2013年1月7日月曜日

「俺を怒らせる気か!!」




◇不機嫌なのは子供が悪い子だから?

親は自分の生まれる前から不機嫌だった。
親が不機嫌なのは親の情緒未熟性が原因であって、
自分と言う存在が原因ではない。

それなのに、あたかも自分という存在が原因であるかの如く、
親は自分を責めた。

それだけに他人の感情に責任を感じるというおかしな感じ方が自分の中に根付いてしまった。
そうなると、どうなるか…
大人になっても相手が満足していないと、それを自分の責任と感じてしまう。



■私は自分の感情をコントロールできません!!


たとえば、「俺を怒らせる気か!」という言葉はたいへん興味深い言葉だ。
なぜなら「怒らせる」という表現は「相手が自分の気持ちをコントロールしている」と言っているのだ。
責任転嫁でもありますが、自分の気持ちを自分でコントロールできないと告白しているようなものだからだ。

実際には、同じ状況で全ての人が怒るわけではない。
だとすると、ある事象について怒っているのはその人自身で、
その人の考え方やそれまでの生き方の問題であると考えることが出来る。

 

■親の「境界線問題」を背負う子供たち


ただ、親側の感情コントロールの未熟さに、子供は翻弄されてしまうのが大問題なのだ。
その人だかなら、勝手に未熟な人間のままで居ればいいのだけれど、子供が犠牲になる連鎖はいただけない。

このような家の子供は、「自分は悪い子で親が不幸に感じているのは自分のせいだ」と感じることが多く、
そのことは子供にとって最大の罪悪感になってしまう。

 

■親の境界線の問題


このような問題を抱える人は
どのような環境で育っているのか、というと
親も境界線の問題を抱えていることが多い。

よくDVや虐待の加害者が
「相手が自分を怒らせた」という言い方をしますが
これも「境界線」問題の顕著な例の一つです。
自分を怒らせないように気を使うのは相手の責任、
というような考え方は
まさに「境界線」の深刻な障害であると言えます。


暴力の加害者にも関わらず「お前が怒らせたせいだ」と
言われてしまうと、本来自分の責任ではないことまで自分の落ち度だと感じてしまい、
自尊心が低下する。


そして、「相手を怒らせないように気をつけなければ」と
境界線の引けないコミュニケーションパターンを続けてしまうことが多い。


自分自身が「境界線」問題を抱えていると
往々にして同じ視点を子どもに求めます。
「あの人の機嫌が悪かったのは、あなたが何かしたからではないか」
というようなことを言われ続けて育つ子は、当然のこととしてそのような視点を
自分でも身に付けていきます。

一方、「あの人は不機嫌で辛そうね。何かあったのかしらね」と
親が言うのであれば、子どもも同じようにとらえるようになります。

また、何か言うたびに親が「お父さんのせいだと言うのか?」
というふうに自分に関連付けて反応してしまうような環境では、
子どもは常に「こんなことを言ったら相手にどう思われるだろう」と
心配するようになります。

つまり、相手の機嫌にのみ、左右される毎日になってしまい、
相手の機嫌ばかり気にする性格や考え方が定着してしまう。


■顔色を読んであげないといけない親


大人の顔色を読まなければならない環境で育つと
なぜ境界線をひくことが難しくなるのでしょうか、
それは、「自分が相手にどうして欲しいのかを表現するのは自分の責任」という
考え方が身に付かない、からです。

親が「言わなくても自分の心を察して欲しい」というタイプの人だと
子どもは顔色を読むようになり、
親が感情的に怒るようなタイプの人でも子どもはやはり親の顔色を読むようになる。

なぜかというと、「自分が何をしたか」で叱られる子供は
自分の価値観と自尊心を育てることができるが
「親の機嫌がどうか」で叱られる子供は
相手の顔色を伺うようになってしまうからだ。

相手の機嫌という判断の基準がなくなってしまうのだ。

これは例えば、親がアルコール依存症というような場合も同じことがいえる。。

親がどのくらいアルコールの影響下にあるかで反応がガラリと違うからです。
いつ地雷を踏むのか分からないので
常に親の顔色を窺いながらビクビクしていなければなりません。

大人の顔色を読まなければならない環境で育つと、
なぜ境界線を引くことが難しくなるのでしょうか。

それは「自分が相手にどうして欲しいかを表現するのは自分の責任」という
考え方が身につかないからです。

相手の不機嫌が本当に自分のせいだったら
相手がそれを伝えるべきなのです。
うまく言えない人もいるでしょうが
それはその人の問題で
その人自身の課題として努力していく必要があるのです。
それを「自分が読み取ってあげなければならないこと」と思うことは
相手の成長の機会を奪うことにもなる。

自分側の問題を「相手の責任だ!」といって、相手に丸投げするのは、まさに病気と呼んでも良いかもしれない。

また、そのような考えがちな人は
他人にも同じように求めます。
自分がどうして欲しいかを表現しなくても相手は察するべき、というふうに思ってしまうのです。
そして、そうしてもらえないと
「相手は自分をないがしろにした」と感じてしまうのです。

これもまた大変ストレスのたまる受け止め方で対人関係のトラブルにつながる。

意図しない”自己犠牲精神”で生きる人生は
事故不在の虚しさに悩む日々を呼び込んでしまうかもしれない。



 


■一貫性の無い親に育てられたら


子どもの精神的(心=感情)の成長に必要な環境的要因は「一貫性」だ。

ものさしが大人の機嫌次第で変わると戸惑う。
同じことをしても暴力的に怒られることもあれば、
まったくお咎めなしとこともある…
そこから学ぶことは
良識とか常識といったものではなく
単に相手の顔色を読むことや、主体性の無さ。

良い厳しさとは
「ものさし」がしっかりしていることなのだ。

親の言うことがしょっちゅう変わる家では
子どもは何を信じて何に従ってよいかがわからない。
子供が精神的に安定した人間に成長するためには、一貫性のある生活が必要。

言動に一貫性のない親を持った子どもは
安定した人間関係について学ぶ機会がありません。

親に一貫性が無い家庭では、家族の間に深みのある人間関係が
育つ余裕がありません。


そういう家で育った人は、ほとんど必ずと言っていいほど
人付き合いや愛情関係に自信がなく
また人に対して依存的になる傾向が増す。



彼らが人に依存的になるのは、ちょうど、自分がもつことのできなかった
心の安定した親を探しているようなものです。


一貫性の無い親の元で育った人は、内面に強い孤独感を持っているようです。

彼らは人との温かな接触や人間的な関係を渇望していますが
その一方で、人を信用することがなかなかできません。

さらに、一貫性の無い親は「自分の行動は正常で、他の人のほうが間違っている」と子供にいうことがあります。
子供は内心、「家の中で起きていることは異常だ」と感じていても、
親は「そうではない」といい続けるわけです。
そのため、子供は自分の感覚を信じるか、それとも親の言っていることを信じるか、
という二者択一を強いられます。

前述したように、
特にまだ幼い子供は、たとえ自分が受ける感覚と違っていても、
親の主張を信じることが多いものです。

それは彼らの生存が全面的に親に依存しているためです。
そのため、小さな子供は親の言動が支離滅裂であることになかなか気づきません。






0 件のコメント:

コメントを投稿