2013年2月21日木曜日

「尽くす性格」と「共依存」の境界線



「あんた、大切な人はおるね?その人の幸せな様子を思うだけで、自分までうれしくなってくるような人は」(映画 悪人)


幸せには色々な形があるでしょうけれど「この人を幸福にしたい」という人をしっかりもつことでしか幸せをつかむことは出来ないということだけは共通。
自分のことしか大切に出来ない人はみんな孤独になってしまい、いつしか心を病んでいきます。

(「育てにくい子」と感じたときに読む本 佐々木正美 )


結局、安西の言う通り、人間は誰かに幸せにして貰うことも、自分だけが幸せになることも出来ないのだろう。
人間に出来るのは、恐らく誰かを幸せにすることだけなのだ。

(どれくらいの愛情 白石一文 文藝春秋)







 

◇「不安だから尽くす」のはマズい気がする

確かに、上記の引用にもあるように、「誰かを幸せにしたい」という思いを持てた人は幸せになるチャンスを得たことになるのでしょう。
ただ、なんのために相手を「幸せにし(尽し)」たいのか、という出所をしっかり見極めないと、誰も幸せにならないことになってしまうような気がしている。





「誰かを幸せにすることでしか幸せになれない」ことと「共依存(相手の評価でしか自分を保てない)」ことは、非常に近いところにあるように思えちゃうところが、難しい所だ。

端的に言えば出所が「愛」か「不安」か、みたい感じ。





愛から出た”尽くす”は相手が「あなたのおかげで幸せだよ!」と言ってもらえなくてもガッカリはするだろうが自分の全てが否定されたようには感じないだろう。

ところが、不安から出た”尽くす(共依存)”は相手に「幸せだよ!」と言ってもらえないと自分の全てが否定されたように感じるだろう(他人の評価だけが生きる支えだから,それを得られないのは自分の存在価値に関わる)。

自分の不安(自己無価値感)を払拭する(あるいは埋める)ために他人に尽くしているということは、かなり自覚しにくいし誰にとっても「自分が抱えている不安」についてなど、気づかなくて済むなら気づかないで生きていきたいものだ。






「不安」をエネルギーにすると人生が疲弊していく。
自分を粗末にすることは全般に「不安」と関連している。

アルコール依存は、自分を粗末にする典型例ですが、
これも、不安を満たそうとするアルコールに依存する、という性質のもの。

「自分がどう思われるか」ということを気にする心は、基本的に「不安」です。
「こんなことをしたらどう思われるだろうか」「これで大丈夫だったのだろうか」「相手はどう思っただろうか」
というのは、いずれも出所は「不安」。

不安をエネルギーにして「気づかい」をすると、間違いなく疲れてしまいます。

「どう思われただろうか」「もしかしたら、はずしてしまったのではないだろうか」
など次々と不安な思いがわきあがってくるのは、そのため。

そんなふうにチェックばかりして不安に思い続けていたら、疲れてしまいまう。



自分の不安、虚しさ、痛み、悲しみ、自己肯定感の低さ、などなど、自分と向き合うと感じてしまう負の感情を感じないために他人に尽くして自分の問題を棚上げにする姿勢が出所の”尽くす”では誰も幸せに出来ない気がする。

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