がさらに進みます。



 

■ネガティブな感情は頭の中で非現実的に膨張


「ただ話を聞いて欲しい」という要望は決して少なくありません。
しかし、それでは何の解決にもならず進歩がないと思っている人も多い。

しかしながら、現実は違う。

なぜ話を聞いてもらうだけで事態が前に進むのかというと
ネガティブな感情は頭の中においておくと非現実的に膨張するからです。
自分ひとりで考えていると
ネガティブな感情で頭がいっぱいになってしまって
前向きな気づきや思考の妨げになるのです。

安全な環境で口に出してみると
感情が現実的な大きさに収まっていきます。

この「安全な環境」というのが「ただ聞いてもらう」ということなのです。

ネガティブな感情が現実大に収まってくると
気持ちが整理され、それまで気づかなかった視点にも気づき
思考も前に進んでいきます。



また、他人との間にストレスを抱えている時、人はどれほど自己正当化していようと
自分の感じ方が100%正しいと思っているわけではない。
相手に対して心から腹を立てていても
そんな自分が「小さい」とか人間として未熟だとか思ったりする気持ちもあるのです。


そうやって若干後ろめたい気持ちがある場合に、
ただ自分で抱え込んでいると後ろめたい気持ちを見ないで済むように余計、自己正当化を強めなければならなくなり
ますます自分の感情に囚われていく、ということにもなってきます。

安全な相手に自分の話をして
「そんな目に遭ったの、大変だったね」などと感じ方を肯定してもらえると
「こう感じても良いのだ」と安心し、
自己正当化にエネルギーを使わないで済むようになりますから
結果として自分の感情へのとらわれがゆるみ、
客観的な見方が可能になる、ということが起こってくるのです。
そんなふうに、ただ共感的に聞くということにはとても
大きな力があります。

一方、少し口に出すとすぐにアドバイスされてしまう、
「愚痴を言っている暇があったら解決のために何かすればいいじゃないか」
「相手にも言い分があるのでは」などといわれてしまう、という状況では
安全を感じられないので
ますますネガティブな感情が膨れてしまうことになりかねません。





■他人からの評価を気にしてしまう心


私達の実に多くが、他人からの評価を気にしています。

それはしかたがないことで、小さい頃から他者による評価を気にするように育てられている人が多いからです。
「思いやりが足りない」「我慢が足りない」などと直接評価を下されている場合も多いですし、
「そんなことでは人からどう思われるか」などという形で評価を意識するように仕向けられている場合も少なくありません。
もちろん、これは、悪意ではなく善意によって行われていることが多いのですが、
その意図はどうであれ、結果として「感じる主体」としての自分ではなく、「評価される対象」としての自分を意識しながら育つことになってしまいます。

 


■どんな気持ちも受け止める

話の焦点が「気持ち」に置かれている限り、
私たちはつながりを感じるものです。
多くの心の病の課題は罪悪感、怒り、不安といった感情です。
こうした感情をうまく処理できないことが
病気の本質だと言ってもいいでしょう。

感情とうまく付き合うための第一歩はそれを認めることです。

認めなければ対処できませんし
否認された感情はますます膨れ上がっていきます。
ネガティブな感情を認めるための一番の方法は
それらを表現して誰かに受け容れてもらうことです。
問題を解決していくためには
ネガティブな感情を引き起こした相手に直面しなければならないこともありますが
まずは家族など身近な人が聞いてあげることで十分なのです。

ところが、家庭にとって
ネガティブな感情をただ受け容れるのは難しいことで

たいていは、ついつい解決してあげたくなってしまうものです。
病気の子どもがネガティブな感情にとらわれ苦しんでいる姿を
ただ見ているのはツラいからです。
「気にしなければいい」とか「そんなの、誰にでもあることだから」などという気休めが出てきてしまうのは
そのためです。家族によっては子どもの怒りに恐れをなして
とにかく謝ってしまう人も居ます。

でも、どちらも無条件の愛を伝えていることにはなりません。


無条件の愛とは
ネガティブな勘定に苦しむことも含めて
子どもの存在そのものを認めてあげることです。



 

 


■評価ばかりされると感情が麻痺する


瞳さんは摂食障害を抱えいる女性。


瞳さんについて言えば
母親から評価を下されていたことは
それ自体がプチトラウマになっていただけでなく
他人から評価をされたときにもプチトラウマとして残りやすい性格を作ってしまったといえます。

瞳さんの家では
母親は一貫して「評価を下す姿勢」を見せ続けていましたが
それは瞳さんのなかに「人は自分に評価を下す存在」という感覚を作っただけでなく
常にネガティブな評価を下すことによって
瞳さん自身の自尊心を低下させました。
母親が下す評価が、そのまま瞳さんの自己評価になってしまったのです。


一人っ子の瞳さんには他に自分と比べる相手もいませんでしたし、
他の大人が身近に居たわけではないので
母親の言動を相対化してくれる人がいなかったのです。
「あなたのお母さんは心配だから色々と言うのだろうけれど、言い過ぎね。本当はあんたはよくやっているのよ」と、
言ってくれる人が1人居るだけでも、だいぶ違ったでしょう。


批判された体験は他人に打ち明けることで相対化され、影響を減らすことができる。
ただ、そういう体験がなければ、傷が消化されずに
プチトラウマが積み重ねられていく可能性が高くなる。












■「頑張りすぎ」の人は、自己肯定感が低い


自分の方は我慢してしまうけれども相手には我慢させない、という姿勢の人は案外たくさんいるものです。
これが我慢の「頑張りすぎ」である人は多いですし、さらに顕著になると
「自分の希望は他の人の希望よりも格下」というような感覚になってしまうこともあります。

これは、自己肯定感の低さを反映したものです。
人間としての自分を、他人よりも価値が低いと感じてしまうのです。

なぜ、そんなふうになってしまうのかというと、多くの場合、生育過程で批判や過干渉され続けた、などという背景があるものです。


批判や過干渉は、「ありのまま」の否定に他なりません。
「ありのままの自分ではダメ」というメッセージを受け続けていくと、
当然、自己肯定感は下がるものです。
ですから、「○○したい」とは思うのだけれども、そんな希望を持つことがおこがましい、ましてやそれを人に伝えるなんて考えられない、
と思ってしまうのです。

希望を持つことがおこがましい、などと思うほど我慢が顕著になると「自己肯定感の低さ」として認識することが可能だと思いますが、
それほどでもない「我慢の頑張りすぎ」であっても、「自己肯定感が足りない」という要素は多かれ少なかれ見られます。

「頑張りすぎ」のもとには、「十分に頑張らなければ、人間として認められない」という感覚があるからです。
これは、「頑張らない自分はダメ」ということであり、ありのままの自分を肯定できない、自己肯定感の低さなのです。
ですから、「頑張りすぎ」への取り組みは、実は、自己肯定の道でもあります。

「どれほど頑張っても足りないと感じてしまう心」を手放して、
「自分は十分に頑張っているのだ」と思えること、それこどが自己肯定です。








 

■提案ーー気持ちを話さないのは損!

気持ちを話さないことで実際に起きるのは
皮肉なことに
摂食障害の人がもともと恐れていたこと。
まず「相手からどう思われているか」ということが
心配で自分の気持ちを言わないと
相手からは
「本音を言ってくれない、自分と親しくなることに関心がない」
「つまらない人」などいう目で見られることになり
必ずしもプラスの効果を生むわけではない。

人間関係は相手に点数をつけるためでなく親しくなって楽しむためのもの。
ですから、「完璧な人」よりも「欠点も含めて人間味のある人」のほうが好かれる


また、対立を避けるという姿勢。
相手と気持ちを話し合ったからといって
必ずしも争いになるわけではない。
むしろ関係性を深めることになりますし
説明が不十分なほうが誤解されて対立に繋がる

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