2015年2月21日土曜日

「医学モデル」というアセスメント


明日の記憶という映画がある。
渡辺謙さんが若年性アルツハイマーに罹患しその進行と支える家族(妻- 樋口可南子)の姿を描いた作品だ。

その中のハイライトシーンで渡辺さんが樋口さんを食器で殴るシーンがある。
殴ってしまった渡辺さんは混乱し(自己コントロールを失っている自分に狼狽している感じ)樋口さんは「だいじょうぶだいじょうぶ、あなたのせいじゃない。病気のせいだから」と慰める。

この樋口さんの言動こそが「医学モデル」でありカウンセラーあるいは人間同士の間でも行われるべき「アセスメント」なのだと思う。

確かに妻を殴った最低の夫である。
殴ったのは事実であり、たとえどれだけ口論をしていようとも食器で妻を殴るなど許されない。
しかし、自己コントロールの欠如を渡辺さんの「人間的な欠陥」ではなく「病気を持っている病人として自己コントロールを失っている結果」としてアセスメントすることで、
殴ったのは渡辺さんだとしても、そこに渡辺さんの意思が反映された結果の行動ではないという「医学モデル」が完成されている。
(もちろん、樋口さんの演じる人が医学モデルを知っているかどうかは不明ですが。いや名医のミッチーに教えてもらっているかもしれない)





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医学モデルとは「病気の症状として不適切な行動を取ってしまったとしても、それはその本人の人間的欠陥ではなく、病気によって操られている」とみることで、
本人の罪悪感や周囲の怒り失望を軽減させる効果がある。

「病を憎んで人を憎まない」
この精神こそが医学モデルを体現しているし”お互い様”の精神があった日本人には定着しやすいのではないだろうか。


ちょっと違うが、小さな子供が公共の場で泣いているとき、特に老人たちは「うるさい、だまれ!」などと叫んでいる場面に遭遇して老人に対して、哀愁が湧いてくることがある。
小さな子どもに大人のような「公共の場では自分の感情をコントロールし迷惑をかけないように行動」できると思っているのだろう?
子どもとは「うるさくて、迷惑など顧みない元気な振る舞いをする存在」というアセスメントをすることができれば多少の不快を感じたとしても、
「だまれ!」などと小さな子どもに対して言い放つことは無いんじゃないかと思う。

「その人にとっての状況を考えれば、たとえ不適切な行動を取ったとしても、それはしかたがないことであって悪意があってやっているわけではないし本人のコントロールが及ばないところで起こっていることなのだ」
というアセスメント。

医学モデルというプロセスのアセスメント、これなしにお金を払う価値のあるカウンセリングなど成り立たないのではないだろうか?と思うのだが現状では、
アセスメントの無いカウンセリングが横行しているような気がしてならない。

虐待を受けたら人間が怖いし自己肯定感は大きく毀損しているだろう。
子育てをしているなかで、言葉が通じない赤ちゃんと正対していれば「殺してしまいたい」と思うことだって、当然あるだろう。

そんな、「自分は人間として欠陥品である」あるいは「社会的には許されない感情だけど盛ってしまった感情」などを「個々人のプロセスから見れば当たり前の事だ」として、感情を肯定していくことで役割の変化を乗り越えていくことをアセスメント型カウンセリングと呼びたい。

人間は、正しい行動をするためにも間違った感情をしっかり発散して肯定してもらっていいんだ。そして、行動は行動で正しいことをしていけばいいんだ。

そんなことを思っています。

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