2013年8月18日日曜日

「疲れる人間関係」の特徴


あなたは「疲れる気づかい」をしていませんか?
そう尋ねられて、「そんなの当たり前のことでしょう」と思った方が多いのではないでしょうか。
「気づかい」は気疲れ、と思っている人も少なくないと思います。
気を使うのだから、エネルギーを消耗するのは当然の事。
疲れない「気づかい」なんてあるわけがない、と感じられるかもしれません。
気を使う人と一緒に居た後に一人になったり、気の置けない人たちだけになったりしたときの解放感は大きいですよね。
それほど、「気づかい」で消耗していたと言うことなのでしょう。

実際に、気を使うというのは疲れることが多いものです。
「相手はどう思っているのだろうか」「どうすれば喜んで暮れるだろうか」などと相手の顔色をうかがうのも疲れますし、
相手に合わせて自分のやり方を変えるというのもエネルギーを使います。

いわゆる、「空気を読む」のも、気の抜けない緊張感をもたらしますね。

「自分はこの場でうまく振舞えているのだろうか」ということが気になり始めると、
落ち着かなくなり、余計なエネルギーを消耗します。

いずれも、疲れて当たり前です。

 

 

 


○「疲れる気づかい」のエネルギーは「不安」



 

■「疲れる気づかい」=「自分がどう思われるか」を気にする心

「疲れる気づかい」をしている人は、実は「自分が相手からどう思われるか」を気にしています。
相手からよく思われたい、相手か嫌われたくない、相手を怒らせたくない、などという思いがそこにあるのです。


ですから、「疲れる気づかい」をしているとき、実はそこで気にしているのは「相手」ではなく「自分」のことだと言えます。



なぜ疲れるのか、という理由の一つがここにあります。

「気づかい」で消費するエネルギーは、単に相手のために使われるのではなく、
「自分はどう思われているのだろうか」と相手の顔色を読むことに使われるからです。


また、「自分が相手からどう思われるか」というタイプの「気づかい」では、相手の反応によって大きな影響を受けます。
相手が喜んでくれればほっとしますが、そういう様子が見えなければ、
「はずしてしまった」と自分を責めたり、「怒らせてしまったのだろうか」と不安にとらわれたり、
あるいは「感謝の気持ちが無い」と相手を責めたりすることにもなります。
相手の顔色によってこんなに気分が乱高下してしまうようでは、疲れてしまいますね。

 



 





■「不安」をエネルギーにすると疲れてしまう


「自分がどう思われるか」ということを気にする心は、基本的に「不安」です。
「こんなことをしたらどう思われるだろうか」「これで大丈夫だったのだろうか」「相手はどう思っただろうか」
というのは、いずれも「不安」の思いです。

不安をエネルギーにして「気づかい」をすると、間違いなく疲れてしまいます。

不安に取り付かれているときの私達は、心配な点にばかり目がいくものです。
これは、不安がどういう感情であるかと考えれば当たり前のことだと言えます。
人間の感情には、それぞれ意味があるのですが、不安と言うのは「安全が確保されていないこと」を知らせる感情です。
ですから、不安にとりつかれてしまうと、「安全」ということが確認できるまで、「安全でなさそうなところ」を次々とチェックしていくことになります。
「どう思われただろうか」「もしかしたら、はずしてしまったのではないだろうか」
など次々と不安な思いがわきあがってくるのは、そのためです。

そんなふうにチェックばかりして不安に思い続けていたら、疲れてしまいますよね。
また、単に不安を抱えるだけでなく、不安な点を埋めようとして、さらなる「気づかい」をしなければ、と思う人も居ると思います。
それもまた、疲れにつながっていきます。






 


■気づかいで疲れてしまう人は、自分を粗末にしている人


「疲れる気づかい」の中には、「相手を操ってやろう」と思って打算的に行うタイプのものあります。
これは一見、自己犠牲というよりも目標達成型の「気づかい」にみえるもので、「疲れる」どころか「元気になる」ものに感じられるかもしれません。
実際、打算的な気づかいが成功すると、短期的には元気になったよな気がすることもあると思います。
しかし、長い目でみれば、これもまた一つの「自分を粗末にする形」であり、自分を疲れさせるものなのです。

 



■他人を操ろうとする「気づかい」は自分を幸せから遮断する


どういうことかというと、相手を単なる「操る対象」として見るとき、
私達は人との関係から得られる貴重な温かさを感じることができないのです。


人と関わる中で、「こんな自分の事も受け入れてくれるんだ」と感じたり、
「自分のことをそんなふうに気にかけてくれていたんだ」と感じたりすると、
私達の心はじんわりと温かくなります。

また、本当に一生懸命生きている人を見ると、
「なんて愛おしい人なんだろう」「人間って素晴らしいな」と心が温かくなります。
そうして人との関わりの中で得られる温かさは、元気の元、生きていく力になるものです。
そして、自分を愛する気持ちにもつながります。
癒されていない傷がある人は、この温かさから癒しを得ることができますし、
自分に自信がない人は、この温かさから自分の力を感じていくことができます。

人と関わることで得られる最も価値の高いものが、この「温かさ」で、
それをどれほど体験できるかが人生の質を決めるといっても過言ではないほどですが、
他人を操ろうとして「気づかい」をしているときには、
自分をそんな幸せから遮断していると言うことになります。

つまり、自分を粗末に扱っているのです。

自分のスムーズな循環が取り戻せて、かつ、自分を大切にできる。
それが結果としてよい「気づかい」になるのであれば、こんなお得な話は無いと思いませんか??





 

 

■「疲れる気づかい」は周りも疲れさせる


「疲れる気づかい」が疲れさせるのは、「気づかい」の相手だけではありません。周りにいる人たちも巻き込まれ、消耗してしまいます。
「相手を喜ばせなければ」という思いは、完ぺき主義につながります。
すると、自分だけでなく、周りの人もそれに協力すべきだという気持ちになってしまうのです。

自分の「気づかい」に協力しない人、自分の「気づかい」を台無しにしそうな人にはイライラしますし、
協力を要求することにもなります。
「おべっか使い」の人の知覚に居ると疲れることが多いですが、
それはその人がうまく「おべっか」を使えるようにと、周りも巻き込まれるからです。



また、「目上の人にはぺこぺこしているけれども、目下の人には横柄」と言われるようなタイプの人は、
まさに「疲れる気づかい」の典型例だと言えます。
「横柄」と言われる言動の中には、単に「気づかい」がない、というものもありますが、
自らの「気づかい」にあうように、目下の人たちを振り回す、ということも含まれるでしょう。


 


0 件のコメント:

コメントを投稿