2013年3月16日土曜日

双極性障害(躁うつ病)をゆっくり受け容れる



◇双極性に完治は無い。寛解≠完治


良くなることを『寛解』と言いますが、再発しやすいため、まず、
一生にわたって予防として薬を飲まなくてはいけません。

一生定期的に通院し、薬の副作用に悩み、薬によっては飲んではいけない飲み物を避け、運転もできません。
生活のほとんどが制限されると言っても過言ではありません。


http://www4.plala.or.jp/tadamame/disorder.html











 

■双極性障害を受け容れる事の難しさ


双極性障害を発症することはその人の人生を大きく変える事になります。

誰の目にも躁状態の異常さが明らかな双極Ⅰ型障害では
それはあまりにも明白なところです。

Ⅱ型でも、軽躁状態はむしろ気分よく感じられたとしても
うつ状態の繰り返しという重い苦しみを背負うことになります。




たとえば、20歳で人生は前途洋洋というときに突然
躁状態に陥り、自分は極めて正常だと思っているのに精神科に入院させられて
「あなたは双極性障害です」という診断をうけ、
症状は短期間で落ち着いているのに「これは、一生付き合っていかなければならない病気です」
と言われることの衝撃を考えてみてください。


その事実を受け入れることがいかに難しいか容易に想像がつきます。




病気を受け入れることが難しいのは双極性障害だけではありません。
特に精神科の病気は全般に受け入れるのが難しいものです。

これは精神科の病気への偏見のためでもありますが
同時に、病気の症状が主観的なものを中心としているため
「ちょっと疲れているだけかもしれない」「気にしすぎているかもしれない」
と否認を生みやすいのです。
(これは、周囲の人たちついても同じことで「気合で何とかしろ」という要求につながります)



特に双極性障害の場合、エピソードとエピソードの間は原則として無症状になるので
「なかったこと、単なる一過性の不調」にしたくなる誘惑に駆られるのです。

また、若くして発症する上に治療上気をつけなければならないことがたくさんある
(薬を欠かさず飲む、薬の血中濃度の定期検査、生活を規則正しくすることなど)



 

 



■双極性障害とは


「躁状態とうつ状態という2種類のエピソードを繰り返す病気」です。
エピソードとは専門用語の解釈では
「ある一定期間に、始まりと終わりがある一連の症状が出る」という特徴を現します。


慢性的にずっと同じ症状があるわけでもなく「症状が出る日」が時々あるというわけでもなく
躁状態がはじまったのはだいたいいつ頃で、だいたい、いつ頃まで続いたか
ということを特定できるのが「エピソード」です。


ですから、双極性障害の方の病歴を振り返ると
「躁状態だった時期」「うつ状態だった時期」をほぼ明確にすることができます。


 





■軽躁状態(軽躁病エピソード)


「持続的な気分の高揚状態が少なくとも4日間はっきりと持続するもの」です。

質的には躁状態と同様ですが、程度は軽く、社会的に大きな問題を起こすことも無く入院が必要になることもありません。幻覚や妄想がでることもありません。


 



 

■うつ状態(大うつ病エピソード)


「ほとんど一日中、ほとんど毎日の抑うつ気分」か
「ほとんど一日中、ほとんど毎日、ほとんどすべての活動における興味や悦びの著しい減退」
のうち、少なくても一方が基本的な症状としてあります。


それに加えて、身体面の症状、思考面の症状が二週間以上続く状態です。

単なる「気分の落ち込み」ではなく、
「気分、身体、思考の症状がそろって2週間以上続く」ことが診断のポイントです。



※身体面の症状
不眠、食欲低下、疲労感など(非定型うつ病の場合は逆に食欲は亢進し、過眠となる)
※思考面の症状
自分には価値がないという感覚、過剰な罪悪感、自殺したいと言う気持ち(生きることへの絶望感)など











■混合性エピソード


「少なくとも一週間のほとんど毎日、躁状態(躁病エピソード)の基準と
 うつ状態(大うつ病エピソード)の基準をどちらも満たす状態」です。
やはり入院が必要になったり、幻覚妄想が出たりします。






 

■寛解≒飼いならす


いくら努力しても無縁になれないという意味で
双極性障害は人に無力感や絶望感を引き起こしやすい病気です。

治療目標が「完治」ではなく「エピソードが出てこないように、病気を飼いならす」
におかれるわけですから、すっきりしません。



このような病気をすぐに受け入れることは不可能でしょう。


また、病気の受け入れと関連するテーマですが
「治療の必要性の受け入れ」という問題もあります。



特に双極Ⅱ型障害の人に多いのですが
うつ状態は治して欲しいけれども軽躁状態は気持ちがいいので
なかなか手放したくないと思われることがあるのです。




軽躁状態のときの自分こそが「本当の自分」であり、
それ以外のときの自分は「死んでいる」と思っている人がいます。

また、躁状態で頭が冴え渡る体験をした人にとって
「薬が効く」ということは、客観的にみたときの「落ち着く」というポジティブなイメージとは
異なり、自分があらゆる能力を失って、鈍い、つまらない、生きる価値のない人間になったように
感じられることもあり、それ自体は決して幸せな体験ではありません



そもそも、軽躁状態・躁状態と、薬の副作用は、単純に比較すればくらべものにならないくらい前者が快適です。

だんだんと薬を飲まなくなるのも、それが原因だという人が結構居る。


患者さんを苦しめているうつ状態が軽躁・躁状態とセットの病気えあるということを学び、
病気が自分の人生や周囲の人達に与えている影響を振り返っていくことによって
躁状態・軽躁状態を手放していくことの総合的な価値を認めるプロセスを踏んでいきます。











■なぜ治療継続の動機付けが難しいのか


双極性障害の場合は、いくつかの理由によって病気の診断の受け入れが困難になります。


一つは、双極性障害「精神科の病」だということです。
まだまだ偏見は強い者があります。
「おかしい人間、弱い人間」という目でみられることもあります。
また、単極性のうつ病であれば、
「ストレスを軽くすればうつ病にならないかもしれない」
「劣悪な職場を辞めれば、元気になるかもしれない」という希望が持てますが、双極性障害の場合は、基本的に「一生のお付き合い」になります。

「ストレスによる一過性の問題」ではない「病気」というイメージは、ぐっと強くなるでしょう。

社会に偏見があるのと同じように、患者さん本人も精神化の病に偏見を持っていることが
多いですから(診断される瞬間までは社会で暮らす普通の人だったわけですから当然です)
「まさか自分がかかるなんて」と、認めるのが難しくなってしまうのです。


双極性障害の方のなかには、もともと「気分屋」だった人も居ますので
いつものクセがちょっとひどくなったくらいで病気ではないと考えようとしたり自分のケースは精神化の病などというものではなく
もっと複雑で奥の深い問題なのだと考えたりします。



家族に双極性障害の人がいて、それなりの覚悟していたという場合には受け入れが
早いこともありますが、その家族の治療がうまくいっておらず、
病気に振り回されてネガティブな気持ちを強く持っている場合は
「同じようになりたくない」と、受け入れることがさらに難しくなることもあります。



いった、精神科の病気であることを認めても、少しでも調子が良い時期が続くと、
「治ったという事ではないか」
「自分の場合は、もう大丈夫なのではないか」と思い焼くなるものです。


そして、双極性障害の場合、実際にエピソードとエピソードの間は
原則として無症状になりますので本当にそんな気になっても無理はありません。


特に初めてのエピソードが躁で薬物療法に速やかに反応した場合、それは単なる「一過性のもの」であって、
とても障害にわたる病気の始まりには思えないものです。


これは、人間として当然の心情です。


でも、そのようにして、気分安定薬をのまなくなってしまうことが
次のエピソードにつながり、
病気の経過を悪くすることになるのは言うまでもありません。





「いかにして病気を受け入れるか」ということは大きなテーマです。




双極性障害の場合、「病気を受け入れる」ということは
たとえば癌のときに寿命を意識するのとはまた違った心の動きを産みます。

薬を飲むことを含めて、さまざまな「不便なこと」を受け入れなければならない、ということです。
薬の副作用がきになる場合には、特に「不便なこと」は増えます。


リチウムは、血中濃度を適正範囲に維持するように飲み続けなければなりませんので
血中濃度を定期的に測定しなければなりませんし、
手の震えという副作用が、職業的にかなりのダメージになる人もいます。











■否認をどう乗り越えていくか



しかし、双極性障害の場合は、否認のまま長い年月を過ごしている人も居ます。
もちろんそれは、その人の病気の経過、ひいては人生の質を大きく損ねることになるのですが
事情がややこしくなるほど、「否認」にしがみつくこともあるのです。


双極性障害のために職や家庭を失った、というような場合には
「こんな病気にさえなっていなければ」という思いから、
ますます「否認」が強まることにもなります。


なかには「自分は特別な人間なのだ」という妙なプライドに頼って現実を否認している人も居ます。


これも「現実を全然分かっていない、何様のつもりだ」と批判的に見るのではなく
それほど受け入れるのが大変な病気なのだと理解しなければ道が開けません。



双極性障害が生涯にわたる病気である以上、どこかの時点で腹をくくって診断と治療を受けれていかなければならないのですが、
そのための「儀式」が「健康な自己の喪失」という枠組みにおける悲哀なのだと思います。


今まで当然のものだと思っていた自由や可能性をもった自分は「死んだ」と考えるのです。
そう考えれば「否認」にとどまっていられなくなります。



「健康な自己の喪失」に対して「否認」にしがみついているときの構造は
大切な人を無くしたときの否認と同じです。

大切な人は亡くなったのに、その辛い現実を受け入れることができずに
その人の持ち物も全く整理しないで
あたかもその人が生きているかのように暮らしている人たちは
現在の生活を生きることができなくなってしまいます。


今の生活で自分を支えてくれる人間関係も作れず、生活の楽しみも見出せず
社会の一員としての所属感も感じられず、多くがうつ病に苦しむことになります。


「健康な自己の喪失」を瀕してしまうときも同じで
今の生活で自分を支えてくれる人間関係も作れず、生活の楽しみも見出せず社会の一員としての所属感も得られず
そして、双極性障害の次なるエピソードの高いリスクを抱え続けているのです。


双極性障害の場合、「健康な自己の喪失」を受けいれて悲しんだ後の「現在の生活」というのは
「双極性障害という病を受け入れて、うまくコントロールしていく生活」のことです。



「コントロール」というのは、薬物療法のことだけでなく、
社会リズムの安定化や、支えてもらえる人間関係づくりも含まれます。
いずれも双極性障害という病を受け入れなければ不可能なテーマです。
「悲哀」のプロセスを進むことで
一刻も早く、そして、本当に納得して、現在の生活に集中できるようになる必要があるのです。






 

 


■合併症は容易に起こる



双極性障害の方が摂食障害を併存していることは少なくありません。
この二つの病気が同時に発生すると、病気そのものの苦しみが増えるだけでなく
病気のコントロールも難しくなります。

たとえば、リチウムという薬は、治療量より少し多く飲んだ程度でも中毒を起こす薬です
(そんな薬はほかにほとんどありません)。
身体がひどい脱水状態になったりすると、薬の血中濃度がそだだけ高まり、中毒のリスクが高まるのです。


摂食障害の人のなかには、水を飲むことも嫌がる人も居ますし、強迫的に運動して多く発汗したり激しく嘔吐したりする場合には、それだけ水分代謝が変動しますから、リチウム中毒になるリスクが高まります。


反対に、食べ吐きがあると、薬が吸収されず、薬効が期待できない。



過食症と双極Ⅱ型障害を併存している人の中には
軽躁状態の時に過食が減り、うつになると過食が増える、というパターンを繰り返している人も居ます。

そういう人にとって、軽躁状態を手放すのは、通常以上に難しいことになります。
過食はとても嫌な症状ですし、軽躁状態のときにはダイエットが成功したように感じられてしまう。



また、双極性障害の方が摂食障害になるのは
うつ状態に対する自己治療の試みであることも少なくありません。

ダイエットをして痩せれば自信がついて気持ちが明るくなるだろうと思うのです
(実際には、自信がつくどころか、単に2つの病気に苦しむ結果になります)
そんな「自己治療」に走らないためにも、きちんと祖極性障害の診断を受けて、正しい治療を受ける必要があります。






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参考文献:
対人関係療法でなおす双極性障害 水島広子   創元社


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