2013年4月17日水曜日

子育てを通して「境界線問題」を見直そう




◇「他人の反応を気にし過ぎる性格」と「境界線の問題」



機嫌で自分の処遇が決まるのであれば他人と関わるときに相手の機嫌を過度に気にするようになる。
次の例を見ていこう。











ーーー「幼稚園の出来事を話す」という子ども側の行動は一定


午後3時。
幼稚園の下校時間。

幼稚園児の拓君が「お母さん、きょう幼稚園でお友達とね…」と迎えに来たお母さんを見上げて嬉しそう話す。
お母さんも「うんうん、それで?」「楽しく遊べてよかったわね~」と温かい親子との会話。

次の日、いつもの下校時間のこと。
拓君は、今日もお母さんに話したいことがたくさんあります。
「お母さん、きょう幼稚園でね…」と話し始めます。
ところが、お母さんの様子が変です。
「うるさいわね、だまって歩きなさい!」とまでは言葉にしませんが、
明らかに「しゃべるな」という雰囲気です。





****






ここで、拓君(あるいは子ども)は混乱します。
「幼稚園であったことを話す」という子ども側の行為は一緒なのに、日によってお母さんの反応が違うのです。

お母さんは、その日、生理だったので機嫌が悪かったのです。


つまり、お母さんの機嫌が悪いのは拓君が「幼稚園の話をする」からではないのです。




お母さん側の問題であるのに、拓君にはそのことがわかりません。
「人間はその日によって機嫌が悪い時がある」
「自分のせいじゃないけどお母さんには不機嫌になることがある」
などという大人のルールを子ども達は知りません。


なので、「幼稚園の事を話す」という「ものさし」は一緒なのに、「お母さんの機嫌」によって、「幼稚園の話をしたときの結果」がコロコロ変わると子どもは混乱します。


そして、親の機嫌によって自分の処遇(話を聴いてもらえるか怒られるか)が決まると理解するようになると、他人の顔色を伺うコミュニケーションパターンが身についてしまうのです。













 

■親子間の境界線問題の発現



「幼稚園の話」というものさしは一定だった。なのに、お母さん側の変化が合った。

自分自身は何も悪いことをしていないのに自分を責めて常にびくびくしながら両親のご機嫌を窺うことになる。

実は、両親の不機嫌やイライラは子どもには何の関係もないところで発生していることが多いのですが子どもにはそんなことがわからない。






子どもにとって、ものさしが一定でないことは混乱を招きます。






 

■「ものさし」は「一貫性」を持たせるべき



たとえば、虐待の場合、ものさしが大人の機嫌次第で変わります
同じことをしても暴力的に怒られることもあれば、まったくお咎めなしとこともある。
そこから学ぶことは良識とか常識といったものではなく単に相手の顔色を読むことや、主体性のなさです。




思春期に心の病気になる人は、このような家庭環境が多く見られます。
一方、しつけの場合、ものさしは子どもの側の言動にあります

同じことをすれば、大人の機嫌がどうあれ、
いつも同じように注意されるのです。


良い厳しさとは「ものさし」がしっかりしていることなのです。
安全な環境の2つめのポイントは
この「一貫性」にあります。













 

 

■親が子どもに責任を負わせようとする




親が自分の感情や考えや行動に責任を持たず、子どもにその責任を負わせようとすることがあります。
これは親子の境界がねじれた状態です。


たとえば、結婚がダメになったのは子どもが悪い子だったせいだと言ったり、子どものせいでストレスがたまるから酒やドラッグが必要なんだと言うのは、子どもの責任ではないことを子どもに背負わせ、不可能な事をやらせようとすることです。



実際、こうした親は、子どもが実際に持っている以上の力を持っているかのように言い聞かせ、子どもを無謀な努力と、力不足にうちのめされる体験へと駆り立てるのです。


子どもは、もともと、親が間違っているとか、親の行動は正しくないといったように考えないのです。



子どもは、自分にとってどうしても必要な存在である親を拒否することはできないのです。
その代わり子どもは、自分が間違っていて、悪いんだと言う重荷を背負いこみます。


そうすることで、親の誤った行動をなかったことにし、少しでも安全を感じようとするのです。


その奥で本当は何が起こっているのかと言えば、外側の安全と引き換えに、心を危険にさらしているのです。









 

■境界線問題は受け継がれる



境界線問題は一人では起こらない。必ずペアが必要。
こういうお母さんは自分も境界線問題を抱えている。



お母さんが子供の時、お母さんの顔色を伺ってきた。

子どもは母親の顔色を伺うべきという境界線問題を抱えていると子どもも自分の顔色をうかがうのがあたりまえだということを無意識に行っている。
(もちろんお母さんに悪気はないのだけれども)






親の中には「境界線」の問題を抱えた人も居ます。


境界線問題とは何かというと、
それが「自分の問題」なのか「相手の問題」なのかがわからない、ということ。



例えば、過干渉というのも「境界線問題」の1つです。

ある程度のリスクを引き受けて試行錯誤するのもその人の人生なのに、
「失敗させてはいけない」と相手の領域に踏み込んで色々と行動を支持するのが過干渉だからです。



あるいは、「人の顔色を読んでしまう」というのも、「境界線問題」の1つ。
本来、自分がどんな気持ちであるかがわかるのは本人だけですし、
どうして欲しいかを伝えるのも、本人の責任ですね。


それを勝手に顔色を読んで、「不機嫌なのではないか」「本当は○○してほしいのではないか」などと気を使ってしまう、というのは一見、相手のことを考えているようですが、実は相手の領域に踏み込んだ姿勢です。



こうやって相手の領域に踏み込んでしまうと、相手は暑苦しく感じたり、
自由を奪われたと感じたりするものです。

自分が何かを言ったときに相手が不機嫌になった、という場合に
「自分が悪いことをしてしまった」「自分が空いての機嫌を損ねてしまった」という視点しか持てない、
というようなケースも、境界線問題です。

相手が不機嫌になった理由はほかにあるのかもしれないし、
仮に自分の発言がきっかけで不機嫌になったとしても、
その日の体調など、もともとの相手の状態を反映したものであるかもしれないですよね。

そういった、こちらがコントロールできない性質の話なのかもしれないのです。






 

■辛いときに自分を責めるプログラムが働く


そもそも大きな原因となる心の傷を幼年期に受けたとき、
ほとんどの人は怒りをその相手に向けずに自分自身を責めてしまいます。


それから心は異常なほど繊細となって生きますが、
それ以後、何かに付け傷つけられるたびに自分を責めてしまうのです。




たとえば、学校で強烈なイジメにあった生徒がまったく自分に悪いところはないのに「自分に落ち度があったのではないか」と考えたりしてしまうのです。
あまりにも理不尽すぎるイジメでも、相手が悪いと言う気持ちになれなくなってしまうのです。



この「自分を責めるプログラム」が家庭の中や日常的ば場面でもはたらいていると考えて下さい。
つまり、辛いことがあると子どもはいつでもそれを「自分のせいだ」と考えてしまうのです。




親に原因があったとしても、親を責める気になれないのです。




夜中に自分が布団に入ったときに、両親が夫婦喧嘩を始めたとします。
その原因が何であっても、子どもは両親の不仲をとても心配します。
その心配の程度は殆どの場合、大人が思っているものの何倍も強いのです。


そして子どもは無意識のうちに思うのです。


「自分が悪かったからお父さんとお母さんがケンカしているのではないか」
「自分なんか生まれてなければよかったんだ」
極端な話のようですが、子どもはほんのちょっとしたことでもここまでの絶望的な境地に追い詰められてしまうものなのです。





まったく無関係のことでも自分自身に責任を感じてしまうのです。




こんなふうに考える子どもはちょっとナイーブ過ぎると思わないで下さい。
幼年期の心の繊細さというのは大人の常識では測れないほどにもろく、それだけ傷つき易い存在なのです。













 

■「相手の領域」内の事情を考えてあげよう



かなり問題となってくるのは、子供以外の他人との間に境界線が引けないことです。


「自分は親としてどう見えているのだろうか」ということが不安になる時、それは子供が自分の「でき」を示すものという感じ方を反映しているのですが、同時に、他人と自分との関係性を表してもいます。


公共の場での子供の振る舞いにイライラする他人がいたとしても、それを「親である自分がうまくできていないので他人を怒らせてしまった!」としか感じられなければ、
(「自分の領域」における問題としてしか感じられなければ)、子供の行動をコントロールして他人の機嫌をとることしか考えられないでしょう。


そして、思ったように行動してくれない子供に怒りが向いてしまうでしょう。





でも、これは必ずしも、「自分の領域」の話だけではないのです。
人にとっては、「子供は騒ぐのが仕事だから、元気で何より」という受け止め方をする人もいます。
そのように人によって反応がちがうということは、
「相手の領域」の部分もずいぶんある、ということなのです。



子供の行動に他人がイライラしたときにも、
「あまり子供に寛大でない人なんだな。子供のことをよく知らないのかな。それとも、よほど体調が悪いのかな。ストレスが多い生活をしているのかな」などと、「相手の領域」内のことをいろいろ考えてあげることもできます。


すると、単に子供を「つい怒ってしまう」という反応をするだけではない、他の選択肢も出てくるでしょう。

相手を気遣って「すみません、ご迷惑をおかけして」とは言っておいても
子供を怒らない、ということもできます。



イライラした他人におびえてしまった我が子に「あのおじちゃんは、きっと頭が痛かったんだね」と言って、
恐怖に怯えないように安心させる、ということもできるでしょう。



「つい怒ってしまう」ときは、自分の「境界線問題」を考えるときでもあります。

境界線問題を改善していけば、
自分自身も生きるのがグッと楽になってくるはずです。
そんなふうに、子育てを自分自身の癒しに繋げることもできるのです。












 

 

■「境界線問題」の連鎖を断ち切ろう



こうしてみてくるとわかるように、「境界線問題」というのは、
本来、自分がコントロールできない、あるいはコントロールすべきではない「相手の領域」をコントロールしようとする姿勢のことだといえます。

中には、境界線を守ろうとする意思が全くない人も居ます。


それは多くの場合、自分自身が、境界線意識のない育てられ方をした人です。




例えば、親から虐待されて育った人は、
親から常に「相手の顔色を読みなさい」というメッセージを受けながら生きてきています。
虐待というのは、単にその人の機嫌が悪くなれば起こるもので、そこに客観的なルールはありません。


虐待されるのを防ぎたいのであれば、一生懸命顔色を読んで、大人を怒らせないようにするしかないのです。



また、虐待されたわけではなくても、「相手の顔色を読みなさい」というメッセージを受けて育ってきている人は
案外たくさんいます。




言葉でのコミュニケーションが少ない家庭に育った人に多いものです。


そして、それに従って相手の顔色を読み、
また、自分の顔色を読ませる(きちんと伝えずに気持ちをわかってもらおうとする)生き方をしていると、
それがまた子供に伝わっていくことになります。


境界線問題はそんなふうに連鎖するのです。




しかし、自分が意識することで、その連鎖を断ち切っていくことも可能です。
























<参考文献> 水島広子 怒らない子育て

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