2013年8月18日日曜日

「怒っている人」に対する恐れ、についての考察









○M子さんの主張「怒っている男性が怖い」についてのプチチャット



 女の人が怒っているのは、まあまあ大丈夫なの??



M子:こわいけど・・なんとなく男のほうが・・・


 そっかーお父さんが怖い人なのかな?きっと


M子:そうでもないけど..小さい時から激しい夫婦喧嘩沢山聞いてきたからなんとなく怒られるの怖くなっちゃたかな


 そうなんだ。それだと機嫌が悪い人が怖いってのはなんとなくわかるかも


M子:でも男が不機嫌だと何か怖いじゃん・・


 うーん、確かに嫌なんだけど「怖い」っていうのは、あんまりいないと思うんだよね
「なにあいつ、勝手にキレてるの?バカじゃないの」っていうくらいなのが普通だと思うんだけど「怖い」って感じるのはちょっとトラウマっぽいよね



M子:ゲームして悔しいから「あーもう!!!」みたいなこというやん?それだけでも無理(´・ω・`)男で普段怒らない人が言うと特に・・


 そっかそっか。自分が怒られていないし自分が怒らせたわけでもないけど、怖いんだね。


M子: うん。


 それは辛いね。
 いつかはカウンセリングみたいなのに通えるといいね


M子 通話とかでしらない人で怒ってても無理\(>_<)/


 そっかそっか、だから通話苦手なんだね





*****








子どもは客観性を持たない。


世界が自分を中心に廻っていると疑いもしない。
大人になれば何にでもなれると思っているし
家まで石を蹴って帰る事ができれば、素晴らしい出来事が起こると信じている。

客観性を持たない、それゆえに幸せなのである。

私達が大人になっていくにつれ人生が辛くなっていくのが客観性が嫌でも身につくからである。
そして、現実(大人のルール)を学び、生きていかなければならない。
逆に言えば、客観性(≒大人のルール)を知ることもなく縛られることもないから子ども時代というのはとても幸せな時代なのである。


しかし、客観性がないゆえに悲劇もある。
身の回りの出来事を全て自分が主人公であると思って受け止めてしまうことだ。


子どもは全ての出来事の中心に自分がいると信じている。
心理学的には自己関連付けと呼ばれるものである。


客観性がないから身の回りで起こることすべてに自己関連付けをしてしまう。
たとえば、「お父さんがリストラされたのは僕が歯を磨かなかったからだ!」
「お母さんが事故にあったのは僕が良い子にしてなかったからだ」
などなど、子どもの全く関与しようが無い場所で起こったことも全て自分にひきつけて考えてしまう。
そうすると、どうなるか。
上記を例にとれば、両親がケンカをしているときに、
大人だったら、「何か揉め事があってケンカしているんだろうな、私は関係ない。うるさいけど終わるまで待とう」と思うことが出来る。

しかし子どもはすべて自分に関連付けて世界を捉えるので、この場合「私がいい子にしていないから二人はケンカしてるのかな?私の事嫌いだからケンカしているのかな」というな受け止め方をしてしまう。
これが夫婦ゲンカが子どもに悪影響を与えるといわれるゆえんであると思う。


愛するお父さんお母さんが仲が悪いということだけでも子どもの心には大きなショックであるのと同時に、
子どもとは全く関係の無い原因でケンカしていることでさえも子どもは「私が悪いんだ」と受け止めてしまうのである。




これは何も夫婦ゲンカだけではない。
両親の家庭内別居、アルコール依存の両親を持つ、病気持ちの両親、などというときも、
子どもに落ち度はないのに家庭内の空気が悪かったり、子どもとしての甘えたい気持ちを受け止めてもらえない状況において、
子どもは「大人側に余裕がないから仕方ない」などと捉えることはできず「私が悪い子だから、両親は仲が悪かったり、愛してもらえないんだ」と捉えてしまう。

下手をすれば、お父さんが機嫌が悪いまま帰宅してなんとなく不機嫌だとすると子どもは「私、何かパパを起こらせることしたかな?」と、すっごい不安になるものである。
あるいは、病気の両親がいた場合にも「病気だから子どもに愛情を与えてあげる余裕がないんだな」などと大人な見方はできず、
「私が悪い子だから、愛してもらえないんだよね。私ってダメな子なんだ。」と感じて大きな傷を心に残すことになる。
この「愛してもらえない感覚」は生涯に渡って彼女達を苦しめることになるだろう。





子どもにとって、世界(身の回りで起こる出来事)は全て、自分に関係することなのである。
このことを大人がしっかり子どもに接しないと、子どもに「罪の無い罪悪感」を背負わせることになってしまう。




「夫婦ゲンカはたくさんしたけれど、子どもには一切危害を加えてません!」などと自信満々に弁解したところで、子どもの心は大いに傷ついているのである。

こんな環境で幼少期を過ごしてしまうと、自分の身の周りでおきたことをすべて自分にひきつけて考える感覚が残ったまま大人になってしまう。
関係の無い場所で起こっていることでも自分に関連している(責任を取らされる)という感覚が根付いてしまう。

子ども特有の感覚(=自己関連付け)を大人になっても採用してしまうのである



このような「他人の領域の出来事なのに自分の領域の事として扱ってしまう癖」あるいは「自分の事なのにあたかも他人のせいにしてしまう癖」を私は「境界線問題」と呼んでいる。
境界線問題を抱えいていると、上記のチャットの例のように、「自分の全く関与しない場所で他人が怒っていても、それを自分に関連していることだと思ってしまう」ということもおこるし、
「暴力を振るったのは私の態度がいけなかったからだ」と恋人の自制の効かなさをカバう形でDVの被害者になりやすくなることもある。

『元彼からのDV紛いの行為や、モラハラは、当時あまり嫌だと感じなかった。わたしが悪いからだと思ってた。』とはあるDVおよびAC女性の語りである。







そして、このような幼い頃に根付いた感覚を大人になっても私達はどこかで是正が入らない限り続けていく。
疑うことなく、続いていく。
子どもの頃に染み付いた感覚というのは想像以上に根深いものである。
境界線問題を抱えている事に気づかずに大人になってしまうと、非常に生きづらくなってしまう。

下記を読み進めてみて、少しでも境界線問題から脱するヒントになれば幸いである。
「私、なにか悪い事したのかな?」と不安になったときには「これは境界線問題のせいでおこる感覚なんだ。私は関係ないんだ悪くないんだ」というふうに思えるようになってもらえたらこんなに幸せなことは無い。





























○「自分の問題」と「他人の問題」を区別する


心の病になる患者は他人との「境界線」の問題を抱えた人が多い。

何か問題に直面したときに、それが自分の問題なのか相手の問題なのか区別できていないということです。


たとえば、夫の機嫌が悪いとき
「仕事で何かあったのかな」と思えばストレスにならないが
「自分が何か悪いことをしたに違いない」ととらえると大きなストレスになる。
つまり、夫の機嫌が悪いという同じ現象に直面した場合に、それを「相手の問題」ととらえるか
「自分の問題」ととらえるかによって、受け取るストレスがまるで違ってしまうと言うことです。

心の病になる方は多くの事を「自分のせい」と受け止めてしまいまし、うつ病などになると、そういう傾向がますます強まります。


「相手の問題」と突き放すのは冷たいのではないか、と思われるかもしれませんが実際には「相手の問題」としてとらえたほうが
私たちは優しくなれます。
「自分のせいではないか…」と思い込むとき実は私たちは自分のことばかり考えています。

「自分は何かまずいことをしただろうか」「自分は相手に嫌われたのではないか」というような
ことばかりを考えてしまい、意識が相手に向かなくなり結果的に相手の立場に立って考えてあげることが出来なくなってしまう。
また、自分自身の悩みを話したら、相手が「私のせいね」と反応する、
というのも、かなり重苦しい状況です。
いちいちそんなふうに反応されてしまうと、相手に気を使わなければなくなり、悩み事など相談できなくなります。








 




■親の境界線の問題


このような問題を抱える人はどのような環境で育っていることが多いのでしょうか。
第一には親も「境界線問題」を抱えている、というケースがあります。
親も境界線の問題を抱えていることが多い。


自分自身が「境界線」問題を抱えていると往々にして同じ視点を子どもに求めます。


「あの人の機嫌が悪かったのは、あなたが何かしたからではないか」
というようなことを言われ続けて育つ子は、当然のこととしてそのような視点を自分でも身に付けていきます。

一方、「あの人は不機嫌で辛そうね。何かあったのかしらね」と親が言うのであれば、子どもも同じようにとらえるようになります。
また、何か言うたびに親が「お父さんのせいだと言うのか?」
というふうに自分に関連付けて反応してしまうような環境では、
子どもは常に「こんなことを言ったら相手にどう思われるだろう」と心配するようになります。
つまり「自分の発言」ができなくなるのです。

治療の中で患者さんに自己表現の練習を始めてもらうと、練習相手である家族が
「そんなふうに受け取られるなら、もう何もいえない」と逆切れしてしまうということが時々あります。

これも実は「境界線」問題です。

患者さんがどう感じたとしても、それが患者さんの気持ちなのです。
家族が言ったことを患者さんが誤解したのであれば誤解を正せばよいだけです。
最初から相手に正確に理解して欲しい、と思う人はまさに「境界線」問題を抱えています。

親子でも、夫婦でも、他人なのですから、受け止め方は違っていて当たり前で、それを調整するためにコミュニケーションがあるのです。

よくDVや虐待の加害者が「相手が自分を怒らせた」という言い方をしますが
これも「境界線」問題の顕著な例の一つです。
自分を怒らせないように気を使うのは相手の責任、というような考え方は
まさに「境界線」の深刻な障害であると言えます。
暴力の加害者にも関わらず「お前が怒らせたせいだ」と言われてしまうと、
本来自分の責任ではないことまで自分の落ち度だと感じてしまい、自尊心が低下します。
そして、「相手を怒らせないように気をつけなければ」と
境界線の引けないコミュニケーションパターンを続けてしまうことが多い。


 

 




 

■顔色を読んであげないといけない親




第二のケースは、大人の顔色を常に読まなければならないような環境です。
親が「言わなくても自分の心を察して欲しい」というタイプの人だと、子どもは顔色を読むようになります。
また、親が感情的に怒るようなタイプの人でも、子供はやはり親の顔色を読むようになります。

「自分が何をしたか」で叱られる子供は、自分の価値観と自尊心を育てることができますが、
「親の機嫌がどうか」で叱られる子供は、相手の顔色を伺うようになります。
それしか判断の基準が無いからです。

親がアルコール依存症というような場合も同じです。
親がどのくらいアルコールの影響下にあるかで反応がガラリと違うからです。
いつ地雷を踏むかわからないので、常に親の顔色を伺いながらビクビクしていなければなりません。


大人の顔色を読まなければならない環境で育つと、
なぜ境界線を引くことが難しくなるのでしょうか。
それは「自分が相手にどうして欲しいかを表現するのは自分の責任」という考え方が身につかないからです。


相手の不機嫌が本当に自分のせいだったら、相手がそれを伝えるべきなのです。
うまく言えない人もいるでしょうがそれはその人の問題で、その人自身の課題として努力していく必要があるのです。
それを「自分が読み取ってあげなければならないこと」と思うことは相手の成長の機会を奪うことにもなります。
また、そのように考えがちな人は他人にも同じように求めます。
自分がどうして欲しいかを表現しなくても相手は察するべき、というふうに思ってしまうのです。
そして、そうしてもらえないと「相手は自分をないがしろにした」と感じてしまうのです。
これもまた大変ストレスのたまる受け止め方で対人関係のトラブルにつながります。

本人がいくら他人の顔色を読んでいるつもりであっても、実際には正しく読めていないことのほうが多いものです。

他人の顔色を読むタイプの人に多いのが、
「自分は正しく相手の顔色を読んでいる」という思い込みです。
これが相手の実際の気持ちとずれていると相手が求めていないものを押し付けることにもなってしまいますし、
役割期待のずれが広がっていきます。
相手の気持ちは相手に聞いて見なければわからない、という当たり前のことが
「境界線」問題を抱えてしまうと分からなくなってしまうのです。

以上に見てきたように、子どもの「境界線」感覚を育てたければまずは大人が自らを振り返る必要があります。
「言葉で言わなくても察するのが日本の文化」と思われるかもしれませんが
「相手が察してくれるはず」と言えるほどのコミュニケーションを日頃から積み重ねていない、
ということも頭に入れておく必要があります。

境界線をきちんと引くことによって、
「自分が思い込んでいる相手」ではなく「本当の相手」と向き合うことができますから
より人間らしいつながりを作っていくことが出来ると思います。)












 


■友達親子は親が自分を優先した怠惰


親の中には「境界線」の問題を抱えた人も居ます。
境界線問題とは何かというと、それが「自分の問題」なのか「相手の問題」なのかがわからない、ということ。
例えば、過干渉というのも「境界線問題」の1つです。
ある程度のリスクを引き受けて試行錯誤するのもその人の人生なのに、
「失敗させてはいけない」と相手の領域に踏み込んで色々と行動を支持するのが過干渉だからです。


「子どもに嫌われたくない親」という存在。
だから子どもと「当たり障りのない関係」しか持てない。これは結構深刻な問題のような気がした。
「子どもに嫌われたくない」の場合、主役は明らかに子どもではなく大人だから。

子どもの正しい生育過程には大人が壁になってくれることが必要なんだけど、親が子どもの過程ではなく自分自身の立ち場を気にしていると壁になれない。
おかげで子どもは正しい反抗期を通過できない。親が子どものニーズ(反抗期)ではなく親自身のニーズ(子どもに嫌われたくない)を優先してしまうと、
子どもは正しい反抗期を送れずに大人への生育過程をきちんと行えずに心が病んでしまったりあるいは20代30代になってから反抗期が現われる、という時代になってしまうのである。

親が自分が悪者になるのを恐れて子どもが通るべき過程を妨害してしまうのは最悪。
その最悪は、「自分自身の事ばかり感ガル段階を卒業できていない人間が親になったこと」に起因するのではないでしょうか。




 

 

■「境界線問題」の連鎖を断ち切ろう


こうしてみてくるとわかるように、「境界線問題」というのは、
本来、自分がコントロールできない、あるいはコントロールすべきではない「相手の領域」を
コントロールしようとする姿勢のことだといえます。

中には、境界線を守ろうとする意思が全くない人とも居ます。
それは多くの場合、自分自身が、境界線意識のない育てられ方をした人です。


例えば、親から虐待されて育った人は、親から常に「相手の顔色を読みなさい」というメッセージを受けながら生きてきています。
虐待というのは、単にその人の機嫌が悪くなれば起こるもので、そこに客観的なルールはありません。


虐待されるのを防ぎたいのであれば、
一生懸命顔色を読んで、大人を怒らせないようにするしかないのです。

また、虐待されたわけではなくても、「相手の顔色を読みなさい」というメッセージを受けて育ってきている人は
案外たくさんいます。
言葉でのコミュニケーションが少ない家庭に育った人に多いものです。
そして、それに従って相手の顔色を読み、
また、自分の顔色を読ませる(きちんと伝えずに気持ちをわかってもらおうとする)生き方をしていると、
それがまた子供に伝わっていくことになります。
境界線問題はそんなふうに連鎖するのです
しかし、自分が意識することで、その連鎖を断ち切っていくことも可能です。


 

 

 

 


■「つい怒ってしまう」ときは、境界線問題を見直す


境界線問題を抱えていると、「つい怒ってしまう」ことが多くなるはずです。
なぜなら、「子供には子供の成長プロセスがある」「子供には子供の感じ方がある」
ということを認めるのが難しいから。

これは、子供との間に境界線が引けていない、という状況です。
子供をまるで自分の所有物のように扱ってしまう、という人には
そういうタイプが多いものです。

子供との間に境界線が引けていないと、
子供が自分の「でき」を示す通信簿のように感じられてしまうこともあります。
子育ての出来がまるで、自分の成績のように思われてしまうのです。

成績がよければ誉められたのと同じように、
子供が「いい子」に育っていると誉められる、というような感覚です。
これは、子育てのためにキャリアを断念した、などというときに
強く見られる場合もあります。
「あれだけの仕事の断念したのだから、立派な子に育てなければ」などと
思ってしまうのですね。

このように子育ての「でき」に目が行ってしまうと、
子供の現在を離れることになってしまいます。
「どういう子に育つか」というところばかり見てしまい、
現在子供が何を思っているのかに関心が向かなくなってしまうからです。

また、「こういう人間になってほしい」という思いが強すぎると、
子供に対して非現実的な期待を押し付けることにもなってしまいますし、
現実とのずれに、つい怒ってしまったり、子供を萎縮させたりして、
子供が本来持っている力すら発揮させられなくなってしまうかもしれません。

そもそも、子供の現状は親の「でき」を示すものだと考える必要などないのです。
子供が持って生まれるものを親は決めることができませんが、
その子がどういう人生を歩むかは、かなり多くの部分が「持って生まれたもの」と関係しています。


生まれた後も、特に子供が家庭外で過ごす時間が長くなってくると、
親は子供が「何を体験するか」をコントロールできなくなります。
家庭内の体験でさえも、子供本人の捉え方は親の捕らえ方と違いますから、
本当のところ、子供が「何を体験するか」を
親がコントロールする事はできないのです。








■言われていないことは、なかったことにする

それぞれの「領域」ということを考えてみると、「自分の領域」のことを知って伝えることができるのは、本人だけです。
何を考えているのかわからない人、というのは、「自分の領域」に責任を持って表現していないと言うこと。

「本当のところ何を考えているのだろう…?」と疑心暗鬼になっていくと、どんどん「コントロール感覚」が揺らいでいくものです。


それよりも、「何も言わないということは、今本人は何も言いたくない、あるいは何も言えない、あるいは何も考えていないということ」という現実を
受け入れてしまったほうがラクです。
それ以上を追求すると、相手の「領域の侵害」にもなってしまいます。
また、何も言わない人の顔色を読むようなことをしていくと、ますます本人は「自分の領域」に責任を持たない人になってしまいます。
関係性というのはすでにできているものではなく、育てていくもの。
「言わない限り、なかったことにするよ」という方針を貫いていくことは、お互いの「領域」を尊重し合える、豊かな関係性を育てることにもつながっていきます。






























○怒り(叱責)に打たれ弱い人の生育環境の特徴


少し脱線してしまいますが、怒りに関係するテーマで「怒り(叱責)に打たれ弱い人」についても触れておきます。
ざっくり言えば自己肯定感の低い人は「仕事のスキルの否定」と「人格の否定」を一緒くたにして考えてしまう傾向が強いです。

たとえば、会社でミスをして怒られる。
このときに上司が怒りをぶつけているのは仕事の出来不出来についてだけです。
仕事のスキルが上司が要求する水準に到達していないだけなのです。
そうしたときには、仕事のスキルをアップさせることだけに気をつければいいはずなのですが、どういうわけか、
「私そのものを否定されてしまった」とある意味で勝手に傷ついてしまう人たちが若者を中心に増えていて、精神論で乗り切ってきた世代の上司達は「近頃の若い人たちは打たれ弱くて指導できない」と居酒屋で嘆いているわけです。

このことは、核家族化が進んだことや共働きが増えて、子供が幼少期に自己肯定感を育ててもらいにくい環境と大いに関係すると僕は思います。
そして、この先も働くことに余裕のある時代は戻ってこないでしょうから、自己肯定感の低い人たち、つまり打たれ弱い新入社員が増えていくのは避けられない流れのように思えます。

人間は小さいときには何も出来ません。
何も出来ないときに愛してもらってこそ「私は無力でも生きている価値があるんだ」という感覚を自分の中に根付かせることができるのです。
そして、何も出来なくても価値があるという感覚が根付いてこそ「仕事のスキルの否定」を「人格の否定」と受け取らずに上司の叱責をスキルの向上の糧にできるのです。

自己肯定感の低い人すなわち、「何か価値のある行動をしないと認めてもらえない」という感覚が根付いている人たちにとっては、「仕事のスキル=何かを達成する」を否定されてしまったら、「何も達成していない自分自身の価値そのもの」を否定されたような感覚に陥ってしまい、
ひどいショックを受けてしまうのです。

なので、怒り(叱責)を受けたときに「仕事のスキル」ではなく「私の価値そのものを否定された」とイチイチ感じてしまうような自己肯定感の低い人は、
なかなか社会で生き抜くのは厳しくなるのではないでしょうか。


そして、本物の自己肯定感というのはほとんど幼少期にしか根付かないと聴きます。
だからこそ、幼少期に子どもに愛を与えらない親に育ったことはある意味で不運なことなので、「弱いのは自己責任」という現代社会の論調にはどうしても賛成しかねるのです。


自己肯定感を「何かの達成(テストの点数、部活動の成績、良い大学、良い会社、いい人になる、相手の要望を優先する、などなど)」で補わなければならない人にとっては、どうしても、
「スキル」と「人格」との区別が難しく、スキルの足りなさを指摘されただけでも「人格そのものを否定された」と感じてしまう。

自己肯定感が既存しやすい時代は加速していく。
だからこそ、本物の自己肯定感を与えてもらえた人だけが、社会を生き抜き、自己実現に向けて走っていけるのではないかと思います。







*****





まとまりがありませんが、怒りの受け止め方も自己肯定感のあるなしで、その人にとって有益なものになるか有害なものになってしまうのかが決まってしまうというのは、
人生とは運ゲーだなぁ~となにやら寂しさがこみ上げてきました。




0 件のコメント:

コメントを投稿