2013年3月4日月曜日

「拝啓 十五の君へ」への反論


◇言葉に反応できる経験が無ければ言葉は沁みない


「若い時の自分に大人になったあなたから、アドバイスしたいことはありますか?」
みたいな話題が春に向かって聞こえてくる。


で、だいたい
「親を大切にしろ」「親の親切をウザいなんて思うな」
「夢をあきらめるな」「もっと勉強しろ」
「恋愛に全力でぶつかれ」「友達を大切にしろ」「苦労は買ってでもしろ
」「お金は大事だよ」「生活習慣に気をつけろ」


みたいなことが、言葉の表現は違うにしろ、だいたいの”送りたいアドバイス”でしょう。





まあ、20代半ばを過ぎれば、だいたいこの中の言葉を10代(特に中高生)の自分に送りたい気持ちは痛いほど分かるようになると思う。

このうちのどれかを過去の自分に説いて行動に反映させれば、より良い人生を送れたんじゃないか?という期待をしてしまう。




ただ、である。




これらのありがたい言葉は、全部、20代からの経験に裏打ちされた言葉なんだよね。

大人の世界での経験をしてきたからこそ沁みてくる言葉なのであってモラトリアムの中で生きていた中高生に、ありがたい言葉を説いてみたところで、
「はぁ?おっさん何いってんの!?」って、過去の自分は、ありがたい言葉をくれる現在の自分に向かってツバを吐くでしょう。
親の偉大さも、お金の稼ぐ難しさも、苦労は財産になることも、ぜーんぶ、そういう気づきを得る経験を経てこそはじめて、言葉が”腑に落ちて納得できる言葉”として、自分の中に染み渡っていくんだと思う。



だとすると、「過去の自分に言ってあげたいこと」というのは、過去の自分にとって見れば”ウザい存在”以外の何者でもないんですよ。
だから、過去の自分に何を語りかけようとも、やっぱり過去の自分は同じような道を歩むだろうし、自分以外の自分なんか存在しないわけですよ。


だいたい、上記のような”ありがたい言葉”は、実は、現在の自分が説かなくても、10代の時学校の先生とか国語の教科書とかテレビの芸能人とかスポーツ選手が言っているのを耳にしているはずなんですよね。
でも、その人たちの言葉は見ガから左に流れていっている。それっていうのはやっぱり”言葉を裏打ちする経験をしていない”からなのではないだろうか。



ただ、「過去の自分に言いたいことはありますか?」という質問で学んだことは、
「その人に、言葉が響くためには”世の中の大きさを知るための経験”が必要」ということ。

経験のないところに”ありがたい言葉”を畳み掛けたところで、暖簾に腕押しなのである。

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