2013年4月30日火曜日

「子どもの中の正解」に共感してあげたい!





◎まとめ

自分なりの正解を肯定してもらう=共感
共感の数と質=自己肯定感
自己肯定感が高い=相手の正しさも認めてあげることが出来る(自分の正しさを認めさせなくても自己肯定感は既存されないから)


社会の常識を受け入れていくためには幼少期に子ども独特の感覚を肯定してもらう、という土台が必要。
その土台が無いと、少しの事で自分自身を否定されたと思って傷ついてしまう。
















◇「挑戦したい」という気持ちへの共感


共感=(社会的には間違っていたとしても)あなたがそう思うなら正しいわ!と肯定してあげる



共感≠達成したい結果
共感=達成したいと言う気持ち(あるいは行動)を尊重して(たとえ大人からみれば失敗するであろうと確信できる事でも)試行錯誤させてあげる

社会の正解を知っている人であっても、子どもの子どもらしい発想に共感してあげることは出来る。

子どもに失敗させてあげるのは大人の役目。
子どもを待ってあげるのが大人の役目。
子どもが挑戦しようとすることを邪魔して大人が結果を与えようとするのは、
子どものためでなく親が子どもが失敗するかもしれない…という不安に抱えることの出来ない弱さが原因。







■社会より「子どもの中の正解」を肯定してあげたい


社会に適応できる人間に育ててあげたいというのは親の願いでしょう。
しかしながら、社会に適応する大人になるためにこそ、幼少期には社会の正しさを教え込むのではなく、
「子どもの中の正しさ」を肯定してあげることが大切なのである。
親も元は小さい子供だったからわかると思いますが、子どもは子ども独特の、大人からしたら妄想かとも思えような世界観を持っていますよね。
ビームが腕から出て怪獣をやっつける、とか社会的な正しさからいえばありえないことでも子どもは本気で出来ると信じています。
そういう幸せな世界を充分に楽しむことを経てはじめて、子どもは社会に適応するために「社会の正しさ」を学んでいくのです。

子どもの独特の世界観を肯定してあげることは共感であり、その共感という土台があってこそ、子どもは揺るがない自己肯定感を育てていけるのです。

社会的な正しさを教え込む前段階として、子どもが持つ子ども独特の世界観を親が否定して小さな頃から現実を教え込むのは、近道なんかじゃないのです。














○「自分の中の正解」を肯定してもらったか





エリカさん(34歳)は中学校の先生です。めまい、食欲不振、睡眠障害などの症状で内科を受診し、
「心理的なことが原因ではないか」とのことでカウンセリングを勧められてわたしのオフィスに来られました。




■相手の間違いを厳しく批判する心理とは?



エリカさんによると、彼女の勤める中学校は荒れた地域にあり、いじめや不登校など生徒らの問題行動が多いことに加え、先生同士の関係も悪いそうです。
彼女は、職員会議で他の先生達と言い争いになることがあります。
ほかの先生の意見に対して「そんなやり方は駄目ですよ!」とか、「それは生徒のためになりません!今すぐやめてください!」と批判するのです。


エリカさんと同じように癒されない怒りを抱えている先生たちもおり、彼らはエリカさんに感情的に反応して言い返します。
すると彼女はそれに対して「なんて言い方をするんですか!あやまってください」と返したりして、会議はまるで喧嘩の様相を呈したこともあるそうです。


エリカさんは、「他の先生が間違っているから、それを指摘している」と信じていますし、もちろん他の先生の意見が間違っている場合はあるでしょう。
しかし、彼女が「私が正しい、あなたが間違っている」と一方的にみなして相手を責めるせいで、先生達との仲は悪くなっていました。
彼女が訴えるめまいや食欲不振などの症状は、そのことから来る仕事のストレスが一因でした。





 

■「私が正しいと認めて欲しい」



エリカさんのカウンセリングが進むにつれ、彼女にも私にもわかってきたことがありました。
それは、エリカさんは幼い頃から親に、自分の正しさを認めてもらえず、「あなたは間違っている」というメッセージを送られて口惜しい思いをして育ったことです。
彼女がとくに強烈に覚えているのは、小学校低学年の時の夏安い実の自由課題を巡る出来事でした。




***


エリカさんは、夜空を眺めて星座を描くことにしました。
彼女は、星と星を思うがまま自由につなぎ、想像を膨らませて「うさぎ座」「おわん座」などを作って描きました。
それをお母さんに見せたところ、
「こんな星座はないわよ。それに、この星座もないわ」
と繰り返し訂正されたのです。
エリカさんはせっかく見つけて楽しく描いた彼女の星座を否定され、泣いて怒りましたが、お母さんは冷淡でした。

ちなみにエリカさんのお母さんは、大学で物理学を専攻した成績優秀な女性でした。

新学期になって学校に夏休みの課題を持っていくと、担任の先生は笑顔で受け取ってくれました。
しかし、のちに理科で星座の時間になったとき先生がおしえてくえる正座は、エリカさんがみつけたものとは違うものばかりでした。

そのころ、お母さんは、再び理科の教科書をみて、
「私が言ったとおりでしょう。あなたの星座は違うのよ」と、彼女に正しい星座を教え始めたのです。


エリカさんは屈辱感を感じましたし、口惜しかったのですが、そんな感情は押し殺してお母さんのいう事を黙って聞き、テストのために、「正しい星座」を覚えたのでした。



***



エリカさんは両親とのそんな経験を重ねるたびに、「私が正しいと認めて欲しい」と感じました。
そして、その願いを、大人になっても繰り返していました。






















■失敗、挫折する機会はあったか?



私達には、失敗の危機に挑戦して自分の可能性と力を伸ばし、自分の良さを発揮して自分らしく生きたい、
という自己実現を求める強烈な衝動があります。

失敗や挫折は必要なのです。
まずは挑戦し、失敗を乗り越えてついに達成したときにこそ、成功の悦び、成長の喜びが得られるからです。

何でも親が先回りしてやったり、状況を万全に整えたりしていると、子どもは失敗を克服する成長の喜びが得られませんから、
いつまでも自信は付きません。

子どもは過保護な親から次のようなメッセージを受け取ります。
「あなたは能力が低いから困難に挑戦しても失敗するでしょうし、失敗の痛手から立ち直る強さもありません。
 だから、親であるわたしの保護と力が必要です」
これでは自信が持てるはずがありません。
こうした理由から、過保護な親に育てられると、慢性的な自信欠如感を抱えて育つことになります。


さらに、「親はわたしを無条件に愛し、認め、受け入れてはくれない。親の課す条件を満たさなければ愛してくれない」と強く感じて育つほど、
失敗が怖くてものごとに挑戦することが難しくなります。











○「自己実現」の悦びを味わってきたか?


■立ってパンツをはきたかった3歳の女の子

おとなになってからも「自信がもてない」と感じる原因の多くが、
親の過保護な養育態度にあります。
子どもを過度に守ることで、誰もが強烈に持っている「自己実現を求める衝動」を実現する機会を奪ってしまうからです。
ある3歳の女の子の例を通して、自己実現を求める衝動についてお話します。




***




3歳の女の子がいる、ある若いご夫婦の自宅を訪ねたときのことです。
女の子は育ち盛りの元気な子で、部屋中を跳ねてまわって遊んでいました。


しばらくするとその子はトイレにいったのですが、戻ってきたときにはスカートの下にパンツをはかないままだったので、
お母さんがその子にパンツを渡しました。

畳の上にお知りを付けてはけば簡単にパンツをはけるのですが、どうやら「わたしも大人のように立ってパンツがはきたい」と思ったようです。


彼女は、立ったままパンツをはこうとしますが、平衡感覚に乏しく筋力も弱いその子にとって、重い足を持ちあげ立ったままパンツをはくのは至難の業でした。

何度も何度も失敗を繰り返したのち、ついには一つの穴の両方の脚をズボッと勢いよく突っ込んで、
脚がぬけなくなってしまいました。
その子は床に座り、パンツを両手で持って顔を真っ赤にしてヒイヒイ、ヒイヒイと引っ張るのですが、どうしても抜けません。


その間、お母さんは何をしていたと思いますか?
ただ、ニコニコと女の子を見守っているだけでした。


その子はとうとう涙まで流しながら苦闘していました。

そうしてついにパンツから両脚を抜くことができました。



そのあとも立ち上がってパンツをはこうとして苦闘を続け、小一時間経ったころ、ようやくパンツをがはけました。
後ろ前が逆でヘンにたぶついていましたが、彼女にとってそれはどうでもよいことで、
ついに大人のように立ったままパンツがはけたのです。
それは彼女にとって、自己実現を求める衝動を充足する成功体験になっていたのでした。

ちょうどそのとき、わたしのテーブルの上にケーキが出されていました。


女の子は苦闘のあとでお腹が空いたことでしょう。
それをみて「私もケーキちょうだい」と言いました。
ところが、あいにくその家にケーキはもうありませんでした。



お母さんが「ケーキはなくなっちゃった。そばボーロならあるけど、それでいい?」と尋ねると、
「うん」とうなずいて、その子はお母さんが持ってきたそばボーロをおいしそうに食べていました。

その子にとって、パンツを立ったままはけたことは、自己実現の悦びの体験になったのでした。
苦労が大きいほど、失敗の可能性が高いほど、成功したとき・成し遂げたときに大きな喜びを味わえるのです。

もし、その女の子が立ったままパンツをはこうとグズグズしているのをみて、親が「何をしているの!?こっちに来なさい!」と言ってはかせると、親はその子から、自己実現の悦びを得るチャンスを奪ったことになります。


子どもが助けを求めたときではない限り、親が先回りして、子どもが自分の力で挑戦するチャンスを取り上げてしまえば、「成長したい」「自分の力でやってみたい」という挑戦への欲求が満たされず、深い不満を感じることになります。






そんなとき子どもは、なぜ不満を感じるのか、自分でもわからないかもしれません。
親は自分のためにしてくれたのだから、文句を言うのは理に合わないからです。

 

 








■わがままは愛情を求める叫び


さきほどの3歳の女の子の例で、かりにお母さんが子どもに代わってパンツをはかせたとします。
もし女の子がそのあと「ケーキをちょうだい」とねだったとき、
お母さんが「もうケーキないのよ」と応えたら、女の子は怒りだしたかもしれません。
なぜなら、お母さんは彼女の「自分の力でやってみたい」という欲求を無視したため、彼女は「お母ちゃんはわたしの気持ちを大切にしてくれない」
と感じるからです。そのうえ、「ケーキちょうだい」という「私の気持ちを大切にして欲しい」という愛情欲求まで否定されたら、
「あなたにはあげる愛情はないのよ」とお母さんに言われたことになるのです。
もしそうだったら、女の子はそばボーロでは納得せず、
「イヤだー!ケーキがほしい!!」と駄々をこねたことでしょう。

そんなとき親には、子どもがわがままを言っているようにしか思えず腹がたちますが、子供の身になれば、それは親の愛情を求める必死の訴えなのです。










 

■不安のコントロールには結果よりもプロセスが重要


過保護は家族の不安の押し付けであるといえるが、
過保護な家族に、なぜそんなことをしたのかと聴くと、
「失敗したら本人が落ち込むと思ったから」「失敗したら本人が苦労すると思ったから」などという答えが返ってくることが多い。
あるいは、家族がどんどん他のやり方や可能性を指摘しまって、本人が混乱していることが多い。

家族の役割は、仮に結果が多少気にいらなくても、そのプロセスを尊重して受け入れることである。
先回りしていろいろなことを心配したり手配したりしているような家族には、何を心配するとか、いつ心配するかも、
本人のペースに任せるべきだということをよく説明する。









 


■共感と同感のちがい


では、共感できない親と共感されずに育った子どもたちについて考えて見ましょう。
辞書で共感を引くと共感とは
他人や誰かの考えや主張に「そうだね」と感ずること、
他人と自分とが同じ感覚を共有している感覚を持つことにあります。

ここが分かりづらいのですが、「共感」と「同感」は違います。
「共感」は、あくまで相手がそう感じていることを認めること。
究極的には、「私はそう思わない。あなたとは違う考えだけど、あなたはそう思うんだね」と相手の気持ちや主張を認めることです。
相手と考えが違っても良いのです。
一方の「同感」とは、「そうそう。同じ!」と他人が持つ考えや感情が自分と全く同じだと感じることです。
同じ感情を共有できる相手と近くなった気がしますね。
でも、親子、夫婦、友人など、さまざまな人間関係において、私達に必要なのは「同感」ではなく、相手の気持ちを認める「共感」なのです。
たとえ、相手の考えや気持ちに100%納得できなくても、それは何の問題もないのです。



ここまで読み進めてきて「親から見捨てられた体験」と言われてもピンとこなかったという方が多いかもしれません。
親から充分に「共感」されて育ってきたかと問われても、それがどういうことか分からないと言う方もいらっしゃるでしょう。
では、あなたは、自分の考えや主張を親から認めてもらってきたかと問われたらどうでしょうか。
あなたはそのときそのときの気持ちや感情を親から「あなたはそう思っているんだね」「そう感じているんだね」と認めてきてもらったでしょうか。
むしろ、「分かってもらえない」「言ってもムダ」と思ってきたのではないでしょうか?

実のところ、家庭で暴力があるなしに関わらず、
実に多くのACの人が親から共感されずに育ってきているのです。

人は共感されないと腹が立ってくるものなのです。
共感されることなく育ってきた人が
やり場のない怒りやイライラを抱えていたとしてもそれは何の不思議もないのです。













■共感(承認)をもらうことで揺るがない自信が築かれる


子どもは誰でもそうですが、思ったことを、感じたことをそのまま表現します。
遠慮もしなければ、お世辞も言いません。

「ママ、ママ、あのね」と何かを話そうと思って母親に話しかけます。
「見て!見て!」と、自分の素晴らしい発見を周囲の大人に伝えようとします。
自己評価、自己肯定感を育てられなかった人たちとは、こういうときに「忙しいからあっちに行って!」「うるさいわね!」と言われてきた人たちです。

さらには「そんなことで喜んじゃって」「そんなこと、大したことないよ」と言われてきました。
また、多くの親は怖いといって泣いている子どもに共感するどころか、「怖くない、怖くない。そんなに泣くようなことじゃないでしょ」と、
その素直な感情を否定してしまいます。
何かが上手くいかなかったり、気に入らなかったりして、癇癪を起こしている子どもの腹立たしさや口惜しさに寄り添うのではなく、「うるさい、黙れ」と叱責します。
友達同士や兄弟姉妹の間でケンカが起きたときにも、「そんなことぐらいで騒ぐことないのに」と、根拠なくよしの子どもや年下の子どもをかばいます。
年上の子どもや我が子の感情はいとも簡単に無視されてしまうのです。


衣食住に困ることがない。
いつも美味しいご飯やおやつが用意されている。

申し分のない養育環境を整えてくれていても心理的には誰からも寄り添ってもらえなかった。
いつも1人ぼっちだった。味方がいなかった。


それが当たり前だったから、寂しいとも思わなかった…。
というよりも、
自分が寂しいと感じていることさえ分からなかったし
寂しいということの意味さえわからなかった。
幼少期の虐待、暴力がなかったとしても
そこには見も凍るような無関心があります。

ACとは、この親の無関心によって自己肯定感を育てられなかった人たちなのです。
そのために、ACは自分を価値あるものとする自己評価が大変低くなっています。

自分に価値がないと思えば人と接することが苦手になって当然です。
そのような自己評価の土壌に、恐怖体験が加われば、人が怖くなって当たり前です。

「人が怖い」という思いの背景には、こうした明確な根拠があるのです。
そして、その「怖さ」の根底には、共感されなかったという傷つき体験が潜んでいます。
さらに、最も深いところにあるのが、人生の初期に母親との愛着関係が結べなかったことからくる傷と悲しみです。
母親に受け入れてもらえなかったという怒りです。
親に共感してもらえなかった怒りや親を信頼することができなければ
悲しみは増していく。








●参考文献
あなたの一番になりたくて ACと対人恐怖   外川智子 現代書林
「怒り」「さびしさ」「悲しみ」は捨てられる! 古宮昇 すばる舎





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