◇子どもにも大人と同じような期待をしていないか?
子どもに大人と同じ振る舞いを期待していませんか?
”大人と同じ”というのは、今の時代の言葉で言えば「空気を読んで行動すること」と近い意味で使われると思われます。
つまり、精神的に未熟で社会の常識など知るよしもない子どもに、
「他人に迷惑を考えて行動しなさい!」という”理性(大人のルール)”を押し付けているんのではないでしょうか???
「子どもへ期待している事が現実的かどうか」という視点は、
子供と付き合っていくうえでも、とても役立ちます。
例えば、「友人と大人同士の話をしている時に、自分の用事ばかり言いにくる子供にイライラする」という状況を考えて見ましょう。
話を中断されるのは確かにイライラしますが、
でもそれを単なる「イライラ」ですませないで、
「自分は子供にどういう期待をしているのだろう」と考えてみてください。
すると、そこにある期待は
「大人同士の話の空気をよく読み、きりのよいところで必要最低限の用事を話しかける」
というものであることに気づきます。
こんなことを小さな子供に期待するのは明らかに非現実的ですよね。
子供に期待していることをこうやって書いてみると、
おかしいくらいに「子供らしくない姿」を期待しているものです。
ただイライラしているときよりも、ここまで明確になったほうが、
怒りを手放しやすくなりますね。
その上で、そのこの発達段階や性格にあった期待に換えてみましょう。
保育園のお迎えの直後だったら、やっと会えたお母さんに色々と報告したいこともあるでしょう。
また、弟や妹が生まれたとき時には、お母さんの愛情が全て赤ちゃんに取られてしまうような気がして、
「ちゃんと愛してくれている?」と甘えたくなるものです
■”大人の当たり前”を子どもは理解できるのでしょうか?
現実的な期待についてさらに理解を深めるために大人が絶対に忘れてはならないのは、
『大人にとって「当たり前」のことでも子供にとっては、「当たり前」ではない』ということです。
なぜかというと、相手に何らかの期待をする才には、自分側の「当たり前」が基準になっていることが多いのですが、
相手にとっての「当たり前」がわからなければ、現実的な期待はできないからです。
今、大人が「そんなの当たり前でしょ」と思うことは、
今までの人生経験の積み重ねの結果としての感じ方なので、
常識と呼べるものを身に付けていない子供に期待するべきでない。
■子供が嘘をつくとき=追い詰められたとき
子供のうそというのは、大人の嘘とはちょっと性質の違うものです。というのも、子供は追い詰められると簡単に嘘をつくのです。
問題解決法を幅広く知らないことがその理由ですが、
「どうしよう」と思うと、「とりあえずその場を誤魔化す」以外のことを思いつかないのです。
■子供は本当は何がしたかったのか
親の役割は、子供に、ものごとに対処するいろいろなやり方を教えていくことです。
「このやり方はだめだ」ということだけを伝えても、
別のやり方を伝えてあげなければ将来につながりません。
この体験を「新しいやり方を学んだ」という体験にするのか
「怒られて否定された」というだけの体験にするのかは、親次第です。
もちろん、前者は成長につながり、後者は自尊心を低下させることになるでしょう。
こんなときにも「インタビュー」が役立ちます。
ただし、聴きたいのは、子どもが「なぜそんな事をしたのか?」ではありません。
「なぜそんなことをしたのか」の答えは、
多くの場合「他のやり方を知らなかったから」なのです。
いろいろなやり方を知っていれば、「なぜその選択肢をとったのか」という疑問も生きてきますが、
知らないのですからその疑問にはそもそも意味がありません。
ここで聞きたいのは、子供が「本当のところ何がしたかったのか」です。
何をしたかったのか、その本当に意図するところがわからなければ、
適切なやり方を教えることも出来ません。
ですから、まずは悲しい気持ちをぐっとこられて、
「本当はどうしたかったの」と聴いてみましょう。
これなら、「どうして?」という質問とは異なり、
聞き方に非難のトーンはありません。
また、「本当は何かいみのあることをしたかったんだよね」
「本当は親を怒らせるよなことをしたかったわけではないんだよね」
という暗黙の理解が含まれており、子供を信頼する心が伝わります。
つまり、子供を安心させる効果もあるのです。
■「どうして~したの!」は非難の言葉
「どうして~したの!」という発現は、質問の形をとってはいますが、実際には非難の言葉です。
「~しなければよかったのに!」「~するなんて駄目な子!」と言うのと
同じ意味になってしまうのです。
つまり、「どうして~したの!」というのは
つい怒ってしまったときに出る言葉なのですね。
怒ってしまうということは、期待と現実がずれていると言うこと。
自分が何を期待していたのか、ということを少し考えてみると、
「~しないですませられたはず」という期待があることがわかります。
この例では、悪いことだとわかっているはずなのにという期待が怒りにつながっています。
しかし、人生経験の短い子供は、ものごとのやり方を、
ごく限られたパターンしか知りませんし、何が社会的に適切かということも十分に知りません。
ですから、親の「~しないですませられたはず」という期待そのものが、
現実的ではない可能性があるのです。
■子どもの事情を考えると「被害者」をやめられる
お気づきかもしれませんが、こうやって考えてみることそのものが、怒りを落ち着かせる作用を持っています。ただ、「話を中断されてイライラする」と言っているときとは心の状態が変わるのです。
自分が子供の「被害者」というような感覚で居ると怒りを感じやすくなります。
なので、「子供には子供の事情がある」と認識すると、
「被害者」という感覚が無くなります。
すると私達は優しくなるものです。
そして、子供の事が、事情を抱えながらも一生懸命に生きている愛おしい存在に見えてきます。
子供が駄々をこねて泣き叫んでいる時には憎らしくすら見えるけれど、
泣きつかれて眠ってしまった寝顔を居ると無性に愛おしくなる、ということもあります。
子供の「一生懸命さ」「ひたむきさ」が感じられるのはそんなときなのです。
■つい怒ってしまう時=子供にあった期待を知る時
他にも、「つい怒ってしまう」ことにつながる一つの考え方が「他の子は出来るのに」というものです。
親にとって、自分の子だけが取り残されるのはとても不安なものです。
ですから、親が子供に対して抱く期待として、「他の子とおなじようにできること」は多く見られます。
しかし、忘れてはならないことがあります。
一人ひとりの子供が違った育ち方をするのです。
どんな親も、子供に出来るだけの機会を提供してあげたいもの。
でも、とても内気な子や、ものごとへのこだわりが強い子にとっては、
一つの機会になれるだけで精一杯、とうこともあります。
そんなときに、「どんな場にも積極的に出て行く」ということを期待してしまうと、
その子にとっては現実的ではない、ということになります。
他の子にとっては現実的な期待でも、
その子にとっては現実的ではない、ということになります。
そして、その非現実的な期待は親も子も苦しめてしまいます。
「つい怒ってしまう」のは期待と現実が異なるとき。
まさに、どんな期待があっているかを知るチャンス、日頃の思い込みを修正するチャンスなのです。
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