2013年3月16日土曜日

あの人に、そこまで期待できるの??




◇喜怒哀楽を、どこまで付き合うか


楽しいことは誰とでもある程度、共有できる。
ゲームでもスポーツでも、楽しいと思えることは沢山の人と共有できるし共有することを苦に感じない。


ただ、苦しいことや真剣なことは、誰とでも共有できるわけでもないし
相手の苦しみを支えてあげたいと思うとは限らない。



自分が苦しいとき、相手に「支えて欲しい」と思っていても、相手は「喜楽は共有したいと思っているけど怒哀は面倒だから勘弁して」と思っているかもしれない。







こんなふうに、「自分から相手への期待」と「相手から自分への期待」がすれ違っていると、
互いに傷つく場面が増えてしまいます。

期待の交通整理し、その期待は現実的に持っていても良いものなのかどうかを検証することが
上手な人間関係の距離を作ることになるのでは、と最近は富に思う。


もちろん、距離をとったほうが良い人間関係も場合によってはあるということ。
無理に近づこうとするから、疲れ果てる。



 

 




■<対人関係上の役割をめぐる不和>の症例  


過食嘔吐、度重なる自殺未遂、という症状で受診した五月さん。
生きているがあまりにも辛いため、治療を受ける気持ちにもなかなかなれません。



五月さんには恋人がいて、病気の事も全て知っています。


五月さんは気分の浮き沈みが非常に激しいのですが
調子が悪いときに彼は「毎日だ、こっちも疲れちゃうよ」と言い、
そう言われると五月さんは
「私は彼に迷惑をかけている、こんな迷惑な存在は死んだほうがいい」
といって、手首を切ったりしています。



このようなパターンを最初から「対人関係の問題」として捉えられる人は多くありません。


五月さんもそうだったのですが
「自分の問題。自分さえよくなれば、彼も楽になる」としか考えられないのです。



実際には、このパターンは
「お互いの期待がすれ違っている状態」であると言えます。




五月さんはまだ認識できていませんが、「調子が悪い」というメッセージを出すと言うことは
「助けて」という悲鳴なのです。
そこで彼に期待されている役割は「病気で不安定な五月さんを支えてあげること」になります。



ところが、現実の彼は「毎日だと、こっちも疲れちゃうよ」と言っているわけですから
期待されている役割を果たしておらず、せいぜい「五月さんの調子がいいときは一緒に楽しく過ごす」
程度の役割しか認識していません。


そして、五月さんには「症状を自分でコントロールする役割」を要求しているのですが
それは五月さんには不可能なことなのです。



これを「五月さんの問題」ではなく、
「彼との関係の問題」としてとらえ直してもらうためには
しばらく時間がかかりました。


まずは彼とのトラブルと症状との関連に気づいてもらうところから
はじめました。




彼とモメると自傷行為が起こり、過食嘔吐もひどくなる、
という関連は明らかだったため、彼にも関係のある話であることが
五月さんにも分かってきました。

そして、五月さんに、もっと効果的な方法で彼に気持ちを伝えてもらうようにしました。
「どうせ私なんて迷惑なんでしょ」と手首を切る代わりに
「そういう言い方をされると見捨てられるように感じる」というような言い方をしてもらったのです。


その結果、彼は思っていたほど優しい人ではないことがわかりました。





彼との関係をこのまま続けるのが自分にとって良いことなのかどうかを五月さんは思い悩んでいましたが自分の調子が悪いときに、どんなにわかりやすい伝え方をしても彼の反応が「冷たい」こと、自分は子どもが欲しいけれども彼は子どもが嫌いなことなどを一つ一つ考えて、最終的には彼と別れる決意をしました。


不思議なもので、この瞬間に、彼女はずっと続いていた引きこもり状態から脱することができました。


別れは彼女にとって辛く、何度か症状のユリ戻しがありましたが
「元に戻るとどうなるか分かっているから」と固い決意で前に進みました。









 

 


■重要な他者が変わってくれなかったら


ーー症例 希さん


「過食を伴う拒食症」の希さんは、母親にずっと暴行などの虐待を受けてきました。
殺されそうになったこともあります。


母親は一応世間体を気にして治療に同伴してきましたが、
「三人子どもを産んで、病気になったのは、この子だけです。
 上の二人はちゃんと育っているのですから、私の子育ての問題ではなく、この子ができそこないだということでしょ」などと希さんの前で言ってしまいます。

また「この子を生んだのは失敗だった。だから子どもは二人でいいって、主人に言ったんですけど」
と、これまた希さんの目の前でため息をつきます。




希さんは目に涙をためて聴いていますが
後で「母はいつもああなんです」と言います。


そして、母親は
「もう時間の無駄だから希のために病院になんか来ません。
 病気で死んでくれたら、かえって助かります」と治療にも姿を現さなくなりました。

希さんは「実の母親にここまで嫌われるなんて、私はやっぱり出来損ないの人間なんだ」と言い、
母親に愛されない限り自分の病気は治らないと思い込んでいました。


あまりに攻撃的な母親に啞然となりますがが
今度は父親を連れてくるよう希さんに頼みました。


単身赴任をしていて事情を把握していない父親でしたが
面接に同席することで現状を知っていきました。


「今の妻は、とても病気の子どもの面倒を見られる状態ではない。
 親として許されないことを希に言ってしまう」ということに気づきました。




父親は、母親から離れたところで希さんが安心して暮らせるように
したい、と家を出て、希さんと二人でマンション住まいを始めました。
希さんは、父の経済的・物理的負担に罪悪感を抱きましたが
父がそこまで真剣に自分のために動いてくれたことに感動もしていました。



希さんのコミュニケーションの練習などは父親と行い、進歩しました。



また、母親については「温かい母親として自分を愛してくれる」
という期待を見直しました。
「温かい母親像」にお別れをして、できることしかできない実物大の
母親として認められるようになりました。











 

 


■親自身も癒されていないことを受け入れる


重要な他者が変わってくれなかったら、という心配は
実際にはそれほど問題になりません。

ただ、変わる力を持っている人でも、色々な事情から今はその時期ではないと言うこともあるでしょう。

「重要な他者」自身も病気で苦しんでいるケースもあります。


摂食障害の親の会などで、自分も癒されていなかったということに気づく親御さんは多いようです。
自分自身が親との確執をそのまま子どもとの関係に引きずっていたり、
夫婦の不和の解決を子どもに求めたり、離婚で受けた心の傷をカバーするために
子どもの「お受験」に熱中したり、仕事を辞めた自分の満たされなさから子どもを
「いかに自分がよい母親か」を証明する道具として育てたり、という具合にです。


また、完ぺき主義の人は子育てにおいても「完璧」を目指しますが
自分にとっての「完璧」にすぎず、
自分がハマって欲しい金型に子どもを完璧にはめ込むだけなのです。


もちろん、子どもの個性は親の金型とは違いますから
はまりきらずに飛び出すか、「自尊心」が低下し何らかの病気になるか、
ということになってしまいます。
本来の問題とはちがうところに解決を求める、という点では、親も子も同じです。


摂食障害の人たちが「痩せさえすれば満足できるのではないか」
と必死で身体にプレッシャーをかけるのと同じように
親たちも「子どもを思い通りに育てさえすれば満足できるのではないか」と
必死で子どもにプレッシャーをかけているのですから。


でも、摂食障害同様、親の問題も、もともとの領域でなければ解決しません。



親との確執を位置づけなおし、夫婦の不和は夫婦間で解決し
離婚で受けた心の傷を直視して癒し、子育て以外に自分の存在意義を見つけ、
自分の完ぺき主義の裏側にある不安を認める勇気を持つことです。


実は親も子ども同じようなパターンに陥っているわけですが
自分の問題に気づくのは親のほうが難しいことも少なくありません。

子どもには病気の症状が出ているけれども親には「子どもをコントロールしたがる」
という症状しか出ていないので問題が分かり難いと言うこともあります。


しかし、それだけではなく、子どもが病気になってしまうと
すべてがそれを中心に廻り始めるので、とても自分の内面に向き合う余裕を
もてないということもあるのです。


親の中の癒されていない部分は、子育てに影響を与えます。

これは、癒されていない親は良い子育てが出来ないという事を言いたいわけではありません。
完全に癒されている人間など、まずいないでしょう。
大切なのは、自分に癒されていない部分があることを認めることです。


自分の弱い部分を否認しない受け入れれば、子どもの弱い部分も正面から受け入れてあげることができます。
そして、共感をもって子どもの話を聞いてあげることができるようになるでしょう。





子どもの側も、親がなぜこのように自分をコントロールして育ててきたのか、
という事情がわかれば、親を許しやすくなります。

親が決して確信犯ではなく、悩みながら迷いながらその時々で
自分なりのベストを尽くしてきたにすぎないことを理解することができるからです。


そして、人間全般に対してもう少し柔軟で寛容なものの見方ができるようになり、
病気になった自分のこともだんだんと許せるようになってくるのです。

「自分の事情はちゃんと子どもに話してきました」とおっしゃる方もいますが
その話し方は往々にして子育ての正当化であって、
一人の人間として自分の弱さを認めるような話し方にはなっていないものです。

「親はいつでも正しくなければならない」という恐れを一度手放してみると
子どもとの距離がグット近くなります。

自分には特に問題がないと思っていた親でも、
子どもの治療にずっと付き合っているうちに自分の問題に気づくこともあります。


私の患者さんのお母さんでも「夫に話しても分かってくれないからはなさないのが一番」と
開き直っていたのが、娘がコミュニケーションを通して安定していく様子を見て
「私も夫に話をしてみたら、少しは関係が改善したような気がします。これからは私も言ってみることにします」といってくれた人もいました。



親にとっても、子どもの病気は自分が変わるチャンスなのです。










■大切な相手に病気の事を伝える


苦しんでいる人でも大切な相手には何も伝えていない、というケースが案外多いものです。

なぜ、伝えられないかと言うと、相手が親の場合には
「伝えると叱られる、心配されるから」などというのが理由が圧倒的です。

一方、相手が恋人や配偶者の場合には
「伝えると嫌われるから、伝えると軽蔑されるから」とい理由が多くなります。


「重要な他者」の協力が得られないと治療ができません。

また、「叱られるから、管理されるから、心配されるから、嫌われるから、軽蔑されるから」
という理由で相手に肝心なことが話せないと言う行動パターン(「心配性」)によるパターンを扱うことが治療の中心になります。

ですから、治療の第一歩1歩として、必ず「重要な他者」に病気の事を伝えてもらいます。

病気について伝えることについて患者さんの抵抗が最も強いのは恋人です。
「食べ物を吐いていると言うことが知られたらふられてしまうのではないか」
などと心配になるからです。


恋人に病気の事を打ち明けて振られたと言う人は殆ど居ないはずです。


むしろ、「そんな大切なことをなぜ伝えてくれなかったんだ」と自分が信用されていなかった
ことを責めたり、「何となく気づいては居た」と改めて納得する人もいたり、
今までの奇妙な言動の理由がやっと分かって安心した、という人も居ます。



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