2017年9月23日土曜日

知的障害・発達障害の母親に育てられたら




生きづらさの陰に知的障害・発達障害の母親に育てられたことがあるかもしれない






◇軽度の知的障害


母親は人間理解の浅い人だった。

炊事・洗濯・掃除と子育ては一通りきちんとできていた。
だから「ネグレクト」ではない。
しかし、心理的なケアができない母親であった。

絵本を与えることはできるが、
それを読み聞かせたり、子どもの感想を聞いてあげられない。

ご飯を作ることはできるが、
「美味しいかい?美佳ちゃんはお肉が好きだね」と言ってあげられない。

子どもが転んだ時に抱き起こすことはできるが、「おー、痛かったね。よく我慢したね」と言わない。

母親は娘を叱ったこともない。

心理的交流がないと、子どもは自分が何が好きで、何が美味しくて、何をがまんしなくてはならないのかが、分からないままに育つ。


彼女の母親は軽度の知的障害だった。
母親に悪気はない。

しかし、娘の心理的な成長をネグレクトしてしまったため、美佳さんは重い「生きにくさ」をかかえるようになった。

ネグレクトとも、心理的虐待とも異なる、心理的ネグレクトである。










◇軽度発達障害




■何かがズレていた母

家族の事を詳しく聞いてもらったのは初めてです。
聴いてもらえて嬉しかったです。
私も先生に聞かれて、母親が人と違っているところを色々と思い出しました。

あなたは大変な家庭で育ったんですね。
失礼な言い方ですけど、普通とはだいぶ違う家庭環境だったと思います。
大川さんのお母さんは普通のお母さんとは違うところがありますよね。
それであなたは人とは違う苦労をしたと思います。
辛かったと思います。
あなたは親に自分の気持ちを受け止めてもらったことがないんですね。

ええ、友達の母親とは違っていました。
やっぱり、母親はおかしなところがありますか?

ええ、残念ですが、そんな風に思います

母親は、人の気持ちを察することが出来ないんだろうと思ってきました。
いつも「自分は悪くない、悪いのは全部、周り」で…、反省するということができない人でした。
私には理解できません。
母親にはなにか、病気とか障害とかあるのかと思ったことがあります。
認知症とか思いましたけど、昔からだと違う。

でも…今日は言ってくれてありがとうございます。
そういわれたのは初めてです。



大川さんは、それ以上聴こうとしなかった。
彼女の心の中には静かではあるけれど、大きなショックが広がっているようだった。




■親が「いない」と心理システムが出来上がらない

大川さんの母親に「発達障害」があるのは間違いなかった。
医学的には「軽度発達障害」の部類に入るだろう。
その元で育った恵子さんは
「ネグレクト」に近いものを受けていたと考えられる。

大川さんは衣食住の世話はしてもらったが、精神的なケアを受けることがまったくなかった。
つまり、誉められたり、叱られたり、甘えさせてもらったり、厳しく教えられたり、一緒に考えたり…という親子の交流が無かった。

それが、心の成長に致命的な「傷」を残した。
もちろん、母親が悪いわけではない。
母親は子どもを育てるのに一生懸命だったに違いない。
しかし、残念ながら人間理解の「能力」が低かったので、子どもに生き方を教えることができなかった。

恵子さんは「母親を知らない」。
だから、恵子さんは「子どもになったことも無い」。
そして、親の生き方をコピーできなかった恵子さんには「普通の」心理システムができなかった。



子どもは母親を通じて、この世界を知り、自分を知り、人を知り、社会を知っていく。
その最初の手がかりが小さい頃の母子関係の中にある。
毎日、子どもは母親の反応を見る。
それを基準に自分を知る。
自分は、いい子であるか、悪い子であるか、
そういう自分が分かる。

しかし、恵子さんには母親のポジションを取ってくれる人がいなかったので
彼女は自分がいい子なのか、悪い子なのか、
うまく出来たのか、出来なかったのかわからなかった。
だから、自分がどこにいるのか、自分が誰なのかを確認できなかった。
彼女は自分を知らないままに大人になった。
恵子さんの母親は食事を出してくれただろう。
でも「美味しいかい?」とは聞いてくれなかった。
すると、恵子さんはそれが美味しいものなのか、
普通のものなのか、あるいはマズいものなのかを確認できない。
身体は美味しいものを食べて、
満足を感じているが
一方で、それが何なのか理解できない。
この食事は人間的に社会的に喜ぶべき事態なのか、あるいは、ただの普通の出来事なのか、
その結論が出せないのだ。




■母親の障害を受け入れる

「先生、私の母のおかしなところ、障害ですよね、どんな障害なのですか?」
4ヶ月たって、彼女はあらためて、母親を知る覚悟が出来たのだろう。
私医学的な説明を伝えた。

軽度発達障害の一番の障害は人間関係の理解が十分にできないことである。
他人が何を考えているのかを推測できないので子どもの気持ちが見えない。

だから親の立場に立てない。

子どもと一緒に共感したり、
喜んだり、落ち込んだりが出来ない。
子どもからすれば
自分をわかってくれない人、ただ同居している「あの人」になってしまう。
同じ理由で、社会の共通の理解、つまり「普通のこと」が何であるかを理解できないから、
子どもにも常識、つまり、当たり前のことや、何がよくて
何が悪いかということを教えられない。…と説明した。





ありがとうございます。よくわかりました。
小さい頃から、母親には相談できず、結局は
あの人のなだめ役をやってきました。
興奮し始めると止まらない人でした。
分かってもらいたいのはこっちなのに…
誰も相談相手がいませんでした。
自分で決めていくしかありませんでした。
だから、いつも自信がなかったんです。

母親の事実、自分の家の事実、そして自分が「普通」でないことの事実を知った。




■何も解決していないことが分かりました

母親の事実、自分の家の事実、そして自分が「普通」でないことの事実を知った後も、大川さんは同じペースでカウンセリングに通ってきた。

何度か、「分かってもらえて嬉しかった」と語った。

それが心の安らぎになっていることは確かだった。
その証拠に、彼女の生活は少し、変わった。買い物とか映画とか美術館とか、前と比べると出かける機会が増えた。

仕事と生活の緊張感も、少し、和らいだ。
しかし、彼女の孤立感は埋まらなかった。
彼女は話し続けた。


やっぱり独りぼっちでした。
長い間ずっと緊張して生きてきました。
私の今までの時間ってなんだったんだろうって…考えます。
自分が無条件にここに居ていいという実感が持てません。
みんなに受け容れられているという感じを知りません。
「みんなと一緒」がないんです。
そこだけ欠けています。
本当はそこの気持ちを埋めたかったんです。
そう思ってずっと生きてきました。
でも、それが自分の努力では埋まらないと分かりました。
うすうすは分かっていましたけれど、それがはっきりして重いです。
家に帰って鍵を開けて部屋に入ったときに
私は分かってくれる家族が欲しかった、みんなと同じになりたかったんだな、と思いました。
でも、そういうことを考えるのはもう疲れたというのが正直あります。
だから、クリニックに来るのも気が重いです。

小さい頃から自分の気持ちにフタをしてきました。
産んでくれなければ良かった。
選べるんだったらあんたたちのところには来なかった…
そう言いたかった。
それが言えた。それはよかった。
でも、何も解決していない。
ここにきて、自分が悪くないと分かってよかったです。
自分の気持ちをいえてよかったです。
でも…何も解決しないことも分かりました。














自分の母親が発達障害があったという事実を知ると全てが変わります。
ここで重要なのは、人は自分に都合が悪い事実は心の奥深くにしまっておく事が出来る高度な生き物、という事です。

私自身、治療を受ける前までは母親について「怒ると怖いけれど、普段は優しい人」と思っておりました。
なので「あなたの母親は発達障害があります。」と言われた時、異邦人の封印が解かれます。

例えば普通の母親に育った人が同じことを言われても、まったく心に変化はないと思います。
しかし被虐者の場合、心は大きく動き出します。

障害がある事を知ってから昔の思い出がバシバシ出てきます。もう忘れている事ですら。
そこから今まで見てきた世界が、他の人とまったく違うと気付きます。幻だったと気付くわけです。
すなわち「人はみんな(母親のように)自分勝手でわがままで、いつ怒るか分からないし、
愛情なんて成立してないし、行動に一貫性がまったくない」
という認識が外れます。
そして「普通の人」と関わっていくうちにだんだん真実が分かってくるのです。
例えば親子の触れ合いを町で見たりすると、「ああ、これが普通の親子のやりとりなんだ。優しいな。」
など、「普通の世界」が分かってくるのです。
今まで自分が生きてきた「世界」は終わるのです。ようやく多くの人が暮らす「世界」へ行くことができます。
(残念ながら最初から普通に育った人とまったく同じ感覚ではないです。完全には入り込んでない状態です。)
要約すると、自分の母親は障害ゆえに人を愛する能力がないと分かれば、
「自分は愛されなかったのではないのだ、ならば私が私を愛さなければ」と思うようになります。
そして「自分は自分である」という感覚はずーっと続きます。
「自分はダメなやつなんだ」という愛情不足による自責感も消えます。
こちらからの引用)







心理的虐待は子どもの心の中に奇妙な、矛盾した母親像を作り出す。
彼女は、いつも怖い母親だったと振り返る一方で、「食事もお弁当も作ってくれた」「叱られたことはなかった」、だから母親は優しい人だった、と言う。

母親は怖いという冷たい距離感と、母親は優しいという思いとが同居する。
心理的虐待を続ける母親が、子どもに優しいはずはない。

叱らなかったのは、子供に無関心だっただけだろう。
しかし、放っておかれたことを「優しかった」と被虐待児は翻訳して理解する。

食事を作ってくれたのは、家族の食事と一緒だったという理由だけだろう。
しかし、彼女はそこに子への愛情を読み込む。




「小さい頃、学校で嫌なことがあって報告したことがある。でも、母からは一度も『大変だったね』と言われたことがない。『あら、そうだったの』と、いつも見放された言い方だった。無関心だったのだ。それが怖くて何も言わなかったし、学校で嫌なことが起こるのは私が悪いからだと思うようになった。私はどんどんダメな子になっていた。」













普通の人は大人になる過程で、義務を果たせば親からの愛情はもらえた。
被虐者は義務を果たしても愛は得られず、義務だけが終わりなく続いていく。
「あなたは普通の人の数倍努力して生きてきた、それは尊いことであるが、ただ、あなたが求め続けたものは初めから存在しなかったのだ」

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